動画「【コルトレーン超入門51】躍進、急成長の1956〜1957年」(こちら)に視聴者さまよりいただいたコメントを紹介した動画をアップしました。
コメント
龍 大阪さんからのコメント。
コルトレーン関連で、いくつか私のコメントを取り上げてくださって、ありがとうございます。
トレーンって、やっぱ、聞いている側が語れるミュージシャンなんだなって、改めて思います(笑)
いわゆる、マイルスデイビスに関しては、フォーカスがずれるというか、その活動が多岐にわたりすぎて、聴いている側がおいてかれにされるというか、つまり、アドリブ主体でやってたかと思いきや、ギルエバンスのアレンジで譜面どおりに吹いて、「どうだい、いいだろ、即興演奏とかいらねえんだよ」みたいなことを平気でやるから、思考回路が狂うんですよね。
でも、トレーンは、起承転結がはっきりしているというか。
という枕詞から、最近考えていることを、お話します。
トレーンの晩年とマイルスの「アガルタ・パンゲア」あたりは、もしかしたら、ラビ・シャンカール的な音楽を目指すというか、その要素を出したかったんじゃないかと。
いわゆる、シャンカールがやってたインド音楽の「ラーガ」という演奏形式。そこにある躍動感というか、そういうものをジャズ的に表現しようとしていたと。コルトレーンのライブインジャパンとマイルスのアガルタ・パンゲアの演奏の共通点は、そこにあるのではないかと、今、考察中です。
そして、面白いのは、シャンカール的なものを追求した結果がライブインジャパンだと仮定すると、そのすぐ後にトレーンは病気で亡くなる。マイルスはアガルタなどでシャンカール的な演奏を披露した後に実質セミリタイア状態になっているということ。トレーンに遅れることおよそ10年というところも興味深い。
さらに、両方とも日本公演が契機となっているところ。
ルドルフ・シュタイナーが「実は地球は円錐構造になっていて、その頂点は日本なのだ」みたいなことを言っていた、と聞いたことがあります。これは、あくまでスピリチュアルな世界の話で鼻ほじくって聞いていていい話なのですが、ラビ・シャンカール、コルトレーン、マイルス。これらの音楽表現。AI時代に逆行するような音楽がこれからの希望になるのかも?
なんちゃって(笑)
龍 大阪さん、今回も興味深いコメントをありがとうございました。
>トレーンって、やっぱり聴いている側が語れるミュージシャン
たしかに!
語りやすい人と、素晴らしいんだけど語りにくい人、というか一言で終わってしまう人もいますからね。
たとえば、先日上京してきたJさんとご一緒した際、私が「今回の号のジャズ批評誌はズート・シムズ特集なので聞き直しているんですが、ズートってやっぱりいいですよね」と言ったら、「そうですよねぇ、いいですねぇ」と、大体こんな感じで終了w
いや、二人ともズートのことすっごく良いよねと思ってはいるのは間違いないんですが、それに続く言葉があまりない(涙)。
かろうじて、「『ズート・アット・イーズ』も結構好きなんですよぉ」と私が言うと、「ああ、あれはいい!私、ソプラノサックスも持ってるんですよ」とJさん。「へぇ、そうなんですかぁ」と私。そしてJさんは「ついでにポケットトランペットとか、フルートも持ってるんですよ。フルートは音出なかったなぁ」と、いつの間にかズートから離れて楽器話にワープw
同じ系列のテナー奏者だとスタン・ゲッツの方がもっとたくさん語れる、というか語れる「トピックス」がたくさんあるからなんですよね。
ボサノバとか、拳銃持って薬屋さん(?)とか、クール時代とか、チック・コリアとか、ケニー・バロンとか。
ズートも活動歴長いですが、ゲッツの場合は長い活動歴の中、さまざまな試みにチャレンジしたり、語り継がれるエピソードもあるから、要するに「語れるトピックが多い」。
そして、コルトレーンの場合は、さらに多いw
しかも、おっしゃる通り時代ごとに違いはあるけれども、基本、向いている方向は同じ感じなので、好みのアルバムや時代が違っても、同じ共通認識のもとで話し合える。
しかし、マイルスの場合は、まさに龍 大阪さんのおっしゃる通り「フォーカスがずれる」。
それに対してトレーンは、どれだけ演奏が激しくなっても、どれだけ長尺になっても、「この人はいまどこを向いているのか」が常に伝わってくる(ような気がする)。
そして本題、「トレーン晩年のライブ・イン・ジャパンと、マイルスのアガルタ/パンゲアを、ラヴィ・シャンカール的な『ラーガ的音楽』の文脈で捉え直す」という視点。これ、なかなか興味深い仮説です。
おっしゃる通り、あの辺りの演奏には、コード進行やテーマという枠を越えた、持続と揺らぎと上昇感で引っ張っていく“別種の躍動感”がありますよね。あれを「ラーガの精神をジャズってみた」と捉えてみると、なるほど、そういう感じもアリかも知れないなと思いました。
正直に白状しますと、私は娘のノラ・ジョーンズはCDや音源いろいろ持っているんですが、肝心のラヴィ・シャンカール音源にはほぼ無防備なままでして……。
コルトレーン、フィリップ・グラス、ジョージ・ハリスン絡みの記事なんかで、シャンカールの名前は何度も目にしているのに、音の方にきちんと手を伸ばしてこなかった典型的「活字偏重野郎」だったことを改めて認識しました。
「ライブ・イン・ジャパンを“ラーガ的到達点”だと仮定すると、そのすぐ後にトレーンが亡くなり、マイルスもアガルタ/パンゲアの後に半ば引退状態に入る。そしてどちらにも日本公演が絡んでいる」説、うーん、偶然なんだろうけど、共通点はありますね。
日本で到達してエネルギー磨耗しまくってしまった?とか?
共通点を重ねわせて、自分なりの仮説を音源に重ねて聴く。すると同じ録音でも、急に違うレイヤーの意味が立ち上がってくる。そういう面白さはあるかも知れませんね。
AI時代に逆行するような音楽、はたしてこれからの希望になるのか?!
うーん、わからん。
確かにAIは要約したり、構造化したり、最適化したりするのが得意な一方で、「ひたすら長く、反復され、細かな揺れでトランスに導いていく音楽」とか、「途中で何が起きているか説明できないけれど、気づいたら1時間経っていた」みたいな体験は、確かに現段階ではまだ人間の方に分がある領域だと思います。
しかし、そのうち…? いや分かりませんが。
ズレとかズレのクセや周期みたいなものも解析されて取り入れられたら、どうなっちゃうんだろ??