【コメント返し】コウチクん

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動画「【コメント返し】もしアラン・ホールズワースがマイルス・バンドに参加していたら?!」(こちら)に視聴者さまよりいただいたコメントを紹介した動画をアップしています。

コメント

一雄 杉田さんからのコメント。

マイルスなんて、、好きにパラパラ~とやった後テオに丸投げですよ、、でも、チェックは厳しいっすよ、、切り落としは厳しいっす。

黒澤監督がタケちゃんにアドバイスしたことは、ラッシュを観て、イチバン自身の見せたいところをカットするんだ!、といってたそうです。(*_*)

「ラッシュを観て、一番自分が見せたいところをカットしろ」
う〜無、これはもしかしたら、映画だけでなく、創作、人生すべてに通じる逆説の金言なのかもしれません。

まあ普通は、誰もが「自分が見せたいところ」「聴かせたいところ」が、「俺自身」だと思いますし、「作品の核」だと思います。
しかし、黒澤監督のこの言葉は、「見せたい」という自我(見栄?)が、作品の純度を濁すということを言いたかったのかも? なかなか厳しいけれども鋭いアドバイスのような気がします。

人が「ここを見せたい」と思うとき、そこには「自己顕示」や「説明欲」や「力み」が混ざるのでしょう。
つまり、表現者が一番入れ込みすぎている箇所こそが、受け手にとっては「押しつけがましく」「不自然」に感じられる可能性があるということなんでしょうね。

心理学的にいうと自己投影の抑制ってやつ??(よく分かりませんが💦)

なんの本だったか出典は忘れましたが、昭和初期のジャズ史を綴った本に書いてあったんですが、ある若手ジャズマン(名前忘れましたが、管楽器奏者だったと思います)が、上京して、ジャズクラブで雇ってくれたバンドの先輩の元、開店前のライブハウスでリハーサルをしたのだそうです。
「お前を全部出してみろ!」と言われて、何かの曲を5コーラスも7コーラスもアドリブを取らされる。もうネタ切れ。吹きたいフレーズ(吹けるフレーズ)はネタが尽きた、どうしよう。でも、リズムセクションの伴奏は止まらない。もっと吹けということなのか、もう俺吹けないよ、でも先輩が止めるまでは吹き続けなければ、困ったなあ、もう吹ける内容がないよ。だからメチャクチャというか思いつくままテキトーに吹いたら、そこでストップがかかった。ああ怒られるんだろうなぁと思ったら、「お前、最後のコーラスが一番良かったじゃないか、お前らしい演奏だ」と褒められた。覚えていたことを全て出し切って空っぽにした状態で拭いたものが一番良いと褒められたのだそうです。

……というエピソードを思い出しました。

カッコよく深読みするとロラン・バルトの「作者の死」にも通じることなのかな?と。
⇒作者の意図を前面に出すほど、作品は閉じる。
⇒意図を手放すほど、作品は開かれる。

マイルス曰く、
“Don’t play what’s there, play what’s not there.”
(そこにある音を吹くな。そこにない音を吹け。)
というやつなのかもしれませんね。

つまり、「俺がここでカッコつけたい”と思った瞬間に音楽は死ぬ。余白と沈黙こそが、聴き手の想像力を呼び覚ます。」ということなのでしょう。

だから、ハービー・ハンコックには、ライヴに彼女を呼ぶなと忠告したのでしょう(笑)。

オカハセちゃんねるさんからのコメント。

マイルスの場合は、スタジオレコーディングとライブは、それぞれに向き合いかたを変えていたのでは無いかと思います。
例えばライブパフォーマンスの時には後のことをあれこれ考えずにプレイに没頭するけど、いざそれをCD(LPレコードも然り)化するとなればキチンとチェックをするというタイプ。
というか、むしろこういうタイプのミュージシャンが1番多いんじゃないですねT^T どっちかに偏ってる人はむしろ少ないと思いますよ。
何故ならば聴き手はライブで全身で受け止めた感動のうちのほんの少ししかCD化されたものからは得ることができない。そしてその分だけ聴き手もライブではあまり気にもしなかった細かい部分がCD等では耳に残るものなのでその辺のチェックは、CDなどの【いわゆる商品】というものとしてリリースするにあたっては、チェックしないのは大袈裟にいうと手抜き作業にもなるという考えもあります。CDや動画を観たり聴いたりがきっかけでライブにもくる人もいるので、それはやはり大事かなとも思う。けれど逆に「ライブ観たけどCDのほうがよかった」と感じさせる演者も時々います。それは【やりすぎ】というか「下手なことがバレない加工」をするタイプ(バレてますけどね、笑)。誤解して欲しくないのはCD化する時の入念なチェックは「下手を隠すものではなくて【CD作品】として成立するかのチェック」ですから。
パーカーやロリンズの場合は後のことに関しては潔さがあるとも言えるけど、やはり「これは本当に本人がOKしたのか?」と思うような微妙なテイクも割と沢山存在します(本人はチェックすらしてないと思う、笑)。
それでもパーカーは「ラバーマン」のヤクギレ演奏テイクが世に残っているのは死ぬほど嫌だったそうですが(あれはだけど良いテイクです😅)。
因みにファンにとっては微妙テイクこそが聴きたかったりするのも「好きになると悪い部分すら魅力になる」という恋する男みたいなもの(笑)。

>スタジオレコーディングとライブは、それぞれに向き合いかたを変えていたのでは無いかと思います。
おっしゃる通りだと思います。
レコードの場合は純粋に「音」だけですが(まあジャケットもあるかもしれませんが)、ライブの場合は「パフォーマンス」という視点もありますからね。

>ファンにとっては微妙テイクこそが聴きたかったりする
そう、そういうファン心理ってありますよね。
ただ、個人的な体験だと、「このアルバム大好き」⇒「別テイクがある?聴きたい、聴きたい!」⇒聴いてみた⇒「うーん、やっぱりマスターテイクだけでいいや」
ということもあるんですよね。

たとえば、リー・コニッツの『モーション』なんかは、あれだけスリリングなマスターテイクばかりを浴びるように聴いてしまった後に「その他の別テイク」を聞くと、「悪くはないけど、なんか締まりがないなぁ(凄い演奏聴いちゃってるから、それに比べると)」と思ってしまいました。

あと、海賊版で色々出ている『ビッチェズ・ブリュー』の制作過程が、細切れなテイクとなって収録されているCDもいくつか聴きましたが、やっぱり「結論」を知っているので、そこに至る前の段階の「パーツ」ばかりを部分聴きしてもなぁ、と感じ、個人的にはあまり興奮できませんでした。私よりマニアだったらタマラン音源なのかもしれませんが。

コルトレーンの《ジャイアント・ステップス》も、マスターテイクに圧倒され、それに慣れた耳で、1ヶ月半前の「練習録音(?)」を聴くと、なーんか緩い感じがするし。これは、ピアノがシダー・ウォルトンで、ドラムがレックス・ハンフリーのやつでしたかね。もちろん、最初にこちらを聴いていれば感想も変わってくるんでしょうけど、「最終形態」を知った後に、「習作」を聴いちゃうと、どうしても評価が下がっちゃいます。
マニアや研究家にとっては、どこがどう違うとか、成長の軌跡を確認できて嬉しいのかもしれませんが、私はそこまでマニアックにはなれないなぁ。

ま、アイドルの写真集のボツ写真を見るような感覚に近いのかもしれませんw

私も雑誌編集者時代には、表紙やカラーページに掲載する人物の撮影によく立ち会ってましたし、カメラマンが撮った膨大な数の写真から、「この1枚」を選ぶ作業もしていたのでわかるのですが、「本当に良い1枚か2枚」以外の写真は、目をつぶっていたり、目が半開きになったり、口の形が変だったり、ピンボケなところがあったりと、「使えなくて当然」なもののほうが圧倒的に多かったです。

その「使えなくて当然(発表できるクオリティじゃないもの)」を寄せ集めて商売されてもねぇ……」とも思うんですけど、有名人だったりマニアが多いと、「書き損じ」も商売のネタになるんでしょうね。

とはいえ、中には例外があって、パーカーに関しては、どれもが良い(笑)。

おっしゃる通り《ラヴァー・マン》も良いし、サヴォイのレコーディングに関しては、マスターテイクよりも最初のテイクの方が勢いがあって好きな演奏もあります。

でも、パーカーは例外中の例外かもしれませんね。

Kawai Andyさんからのコメント。

マイルスはその時点でに考えていたアイデアをアルバムで提示してみせますが、インタビューではカインドオブブルーなんかの事を聞かれると過ぎた昔のことだ「今の俺を聴いてくれ」と言ってましたね。まるでアルバムはカタログ、それを聴いてからライブでは実演を体験してくれ、みたいな感じでしょうか?

マイルスのライブはスタジオよりかなりスリリングで So Whatなど異常なほどの速いテンポだったりして聴く者を気持ちよく裏切ってくれますね。そういうところがカッコよくて痺れます!

死後に出てきた音源は(例えばDo Bopなど)マイルスは本当に発表するつもりはあったんでしょうかね?
お蔵入り音源についてはミュージシャンはどんなこと考えていたのか?興味津々ですが亡くなった人には
もう聞けないので妄想するしかないですね。😊😭

まさにおっしゃる通りだと思います。

スタジオ=スタティック
ライブ=エキサイティング

と、場を使い分けていたと思います。

実際、マイルスもインタビューで語っていました。
(ライヴは)ファンサービスでエキサイティングな演奏をする、だからアルバム聴いてライブに来た人はそのギャップに驚く。そういうことを語っていたものを読んだ記憶があります(出典、忘れちゃいました・汗)

あと、スタジオは「実験」の場と捉えていたのかもしれませんね。
特に、テオ・マセロがプロデューサーのコロムビア時代になると、より一層その傾向が強くなっています。

テープ回しっぱなし、色々な楽器奏者を呼んでジャムセッションのような音出し。そこから偶発的に生まれる何かを探っていたのでしょう。

ハービー・ハンコックも、プーさんも述懐していますが、とにかくサイドマンが出す音をすんごく良く聴いていたそうです。で、変なプレイをすると、一瞬だけリアクションする。それが怖くて(?)、皆、緊張しながらも(おどおどしながら?)、良いプレイを繰り出そうと必死だったのでしょう。

ところで、
>本当に発表するつもりはあったんでしょうかね?
>お蔵入り音源についてはミュージシャンはどんなこと考えていたのか?
についてですが、私の考えだとミュージシャン本人の「出してほしくない」は、言葉どおり「出してほしくない」だと思います。

3分間写真を例にすればわかるのですが(チープな喩えやなぁw)、自分の顔の「失敗顔」は証明写真には使いたくないじゃないですか(笑)。

パスポートやマイナンバーカードなどオフィシャルなもの、色々なところに出したり見せるものは、やっぱりキチンとしたものを提示したいですよね、我々一般人も。
目を閉じた顔とか、目が半開きな間抜け顔は、やっぱり隠しておきたい。たとえそれが本当の自分の顔の一側面であっても。

ジャズではありませんが、作家のカフカも親友のマックス・ブロートに未完の長編小説を含む多くの原稿は自分の死後は焼却するよう遺言したそうですが、ブロートは『城』をはじめとしたいくつかの未完の長編を発表しちゃった。

彼は、カフカの文学的な才能を世に知らしめたいという思いが強く、遺言に背いて発表したからこそ、カフカは20世紀文学の重要な作家の一人として世界に知られることになったのでしょうが、あの世でカフカはきっといい気分じゃなかったんじゃないかと思います。

それで思い出すのが、ドルフィーの『アザー・アスペクツ』。

これも発表前提で録音されたものではないのですが、没後20年くらいたってから、元恋人のジョイス・ハディフが、ブルーノートに持ち込み、アルバムとして発売されました。

この音源は、自宅でアイデアの実験のため、そして恋人のハディフのために個人的に録音したのだそうですが、彼女は「私のために録音したんだから発表してもいいよね」と思ったのでしょうか。それともお金に困っての行動?

天国でドルフィーは、「おおい、何てことしてくれるんだぁ!」と怒ったのかもしれませんが、私としては、ドルフィーの中ではもっとも過激な音源を聴けて嬉しいという思いもあります。
さらにこの音源は、「見てはいけないものを見てしまった(聴いてはいけないものを聴いてしまった)」という背徳感もついてまわるので、なんだかとてもゾクゾクする特別な1枚ですね。

このことからも、表現者とファンの欲求って違うんだなぁと思います。
コアなファンは、残された音源は、なんでもいいから全て耳を通したいという欲求があるでしょうが、ミュージシャン側は、恥かしいから聴かせられない!という思いがあるはずです。

アイドルの写真集の表紙なんかも、「千枚の中の奇跡の1枚」が選ばれると聞いたことがありますが、それ以外の、微妙な表情の写真なんかは、やっぱり送り手としては隠しておきたいという気持ちも、わかります。

私も、動画の内容、ボツにしてアップロードしないものもありますから。本当にたまぁにですが、ボツにすること、あります。
ボツにした音源は、やっぱり誰にも聴かせたくない、心の底にしまっておきたい、という気持ちはありますね。マイルスやドルフィーやカフカとは次元が低すぎる話ではありますが(汗)、やっぱり「自分がイヤ」だと思ったものは、ほじくり返されたくない(晒されたくない)と思う人は多いんじゃないかと思います。