世界最高のジャズレーベル
もちろん異論はあるでしょうが、しかし多くのジャズファンは、ブルーノートのことを「世界最高のジャズレーベル」であると認めているはずです。
控え目に言っても「世界屈指のジャズレーベル」といっても過言ではないでしょう。
それには理由があります。
その大きな理由は、アルフレッド・ライオンという、ブルーノートの創業者にしてプロデューサーの「ジャズに対する愛情」ゆえに、という言葉に集約されても良いように思います。
ジャズとジャズマン(あるいはジャズ周辺のミュージシャン)に注いだライオンの愛情。
これは、ビジネス的な考え、すなわち「儲かる・儲からない」という尺度を超えて、「自分の好きな音を記録し、世に送り出すのだ!」という強い信念に貫かれたものでした。
30年近くに及ぶプロデューサー生活を送ったアルフレッド・ライオン。彼はその間、大好きなミュージシャンたちとともに精力的にレコーディングをし、作品を世に送り続けてきたのです。
そして、それらの作品の多くが不朽の名盤として燦然と輝き続けていることはいうまでもありません。
リハーサルをさせていた
もっとも、愛情だけでは「世界最高のジャズレーベル」たりえません。それだけでは、単なる好事家の趣味レベルにとどまってしまうでしょう。
愛情だけではなく、アルフレッド・ライオンは、もしかしたら無意識だったのかもしれませんが、ジャズのレコード作りにおいて、様々な面で画期的なことを行っていたのです。、
例えばリハーサルに関して。
彼は、ジャズマンにギャラを払って練習の日を儲けました。
これは、非常に珍しく画期的なことでした。
現在でも予算の関係などで、ジャズのレコーディングではリハーサルが行われないことが多いです。
(ジャズの売り上げはロックや歌謡曲、ポップスなどの売り上げの1/10から1/100程度なので、制作には十分な予算を使えないのが今も昔も変わらぬ現状なのです)
だから、レコーディング当日、スタジオに集まったジャズマンたちが、スタジオ内で簡単に打ち合わせをして、その流れでレコーディングをしてしまうというのが一般的です。
もちろん、ミュージシャン同士が入念な打ち合わせなしで、「せーの!」で録音できてしまうという側面があるところもジャズならではの魅力といえましょう。
しかし、完璧主義だったライオンは、そのような行き当たりばったりの勢いに任せたレコーディングを良しとしませんでした。
それは、ドイツ人の完璧主義的な血のなせる業だったのかどうかは定かではありませんが、とにかくライオンは、レコーディングをするからには、きちんと後世に残る立派な「作品」にしたいという欲があったのでしょう。
事前にきちんとリハーサルをジャズマンにさせることで音楽の完成度を高めたのです。
しかも、リハーサルに対してもギャラまで払っていたのです。これは、前例のないことでした。
ブルーノートの作品に優れたものが多い理由は、はきちんとリハーサルをしていたことも大きく影響しています。
アルフレッド・ライオンはリハーサルについてこう語っています。
「私は、良い音を録音したかったんだよ。そのためには、金銭的に多少の無理をしてでもリハーサルをしておいた方が良いと考えた。さっさと仕上げて、たくさん売りまくろうという気持ちは全くなかったよ。そういうことは他の人たちの仕事だ。だって私はジャズが好きでこの世界に入ったんだからね。納得の出来ないものは作りたくなかったのさ」
常にミュージシャンサイドに立ってレコード作りをしたライオン。
この姿勢がジャズマンたちから信頼された最大の理由でしょう。
食事を出した
アルフレッド・ライオンは熱心なジャズマニアではありましたが、理論など、音楽に関する専門知識はありませんでした。
さらに、そもそもブルーノートは、ひょんなことからはじまったレコード会社で、そもそもライオンは自分が好きな音楽を録音したかっただけで、ジャズを商売にして金儲けをする気持ちはまったくありませんでした。だから、最初のころのライオンは、スタジオに入っても何をしたらいいのかサッパリわかりませんでした。
そこで彼はできるだけスタジオの雰囲気を楽しいものにしようと考えたのです。
そこで彼は良いレコーディングをするために考えたアイデアは、食事でした。
飲み物と食べ物をたっぷり用意したのです。
音楽に関して詳しいことは分からない。
だから演奏についてはミュージシャンに任せてしまおう。
そのかわり、自分はレコーディングの場においては楽しい雰囲気づくりをしよう。
そう考えたのです。
美味しい食べ物と飲み物を用意することで、ジャズマンたちに良い気分になってもらう。
そして、この工夫が功を奏しました。
ミュージシャンにとっては、「いつものパーティ」のような楽しい気分で演奏をすることが出来たのです。つまり、素晴らしい演奏を記録することが出来た。
この点が、ビジネスライクにレコーディングを進める他のレーベルと大きく違っていた点といえましょう。
3人のパートナー
アルフレッド・ライオンは、アートにも造詣が深い人でした。
だから、ジャケットデザインにもこだわりました。
彼にとって幸いだったことは、優れた2人のカメラマンとデザイナーに恵まれていたことです。
フランシス・ウルフという優秀なカメラマンと、リード・マイルスという斬新なセンスを持ったデザイナーです。
フランシス・ウルフ
まずは、フランシス・ウルフ。
彼は、ライオンに次ぐ、ブルーノート・レーベルの最大の功労者といっても良いでしょう。
ウルフは、スタート直後からライオンと行動を共にしていました。
ライオンと同じくベルリン生まれ。
10代後半の頃にライオンと知り合っています。
彼は、ベルリンで結婚式などのカメラマンとして暮らしていました。
しかし、ライオンから誘われて、第二次世界大戦直前に運行された最終客船でニューヨークにやってきます。その後、ブルーノートでは、ライオンがプロデュースに専念し、ウルフが管理部門の全般を受け持つこととなりました。
リード・マイルス
次にデザイナーのリード・マイルス。
彼は、ウルフが撮影した写真を斬新なデザインで素晴らしいジャケットに仕上げた人物です。
リード・マイルスは、1954年からブルーノートの仕事をはじめました。
ライオンは彼が提示したデザインに魅了され、12インチLPシリーズのデザイナーとして採用しました。
以前は美術商が職業だったライオンは、ジャケットデザインに対しても独特の哲学を持っていました。
個人経営のレーベルでジャケットに予算をかけるどころではなかったのかもしれませんが、ジャケットも含めて一つのアートだとライオンは考えていました。
せっかく素晴らしい音楽も、それを包むジャケットがいい加減なものだったら魅力も半減してしまう。
こんなところにも、商売を度外視していたライオンの哲学が見て取れますね。
もっとも、それが原因で、ブルーノートは50年代前半には何度か倒産の危機に実は見舞われます。
しかも、その後何度も会社が倒産してもおかしくない不安定な状態が続きますが、その原因の一つが、ジャケットに対するこだわりでした。
しかし、倒産の危機に何度も瀕しながらも、素晴らしいジャケットを世に出し続けたライオンのこだわりがあったからこそ、ブルーノートは世界最高のジャズレーベルと称賛されるようになったのでしょう。
ちなみに、リード・マイルスは後にデザイナーとして超一流になり、84年のロサンゼルスオリンピックの公式ポスターなども手掛けています。
ルディ・ヴァン・ゲルダー
ウルフ、マイルスに次ぎ、さらにライオンは、サウンド面においても優秀な人材を獲得しています。
エンジニアの、ルディ・ヴァン・ゲルダーです。
ライオンの完璧主義者ぶりはサウンド面にも向けられていました。
リードマイルがブルーノートに参入してきたのは1954年ですた、その年、もう一人の重要人物がやっています。
エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーです。
2人が知り合ったのはサックス奏者兼デザイナーだったギル・メレのの仲介によってです。
ギル・メレは、自費で製作したマスターテープをライオンに売り渡したのですが、この時の録音を担当したのがヴァンゲルダーだったのです。
素晴らしいジャケットデザインとともに、ヴァンゲルダーサウンドと呼ばれるほどの特徴的なサウンド。
ライオンには理想とするサウンドがあったのです。それを彼と共に作り上げたのがヴァンゲルダーだったのです。
他のレコード会社は、アルフレッド・ライオンのように具体的な音の希望を言ってくれないから、ヴァンゲルダーは彼なりにスタジオでベストのレコーディングをしてはいましたが、アルフレッド・ライオンは「ライブで耳にしていた迫力を伝えたい」という具体的な理想がありました。
だから、ヴァンゲルダーは、できるだけそれに近い音で録音することを心がけたのです。
その結果、生み出された独特なサウンドは、ジャズマンが持つ各人の個性をリアルに浮き彫りにし、従来の常識を覆すほど、ジャズレコーディングに臨場感を獲得することに成功したのです。
だからこそ、ブルーノートのサウンドは同じ録音技師が手掛けても他のレコード会社の音とは違うのです。
ライオンと知り合った時点の彼は検眼技師が本職で、エンジニアは趣味でやっていましたが、ヴァンゲルダーはライオンとの仕事によって、レコードエンジニアの最高峰にまで上り詰めていきました。
数々の新人を世に送り出す
ブルーノートは個人営業のレーベルでした。したがって、潤沢な資金があったわけではありません。
むしろ、自転車操業といっても良い状態でした。だから安いギャラしか支払えません。
大御所ミュージシャンに声をかけるのは無理だったのです。
そこで、ライオンは、新人ミュージシャンや若手ジャズマンを中心にレコーディングをしていきました。
ラインは新人発掘の才能もあったのです。
彼は足しげくジャズクラブに通い、自分の眼鏡にかなうミュージシャンを探し回りました。
そして、「こいつはいける!」と思ったミュージシャンに声をかけ、録音していったのです。
ライオンはかつてインタビューでこう語っています。
「私はいつも若いミュージシャンのサポートをしたいと思っていた。当時のニューヨークには私を魅了する無名のミュシャがゴロゴロしていた。有名なアーティストはギャラも高いし、私が録音しなくても誰かが録音するに違いない。だからブルーノートは、彼ら無名の若手にチャンスを与えるべきだと考えたんだ」
しかも、多くの場合、彼の目に狂いはありませんでした。
レコーディングのチャンスを貰ったミュージシャンは喜びいさんで、レコーディングに参加します。当然良い演奏をします。
そして、彼らはやがてジャズシーンにはなくてはならない存在として育っていきました。
だから、ブルーノート・レーベルは、他のレーベルよりもジャズマンの初リーダー作が多いのです。
アート・ブレイキー、ルー・ドナルドソン、ホレス・シルヴァー、ウイントン・ケリー、ケニー・ドリュー、クリフォード・ブラウン、ハンク・モブレー、ソニー・クラークなど、ビバップからハードバップの時代を代表するアーティストの多くがブルーノートに初リーダー録音を残しています。
それは60年代に入っても変わりませんでした。
ここにもライオンが足繁くジャズクラブに通い有能な若手を使うとしていた姿がうかがえます。
これらの要素が重なり、ブルーノートは多くの人が「世界一のジャズレーベル」と呼ばれるに至るわけですね。
ドイツ生まれのジャズ好き青年
さて、ブルーノートの創設者であり、素晴らしいレコードの数々を世に送り出したアルフレッド・ライオンはどのような人物だったのか。
彼がブルーノートを設立するまでの前半生を軽く紹介してみましょう。
アルフレッド・ライオンは、1908年4月21日、ドイツの首都ベルリンで生まれました。
父は建築業が本業。くわえて美術品の熱心なコレクターで、友人とアートギャラリーを経営するほどの熱の入れようでした。
このような家庭環境が、後のライオンに「美術品の貿易商」という道を歩ませたのでしょう。
ライオンがジャズと出会ったのは1925年のことでした。
彼が最初に聴いたのはスイング派のサム・ウディングというピアニスト、そして、チョコレート・キディーズというグループでした。
彼は会計学を勉強するという口実で、わずか100ドルを持って1928年に渡米しました。
ほとんど英語が喋れなかったライオンは、低賃金の肉体労働で食いつなぎながら、デューク・エリントンやジェリーロール・モートンなどのレコードを買っていました。
しかし、学校にも行けず、肉体労働にも疲れ果てた彼は、1930年に帰国しました。
しかし、在米中この体験が刺激となって、ライオンはさらにジャズという音楽にのめり込んでいきました。
フランスからチリ、そして再びNYへ
その後、ライオンはフランス人の銀行家と再婚した母親について、フランスへ渡ります。
ユダヤ系の彼女は反ナチのレジスタンスに身を投じ、一方、ライオンのほうは、美術品貿易商の社員となり、南米のチリに脱出しています。
そこで、ニューヨークの商社マンにスカウトされて、1937年に再びジャズの都、ニューヨークの土を踏みます。
ライオンのジャズ人生を変える出来事が翌年に訪れました。
1938年12月23日のこと。
カーネギーホールで開かれた「フロム・スピリチュアルトゥ・スイング」という名のコンサートにライオンはいきました。
そこで、アルバート・アモンズや、ミルド・ルクス・ルイスが弾くブギウギピアノにライオンは大感動します。
そして、この素晴らしい演奏を記録に残そうと考えました。
早速、楽屋で交渉し、2週間後の1939年1月6日にマンハッタンの貸しスタジオでライオンは2人のレコーディングを行いました。
このセッションは、あくまで個人的な楽しみのためで、ライオンは自分用と友人用という、ごくわずかな枚数だけをプレスするつもりでいました。
しかし、あまりに演奏が素晴らしく、ミュージシャンサイドからも売り出して欲しいと頼まれたこともあり、思い切って発売することにしたのです。
そして、この年の春に、ミルド・ルクス・ルイスの『メランコリー/ソリチュード』とアモンズの『ブギ・ウギ・ストンプ/ブギ・ウギ・ブルース』が発売されました。
両方とも初回プレスは、わずか50枚。
内輪に配って終了というレベルの枚数でした。
しかし、これを機にブルーノートというレーベルがスタートするのです。
参考書籍
ブルーノートについて、もっと深く知りたい!
そいういう方に、いくつかのオススメ本を紹介します。
さらりと俯瞰
まずは、『ブルーノート・JAZZストーリー』(新潮文庫)。
入門者だったころの私は、この本を読んで、ブルーノートの魅力に開眼しました。
これを読めば、ひととおりレーベルの特徴や、代表的なジャズマンやアルバムを網羅することが出来ると思います。
古い本で、現在新品で入手するのは難しいようですが、そのぶん、中古で安く出回っていると思いますので、興味のある方は、値上がりする前に早めにゲットしておきましょう。
ジャケットアート
ブルーノートの大きな魅力にジャケットワークがあります。
このジャケットの魅力をたっぷりと楽しめるのが、ブルーノートのジャケットアート集です。
洋書でお値段は少々張りますが、ジャズをかけながらゆっくりとページをめくれば、贅沢な時間が流れていくことでしょう。
決定版
最後に『ブルーノート・レコード 妥協なき表現の軌跡』。
これは、マニア向けの本なので、入門者は無理して手を出す必要はありません。
しかし、いつかは持っておきたい素晴らしい本で、いわば「ブルーノート事典」というにふさわしいボリュームと内容です。
歴史から、裏話など、ブルーノートにまつわる様々なことを知ることができます。
しかも、レイアウトも印刷もとても美しい!