アイ・リメンバー・クリフォードの誕生からその後まで

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TAKESI0506さんよりいただいたコメント(⇒こちら)。

ベニー・ゴルソンが語り明かした〈アイ・リメンバー・クリフォード〉の秘話
 クリフォード・ブラウンと私は、40年代の末期からフィラデルフィアのジャズ界でちょくちょく顔を合せる間柄だった。クリフォードは10代の終り、私は20歳になったばかりのころだった。互いに知り合って、53年に私はクリフォードと一緒にプレスティッジのレコーディング(タッド・ダメロン名義)で共演したりもした。クリフォードというトランペッターは神がこの世にさずけた天才トランペッターだった。49年のこと、フィラデルフィアの『O.V.CA TTO』というクラブで、当時無名のクリフォードがもう1人の偉大なトランペッター、ファッツ・ナヴァロと競演(!)したことがあった。ナヴァロは肺結核に侵されていて、死ぬ直前だった。そのころすでに“太っちょ〟のアダナがウソみたいに痩せていた。なんという凄いバトルだったことか。ナヴァロとブラウンの2人は、互いに火を吹くようなトランペットの競演をやったのだ。私は、身体中が電気のショックに打たれたみたいになってしまい、しばらく身動きできなくなっていた。クリフォードは〝スイート・クリフォード”と呼ばれた通り、誰に対してもとにかく温かい人間味を感じさせた。ところがトランペットを吹く時は、あまりの凄さに悪魔が乗り移ったんじゃないかと思わせるような、背筋が冷たくなるようなソラおそろしいプレイもした。そんなクリフォードをジャズ・ミュージシャンたちは、“スイート・クリフォード”といって、みんな心から愛していた。55年のこと、クリフォード・ブラウンとマックス・ローチ5重奏団がテナー・サックスにソニー・ロリンズを迎えた。この時、彼らはクラブ「ブルーノート」に集まって厳しいリハーサルをやった。私は、自分で作曲した曲をいくつか持っていき、ブラウニー(クリフォードの愛称)に演奏してもらおうと思った。その中からクリフォードは〈ステップ・ライトリー〉という曲を選んでくれて、きかせてくれた。それは素晴らしい演奏になった。そして、彼らはこの私の曲をエマーシー・レーベルに吹込んでもくれた(その演奏はオクラになったままである)。クリフォードの前に私の曲を録音してくれたミュージシャンはたった2人しかいなかった。最初の人はジェームズ・ムーディーで、私の作曲家としてのデビュー曲は〈ブルー・ウォーク〉だった。ついでマイルス・デイビスが私の〈ステイブル・メイツ〉という曲を55年11月に録音してくれた。この時は、ジョン・コルトレーンが私の曲を気に入って、マイルスに譜面をみせる仲介役になってくれた。その次がクリフォードで曲は〈ステップ・ライトリー〉だったけど、それは陽の目をみなかった。クリフォードはデラウェア州ウィルミントンの生れだったが、そこはフィラデルフィアから30哩しか離れていなかった。フィラデルフィア生れの私とクリフォードはだから同郷の仲間という親しい間柄でもあった(コルトレーンと私の家とは数ブロックしか離れていない近所同志だった)。それは56年6月27日の夜だった。その頃、私はディジー・ガレスピー楽団のメンバーになっていた。その日、私たちはニューヨークのハーレムにあるアポロ劇場で演奏していた。演奏が終わって休憩となり、私たちはステージを降りた。そして、休み時間が終って、みんながもう一度、舞台に集まりだした時だった、ピアニストとウォルター・デイビスJr.が泣きながら舞台に駆け込んできた。そして、ウォルターはみんなに泣き声でこうふれて回ったんだ。「きいたかい! きいたかい! ブラウニーが昨夜死んだんだ!」ってね。その瞬間、舞台を歩いていたミュージシャンたちはみんな一瞬、耳を疑った。「オー、ノー!」と顔を手でふさいだミュージシャンもいたし、みんなその場に針づけになった。「クリフォード・ブラウンが昨夜、自動車事故で死んだ! ピアニストのリッチー・パウエルと夫人も死んだ!」。ウォルターは涙をポロポロ落しながらみんなにそう伝えた。私はいいしれないショックを受けた。その場にへなへなと身体が崩れてしまいそうだった。あんなに素晴らしいミュージシャンが雨でスリップして、自動車事故で死ぬなんて! リッチー夫妻も一緒に逝くなんて! 私は気が動転してしまった。その時、劇場の舞台監督が声をはり上げたんだ。「さあ、みんな、時間だ、時間だ! カーテンが上るよ!」ってね。そして、みんなをステージに押しだしたんだ。バンドのメンバーはみんな泣いていたんだ。
「演奏だ、演奏だ!」といわれても、どうしようもなかった。楽器を持って席にはついたけど、プレイどころではなかった。力が抜けて、ぼう然としているだけだった。それでも、ディジー・ガレスピーは、かろうじてみんなを勇気づけて、カーテンを上げさせたんだ。演奏中も涙が頬を伝わってきて、音はとぎれがちだった。私はこれは夢をみてるんだ。とそう考えてばかりいた。そして、目をさまそう、目をさまそうとしてたんだ。でも、悲劇は夢じゃなかったんだ。翌日、新聞を見るとクリフォード・ブラウンの死を伝える記事が掲載されてたんだ。やっぱり本当だったんだ。それからしばらく、ミュージシャンたちは、クリフォード・ブラウンが、あのクリフォード・ブラウンがと彼のことばかりを話し合っていた。私はいつまでたってもブラウニーのことが忘れられなかった。そしてある日、私は、ふと、そうだ、クリフォードを偲ぶ私の気持を曲にしてみよう! と考えた。

それはクリフォードが死んで半年ほどたった57年の1月のことだった。私がディジー・ガレスピー楽団とロサンゼルスに演奏旅行した時のことである。クラブの名前はどうしても思い出せないんだが、ハリウッド・ブールバードとウェスタン通りにあったクラブだった。当時、私は作曲に燃えていた。マイルス・デイヴィスが〈ステイブル・メイツ〉を録音してくれたことで、大いに意欲をかったてられていたのだ。だから、演奏旅行などがあると、私は、たった1人、昼間からクラブに出向いていってはピアノの前に座って曲を作っていた。その日もそうだった。昼過ぎにクラブに出向くと、バーテンダーがグラスを洗ったりしていた。しばらくピアノの前にじっと座っていると、ずっとそれまで私の心の片隅にあったクリフォードヘの追慕の情がまたこみあげてきた。ごく自然にだった。そうだ、クリフォードが生きていて、トランペットを吹いたら、今ごろはどんなプレイをしているだろうか、私はそんなことも考えた。そして、ピアノの鍵盤を押えにかかった。はじめのうちはなにげなくピアノのキーに触れているだけだった。ところが、そのうちにだんだんメロディーがきこえだしたんだ。私は、それを気持のおもむくままに弾いてみた。するととても美しいメロディーになっていた。まるで、ブラウニーが甦って、トランペットを吹いているような錯覚にとらわれたんだ。私は伴奏をつけるつもりでコード・ネームを大急ぎで5線紙に書き、メロディーも書き移した。もう一度、ピアノで再現してみた。すごく美しい響きだった。まるで耳元でブラウニーのトランペットがきこえてきそうだった。でも、私は自信がなかった。これがはたしてクリフォードヘの捧げものというにふさわしい曲なのか、どうか。自分だけでそう感じるだけなのかもしれない。私は曲をその日の午後、完成させると、ディジーにきいてもらおうと思った。その日の夜、私ははやばやとクラブに入った。するとその日に限ってディジーも早く顔をみせていた。私はディジーに頼み込んだ。
「ねえ、ディジー、今日、この曲を書いたんだ。クリフオードに捧げたんだけど、きいてみてくれないか」ってね。で、私はピアノに座ったんだ。ディジーは立って譜面を見ながら、私が弾くのをじっときいていた。私が曲を弾き終ると、ディジーはこういった。「ヘイ、ベニー、なんていい曲なんだ。まるでクリフォードがプレイしているみだいじゃないか! これは素晴らしい! これは素晴らしい!」ってね。そして、早速、バンドで演奏しよう、とまでいってくれたんだ。私は、「じゃあ、すぐアレンジをしなきゃ」となかば夢中になってディジーの反応をきいていた。私は2、3日で編曲を終えると、早速、バンドで演奏してもらった。バンドのトランペット・セクションにはリー・モーガンがいて、リーもすっかりこの曲が気に入ったみたいだった。みんないい曲だ、いい曲だって大変なほめようだった。〈アイ・リメンバー・クリフォード〉という曲はこんなふうにして誕生したんだよ。

出典は、児山紀芳氏の「ジャズ名曲物語」とのことです。

上記コメントを紹介した動画をアップしました。

やっぱり《アイ・リメンバー・クリフォード》は、ええのお~。

コメント

kamaichi2002さんからのコメント。

タモリの名言 ご存じですか?

米ミュージシャンと会ったとき曰く、

「ユー・リメンバー・パール・ハーバー?、アイ・リメンバー・クリフォード」

この言語感覚、歴史感覚はサイコーだと思いませぬか。

有名な話ですよね。

パーティかなにか(?)で、一触即発になりそうな雰囲気を例の一言で一瞬にして和ませたという。

その機転の利きっぷり、ジャズですなぁと思います♪

長谷川孝二さんからのコメント。

おお〜!僕もバドパウエルのゴールデンサークルVol.3のアイリメンバークリフォードが大好きです。あの演奏は本当に神懸っています。

>神懸っています。
ですよね!

高松貞治さんからのコメント。

私はアルバムを買うとき、「アイ・リメンバー・クリフォード」が入っていればなるべく買うようにしています😊リー・モーガンもいいですが、私は若手のトランペッター、ライアンカイザーのアルバム、「カイザー」にもこの曲が入っていて、すばらしいですよ😁

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ポールジャズ男さんからのコメント。

リチャード・ウィリアムスのアイ・リメンバーをJAZZ喫茶で爆音で聴いた時は痺れました❗直ぐにこのアルバムを購入したのを覚えています😅

博 橋本さんからのコメント。

ゴールデンサークルのパウエルの『アイ・リメンバー・クリフォード』は vol. 3 と vol. 1 に入っていますね。
私は初めに手に入れたのが vol. 1 であったためか、普段は vol. 1 の方を愛聴しています。
何れにしてもパウエルにとってはこの曲は『アイ・リメンバー・クリフォード』であると同時に、間違い無く『アイ・リメンバー・リッチー』である訳で、弟を思う兄の心が切々と伝わってきます。
この演奏は別格です😊

>弟を思う兄の心が切々と伝わってきます。

そうなんですよ。
「寺島靖国をぶっ壊す」の『毒血と薔薇―コルトレーンに捧ぐ』(平岡正明・著)を読んで、はたと「そうだよ、そういえばそうだったに違いないんだよ!」と膝を打った記憶があります。

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永井勉さんからのコメント。

永井です・・・実はバド・パウエルの
At The Golden Circle Volume 3 の
アイ・リメンバー・クリフォードを始めて聴きました
・・・壮絶な演奏力ですね・・・
他のプレーヤーと比較するべきではない演奏だと感じました・・・m(__)m
もう指は絶頂期に比べ全然動いてないのですが・・
何故かグイグイ伝わって来ます???
雲さんももちろん気づいていますよね・・・
この間の取り方 めちゃくちゃ気持ちイイですよね!!

🥰🤩🤩

>何故かグイグイ伝わって来ます???
>この間の取り方 めちゃくちゃ気持ちイイですよね!!

そうそうそうそう、まったく死ぬほどそのとおりなのであります😂😂😂

サンジョルディさんからのコメント。

<後期フレディ・ハバードを見直そう会>会員のサンジョルディです(笑)

フレディ・ハバードがベニー・ゴルソンに語った、自然に涙が出てきた演奏映像はこれではないでしょうか?
残念ながら、タイトルには、演奏場所が載っていませんでした。
古いビデオのようで、音が何度も途切れたり、映像の色が抜けたりしています。ですが、ハバードが寄り目で熱く吹く姿と、かみしめるような一音一音に、じんわり心を動かされました。
おそらく涙を吹き飛ばすために横に顔を振るところや、吹き終わった後の表情に、ハバードらしさを感じました😌

へぇ、こういう映像もあったんですね。
教えてくださってありがとうございます。

アドリブでハイノートを出すところ、左右にゆらゆら揺れながら吹くところなどは、いかにもハバードらしいなと思いました。

ただ、「涙が頬を伝って顔がぐちゃぐちゃになったってね」というほどまでではないので、おそらく別のステージでの出来事だったのでしょう。

動画は1984年のもので、児玉氏の『スイングジャーナル』誌上で掲載された記事は1982年のものだそうなので、ローマでの「涙ぐちゃぐちゃ演奏」は、この演奏よりだいぶ前の出来事だったと思われます。

そういう予備知識でもって再度鑑賞してみると、構成もフェイクの仕方も、だいぶ「手練れてるな」と感じますねw
もちろん良い演奏には変わりはありませんけど。

破綻がなく、勇壮ですらある。
ハバードの面目躍如というべき演奏だと思います。

サンジョルディさんからのコメント。

そうですかー、ローマの涙の演奏は、82年以前でしたかー😅
この映像は、84年らしいので、もっと後ですねー。

その82年以前の映像もいつかyoutubeにアップされるといいですねー😄

アップされて欲しいですね。
見てみたいです。

その時の模様は録画され、放送され、フレディ・ハバードもその映像の録画を持っていたようなので、ハバード以外にも録画していた人はいるはず。

その映像を持っている人がアップしてくれると嬉しいんですが。

Kawai Andyさんからのコメント。

この記事昔、読んだ記憶がありますが、
なんか、泣けてきました。若い頃アート・ファーマーはブラウニーと行動を共にした一時期がありましたが、ファーマーはブラウニーの演奏に対してジェラシーを持っていたらしいのです。ある時ファーマーは深夜に楽器が必要だった事があり、ブラウニーがわざわざ出向いて貸してくれたと云う、彼の温かい人柄を後に述懐していました。しかしこの曲はゴルソンの畢生の名曲ですね。