先日アップした動画「A面、B面、どちらも素晴らしい!マイルス・デイヴィスの『バグズ・グルーヴ」(⇒こちらに視聴者様よりいただいたコメントを紹介した動画をアップしています。
コメント
TAKESI0506さんからのコメント。
私のコメントを取り上げていただき、ありがとうございます。
このエピソードはスイングジャーナル82年1月号から5回にわたって連載された、児山紀芳さんの「ジャズ名曲物語」からのものです。おそらく児山さんがミルトやギトラーから直接話を聞いたのではないかと思います。
この連載で取り上げられた名曲は、MJQと〈ジャンゴ〉、〈バグス・グループ〉、アート・ブレイキーと〈チュニジアの夜〉、ベニー・ゴルソンと〈アイ・リメンバー・クリフォード〉、ハービー・ハンコックと〈処女航海〉というものでした。
いつもありがとうございます。
児山紀芳氏の『ジャズ名曲物語』からでしたか!
ハービーが語る《処女航海》にも興味ありますね~。
博 橋本さん⇒TAKESI0506さん
ベニー・ゴルソンと〈アイ・リメンバー・クリフォード〉もいつかお願いいたします。
TAKESI0506さんからの返信。
リクエストにお答えしまして、ジャズ名曲物語の〈処女航海〉編をお送りします😂
1964年にマイルス・デイビス・クインテットのメンバーとして初めて日本の土を踏んだ時、私はまだ24才という若さだった。〈処女航海〉を作曲したのはその翌年1965年のことで、この曲の完成にあたってはいろいろ苦労もしたので、今でも当時のことは、よく憶えている。実は、〈処女航海〉にまつわる話をする前に、どうしても、私は自分の作曲第1号〈ウォーターメロン・マン> (1962年)に触れないわけにはいかないのだ。というのは、〈ウォーターメロン・マン〉という曲は、現在に至るまで私の作曲家としての基本姿勢というかコンセプトを象徴するようなシンボリックな作品であり、この曲が誕生しヒットしていなかったら、私は自分の作曲アイディアを今ごろはもっと別の方向に進めていたかもしれないからなのだ。そこで、まず、私のデビュー当初の話になる。
1960年6月、私はアイオワ州のグラネル・カレッジを卒業して故郷のシカゴの両親の元に戻った。私は1940年4月の生れだから20才になったばかりのことだ。私は7才の時からピアノのレッスンを受けていたし、学校でも音楽を勉強していたので、卒業すると音楽家になろうかどうか、ぼつぼつ自分の進路を決めなければならなかった。もっとも、カレッジを卒業してすぐミュージシャンとしてのレギュラーな仕事はあるわけがないので、私はシカゴ市内の郵便局の配達人の職についていた。学生時代から夏期休暇の時は、いつも郵便局でアルバイトをやっていたからだ。そうしながら、朝の8時から午後3時まで郵便局で働いては、夜はジャズ・クラブなどに顔を出し、時たま演奏するチャンスがくるのを待っていた。9月(1960年)になった時、『バードハウス』というクラブのオーナー、ジョン・コート氏から電話があって、テナー・サックスのコールマン・ホーキンスとプレイしてみたいかと誘われた。ホーキンスはシカゴに来るといつも決まって土地の名手ジョディー・クリスチャンを起用するのが常だった。ところが、この時は、ジョディーに別の仕事が入っていて、ダメだったんだ。それで、無名の私に機会を与えてくれたわけだ。私はいいチャンスだとばかりその仕事に飛びついた。飛びついたのはよかったが、2週間の仕事が3日目になると、もう身体がくたくたで、ぶっ倒れそうになった。なにしろクラブ出演は夜の9時から明け方の4時、5時まで続く。終って家に帰ったと思うと、すぐに郵便局に出勤しなければならない。私は、郵便配達の仕事をとるか、ジャズ・クラブでやるか、どっちかを選ぶというせっぱつまった状況に追い込まれてしまった。結局私は、郵便局の仕事を断ることに決めた。ホーキンスとの仕事が私をジャズの道へとひきずり込む直接的な動機となったのだ。それから数カ月、私は何かが起らないかと依然としてぶらぶらしていた。12月の最後の週になった時、シカゴは豪雪に見舞われた。すると『バード・ハウス』のコート氏からまた電話があって、『いいかい、じっくり腰を落ち着けてきくんだ。トランペットのドナルド・バードがピアニストを探してるんだ。仲間のピアニストが雪でこられなくなった。今晩、ミルウォーキーまで一緒に行く気はあるか?』っていうんだ。私はぶっ飛んで喜んだね。当時のドナルド・バードはモダン・ジャズ界の人気スターだったからね。ふたつ返事でOKすると、私はすぐにスーツを着込んで『バードハウス』でドナルド・バードとおちあったんだ。そして、車でミルウォーキーに向けて出発した。ところがその日の雪はすごかったんだ。シカゴの郊外まで出ると、とても、それ以上はドライブできる状態じゃないことがわかった。私たちは、仕方なく、その日は市内に滞まることにしたんだ。戻る途中、ドナルド・バードが、『せっかく来てくれたんだ。「バードハウス」に戻って、キミのピアノをちょっと聴いてみようじゃないか』という。私はオーディションされるのかと思うと胸がどきどきした。その夜、『バードハウス』ではトランペットとサックスのアイラ・サリバンが出演していた。私は飛び入りで弾かせてもらった。客席ではドナルド・バードと相棒のペッパー・アダムズが真剣になって耳をそばだてていた。こういうチャンスははじめてだったので、私は自分でもすっかりあがってしまっていた。弾き終ってステージを降りると、バードのところに近づいて、私はこういったんだ。『明日のミルウォーキー行きは、誰か別のいいピアニストを探してください。でも、今夜、私にチャンスを与えてくれたことは忘れません。どうもありがとう』ってね。私はもうすっかりあきらめていたんだ。ところがバードは『何をいってるんだ。素晴らしい演奏だったよ。明日ミルウォーキーに一緒に行くんだ』っていってくれたんだ。こうして私はその翌日、ミルウォーキーの『クーロース(Curro’s)』というクラブで、ドナルド・バード・クインテットとはじめて一緒にやったんだ。この仕事は、10日間の仕事だった。終ると年が明けることになっていた。
3日目になって、バードは、『どうだ、オレのグループのレギュラーにならないか。一緒にニューヨークにこないか』と誘ってくれたんだ。こうして1961年1月、私はドナルド・バード・クインテットのピアニストになってニューヨークに進出した。62年になって、私は、ブルーノート・レコードのオーナー、アルフレッド・ライオンにレコードをつくらないかと声をかけられた。それが私のデビュー・アルバム『テイキン・オフ』になった。「テイキン・オフ」の吹込みが決まった時、私がブルーノートからもらったお金はたったの100ドル(!)だった。印税もなかった。それでも私は、自分のレコードが出るんだし、すごくはりきった。私は、そのころ、自分が“黒人”であるということに誇りを持ちたいと考えていた。差別を体験したこともあったし、音楽で身を立てる以上は、自分のアイデンティティ、黒人としての自分の存在を音楽界で目立たせれば黒人同胞にとって何か役に立てるんじゃないか――そんなことをうっすら感じていた。私は、レコードを吹込むにあたって、なんとか私の背景にある文化的伝統、黒人青楽の伝統をいかしながら、それがもっと広く一般の人にまでアピールするような作品はつくれないだろうかと考えた。そう考えていると、とにかく、もっとも黒人的なタイトルは何だろうと考えるようになった。そこですぐ黒人のイメージとして頭に浮かんだのがスイカ売りの黒人のことだった。私は〈ウォーターメロン・マン〉という題名を決めると、当時ジャズ界で人気のあったファンキーなタッチのバック・ビートを強調した曲を書きあげた。その〈ウォーターメロン・マン〉を私は自分のデビュー・アルバムの核となる作品に仕立てた。1962年5月、アルバムは完成し、9月に「テイキン・オフ」は発売された。その年の12月、バードと私は仕事がなかった。すると、ラテン・バンドのモンゴ・サンタマリアから電話がかかってきた。ピアニストがやめてしまったので、しばらくつきあわないかという誘いだった(その時のピアニストがチック・コリアだったことはごく最近知った)。ラテン音楽はなじみが薄かったけど、短期間ならいい体験になると思った。モンゴのバンドに入ってブロンクスのサパー・クラブで演奏していた時、兄貴分のドナルド・バードが聞きに来てくれた。休み時間になると、バードとモンゴが音楽談義をはじめたんだ。ジャズとラテン音楽は共通のルーツがある、アフリカに源流があるんだってね。するとバードはモンゴに『ハ-ビーの〈ウォーターメロン・マン〉はそれを証明する曲だよ』っていったんだ。それがきっかけで次のステージでは、〈ウォーターメロン・マン〉を弾くハメになった。私がピアノを弾き出すと、モンゴがコンガでリズムをつけ出した。するとどうだろう、客席に座っていたお客が次々にフロアに出て踊り出したんだ。ステージが終ると、モンゴは『すごくいい曲だ。レコーディングしていいかい?』っていったんだ。そして、彼はレコーディングしてくれたんだ。こうしてシングルになった〈ウォーターメロン・マン〉は、たちまちビッグ・ヒットになり、ラジオのトップ・テン番組でがんがん放送されるまでになった。私は、すっかり自信を深めたんだ。それ以来、私は、自分のアルバムを録音する時は、必ず〈ウォーターメロン・マン〉のコンセプションを踏襲したファンキー・チューンを1曲入れることにした。1965年に作曲した〈処女航海〉は、実は、その同一線上の曲として作曲したんだけど、何度か試みたあとだったので、〈処女航海〉の時は、まず最初、私は何か新鮮味を打ち出したいと考えた。それにはバック・ビートのリズムを変えないといけないなと気づいていた。これまでのように2拍目と4拍目にバック・ビートのアクセントを置いたんでは、同じ調子になるなと感じていた。同じころ、ある広告代理店から私はテレビ・コマーシャルの音楽の作曲を依頼された。
「ヤードレイ」という男性用コロンのCMだった。これが私のCM第1号になるんだが、代理店側では、私にカルテットをつくってCMに出演してほしいとも注文をつけてきた。当時(1965年)、私はマイルス・デイビス・クインテットで演奏していたので、マイルス抜きのサイドメン・カルテットでCM出演することにした。CMの音楽作曲とブルーノートへの次回作の吹込み計画がほとんど同時に重なったので, 1965年のある時期、私は、常に頭の中でそのことを考えていた。そのうちに、マイルス・クインテットでカリフォルニアにツアーする計画が持ちあがった。ちょうどマイルスが『ESP』というアルバムを吹込んだ直後だった。私たちは飛行機でニューヨークからロサンゼルスに向っていた。機内で私はウェイン・ショーターと隣り同志になり、なんだかんだとしゃべりあってる時だった、突然のようにリズムが私の脳裏をかすめたんだ。
ドウ・ダン・ターン・ターン・ダン――〈処女航海〉のあの特長的なリズム・パターンがどこからかきこえてきたんだ。私は、通りすがりのスチュワーデスに紙ナプキンを持ってきてもらって、そのリズム・パターンを急いで書きとめたんだ。私は長い間、頭の隅から離れることのなかったCM作曲の戦いから解放されて、これで、CM音楽も次回作の中心となる曲もOKだと、すっかり安心してしまった。ところがなんたることだろう。ロスの空港に到着して、ホテルの部屋に入った時、私は、大切な紙ナプキンをどこかになくしてしまってたのだ。すでに、私の頭の中はカラッポだった。私はすっかり気がめいってしまった。その夜、ロスのクラブでは、マイルスが持参していた「ESP」のテープ・コピーをみんなでききなおしていた。ロンのオリジナル〈エイティ・ワン〉が終る時だった。曲がフェイド・アウトして消えていくところで、私は、なんと飛行機のなかで紙ナプキンに書きとめておいたあのリズム・パターンをピアノで弾いている自分を発見したんだ。私はリズム・パターンが決まったので、早速CM曲の完成に取り組んだ。マイルスとロス滞在中もホテルにこもってコード進行をあれこれ考えた。ニューヨークに戻ってからは、本格的にピアノに向って作曲にかかった。〈処女航海〉を作曲するころは、かなり野心的な和声手法をとり入れて、なんとか新鮮味を出そうとしていた。それだけに、この曲をつくる時は苦労した。曲の導入部にあたる最初のメロディー・パートをまずつくり、つづいてセカンド・メロディーをつくるところまではなんとかこぎつけたんだ。ところが、曲を完結させるエンディングのパートがどうしてもみつからない。何度も何度もはじめから弾いては、最後の部分で、はたと未完のまま終ってしまうんだ。私は、半分やけくそになった。なぜだ! なぜなんだって考えた。そして、また、最初に戻って弾き出した。そしたらどうだろう、エンディングを曲の冒頭のコードで終ると、ごく自然につながることを発見したんだ。そうだ、なにも完結させなくたっていいんだと思ったんだ。――次に続く
ベニー・ゴルソンが語り明かした〈アイ・リメンバー・クリフォード〉の秘話
クリフォード・ブラウンと私は40年代の末期からフィラデルフィアのジャズ界でちょくちょく顔を合せる間柄だった。クリフォードは10代の終り、私は20歳になったばかりのころだった。互いに知り合って、53年に私はクリフォードと一緒にプレスティッジのレコーディング(タッド・ダメロン名儀)で共演したりもした。クリフォードというトランペッターは神がこの世にさずけた天才トランペッターだった。49年のこと、フィラデルフィアの『O.V.CA TTO』というクラブで、当時無名のクリフォードがもう1人の偉大なトランペッター、ファッツ・ナバロと競演(!)したことがあった。ナバロは肺結核に犯されていて、死ぬ直前だった。そのころすでに“太っちょ〟のアダナがウソみたいに痩せていた。なんという凄いバトルだったことか。ナバロとブラウンの2人は、互いに火を吹くようなトランペットの競演をやったのだ。私は、身体中が電気のショックに打たれたみたいになってしまい、しばらく身動きできなくなっていた。クリフォードは〝スイート・クリフォード”と呼ばれた通り、誰に対してもとにかく温かい人間味を感じさせた。ところがトランペットを吹く時は、あまりの凄さに悪魔がのり移ったんじゃないかと思わせるような、背筋が冷たくなるようなソラおそろしいプレイもした。そんなクリフォードをジャズ・ミュージシャンたちは、“スイート・クリフォード”といって、みんな心から愛していた。55年のこと、クリフォード・ブラウンとマックス・ローチ5重奏団がテナー・サックスにソニー・ロリンズを迎えた。この時、彼らはクラブ『ブルーノート』に集まって厳しいリハーサルをやった。私は、自分で作曲した曲をいくつか持っていき、ブラウニー(クリフォードの愛称)に演奏してもらおうと思った。そのなかからクリフォードは〈ステップ・ライトリー〉という曲を選んでくれて、きかせてくれた。それは素晴らしい演奏になった。そして、彼らはこの私の曲をエマーシー・レーベルに吹込んでもくれた(その演奏はオクラになったままである)。クリフォードの前に私の曲を録音してくれたミュージシャンはたった2人しかいなかった。最初の人はジェームズ・ムーディーで、私の作曲家としてのデビュー曲は〈ブルー・ウォーク〉だった。ついでマイルス・デイビスが私の〈ステイブル・メイツ〉という曲を55年11月に録音してくれた。この時は、ジョン・コルトレーンが私の曲を気に入って、マイルスに譜面をみせる仲介役になってくれた。その次がクリフォードで曲は〈ステップ・ライトリー〉だったけど、それは陽の目をみなかった。クリフォードはデラウェア州ウィルミントンの生れだったが、そこはフィラデルフィアから30哩しか離れていなかった。フィラデルフィア生れの私とクリフォードはだから同郷の仲間という親しい間柄でもあった(コルトレーンと私の家とは数ブロックしか離れていない近所同志だった)。それは56年6月27日の夜だった。その頃、私はディジー・ガレスピー楽団のメンバーになっていた。その日、私たちはニューヨークのハーレムにあるアポロ劇場で演奏していた。演奏が終って、休憩となり、私たちはステージを降った。そして、休み時間が終って、みんながもう一度、舞台に集まりだした時だった、ピアニストとウォルター・デイビスJrが泣きながら舞台に駆け込んできた。そして、ウォルターはみんなに泣き声でこうふれて回ったんだ。『きいたかい! きいたかい! ブラウニーが昨夜死んだんだ!』ってね。その瞬間、舞台を歩いていたミュージシャンたちはみんな一瞬、耳を疑った。『オー、ノー!』と顔を手でふさいだミュージシャンもいたし、みんなその場に針づけになった。『クリフォード・ブラウンが昨夜、自動車事故で死んだ! ピアニストのリッチー・パウエルと夫人も死んだ!』。ウォルターは涙をポロポロ落しながらみんなにそう伝えた。私はいいしれないショックを受けた。その場にへなへなと身体が崩れてしまいそうだった。あんなに素晴らしいミュージシャンが雨でスリップして、自動車事故で死ぬなんて! リッチー夫妻も一緒に逝くなんて! 私は気が動転してしまった。その時、劇場の舞台監督が声をはり上げたんだ。『さあ、みんな、時間だ、時間だ! カーテンが上るよ!』ってね。そして、みんなをステージに押しだしたんだ。バンドのメンバーはみんな泣いていたんだ。
『演奏だ、演奏だ!』といわれても、どうしようもなかった。楽器を持って席にはついたけど、プレイどころではなかった。力が抜けて、ぼう然としているだけだった。それでも、ディジー・ガレスピーは、かろうじてみんなを勇気づけて、カーテンを上げさせたんだ。演奏中も涙が頬を伝わってきて、音はとぎれがちだった。私はこれは夢をみてるんだ。とそう考えてばかりいた。そして、目をさまそう、目をさまそうとしてたんだ。でも、悲劇は夢じゃなかったんだ。翌日、新聞を見るとクリフォード・ブラウンの死を伝える記事が掲載されてたんだ。やっぱり本当だったんだ。それからしばらく、ミュージシャンたちは、クリフォード・ブラウンが、あのクリフォード・ブラウンがと彼のことばかりを話し合っていた。私はいつまでたってもブラウニーのことが忘れられなかった。そしてある日、私は、ふと、そうだ、クリフォードを偲ぶ私の気持を曲にしてみよう! と考えた。それはクリフォードが死んで半年ほどたった57年の1月のことだった。私がディジー・ガレスピー楽団とロサンゼルスに演奏旅行した時のことである。クラブの名前はどうしても思い出せないんだが、ハリウッド・ブールバードとウェスタン通りにあったクラブだった。当時、私は作曲に燃えていた。マイルス・デイビスが〈ステイブル・メイツ〉を録音してくれたことで、大いに意欲をかったてられていたのだ。だから、演奏旅行などがあると、私は、たった1人、昼間からクラブに出向いていってはピアノの前に座って曲を作っていた。その日もそうだった。昼過ぎにクラブに出向くと、バーテンダーがグラスを洗ったりしていた。しばらくピアノの前にじっと座っていると、ずっとそれまで私の心の片隅にあったクリフォードヘの追慕の情がまたこみあげてきた。ごく自然にだった。そうだ、クリフォードが生きていて、トランペットを吹いたら、今ごろはどんなプレイをしているだろうか、私はそんなことも考えた。そして、ピアノの鍵盤を押えにかかった。はじめのうちはなにげなくピアノのキーに触れているだけだった。ところが、そのうちにだんだんメロディーがきこえだしたんだ。私は、それを気持のおもむくままに弾いてみた。するととても美しいメロディーになっていた。まるで、ブラウニーが甦って、トランペットを吹いているような錯覚にとらわれたんだ。私は伴奏をつけるつもりでコード・ネームを大急ぎで5線紙に書き、メロディーも書き移した。もう一度、ピアノで再現してみた。すごく美しい響きだった。まるで耳元でブラウニーのトランペットがきこえてきそうだった。でも、私は自信がなかった。これがはたしてクリフォードヘの捧げものというにふさわしい曲なのか、どうか。自分だけでそう感じるだけなのかもしれない。私は曲をその日の午後、完成させると、ディジーにきいてもらおうと思った。その日の夜、私ははやばやとクラブに入った。するとその日に限ってディジーも早く顔をみせていた。私はディジーに頼み込んだ。
『ねえ、ディジー、今日、この曲を書いたんだ。クリフオードに捧げたんだけど、きいてみてくれないか』ってね。で、私はピアノに座ったんだ。ディジーは立って譜面を見ながら、私が弾くのをじっときいていた。私が曲を弾き終ると、ディジーはこういった。『ヘイ、ベニー、なんていい曲なんだ。まるでクリフォードがプレイしているみだいじゃないか! これは素晴らしい! これは素晴らしい!』ってね。そして、早速、バンドで演奏しよう、とまでいってくれたんだ。私は、『じゃすぐアレンジをしなきゃ』となかば夢中になってディジーの反応をきいていた。私は2、3日で編曲を終えると、早速、バンドで演奏してもらった。バンドのトランペット・セクションにはリー・モーガンがいて、リーもすっかりこの曲が気に入ったみたいだった。みんないい曲だ、いい曲だって大変なほめようだった。〈アイ・リメンバー・クリフォード〉という曲はこんなふうにして誕生したんだよ。私は小さいころから熱烈なジャズ・ファンだった。天井にアイドルのチャーリー・パーカーとかドン・バイアスの大きな写真を張って、ベッドに横になるといつも写真が見えるようにしてあったほどで、子供心に私もいつかはこういうジャズ・グレイトみたいにプレイするんだと夢に描いていた。ところが実際プレイしはじめてみると、ビ・バップのメロディーがとても複雑で覚えにくいってことがわかった。私は、ジャズだからって、なにもこんなにむつかしいメロディーばかりじゃなくてもいいんじゃないかとふと考えたりした。美しいメロディー、シンプルできれいなメロディーでだって立派なジャズ作品になり得るはずだ――それが私の課題になった。〈アイ・リメンバー・クリフォード〉もそうだった。曲としては、特別、変ったところもない。形式も普通のAAABA形式の32小節の曲だし、コード進行もそんなに凝ったものじゃない。ところがメロディーは誰からもとても美しいといわれるような曲になっている。私は特別、音楽学校で作曲を専攻したりもしなかった。いつも自然に湧いてくるメロディーをそのまま無心に譜面に書き移すだけだった。〈アイ・リメンバー・クリフォード〉の時は、私がピアノでコードを弾きながら、クリフォードのトランペット・ソロに伴奏をつけているような気持で作曲してたんだ。クリフォードを偲ぶ曲ということで、この曲は最初、トランペット奏者によって演奏されだした。レコーディングで初演してくれたのはトランペッターのドナルド・バードだった。つづいてリー・モーガン、ディジー・ガレスピーも録音してくれた。そのうちにこの曲は、ベース奏者のオスカー・ペティフォードやソニー・ロリンズとかMJQとかオスカー・ピーターソンとかいろんなミュージシャンによって演奏され、吹込まれるようになった。そして、ついにはジョン・ヘンドリックスが詞をつけてくれて、カーメン・マクレエやダイナ・ワシントンによって歌われるようになった。これまでレコード化された演奏で、今でも私の心を強く打つ決定的な名演奏がひとつある。それは、アート・ファーマーと私が結成していたジャズテットでの録音で、全篇アートのトランペットをフィーチュアしたものだ。もともとアート・ファーマーはとても温か味のあるトランペット・サウンドの持主だけど、〈アイ・リメンバー・クリフォード〉を吹いた時のアートは実に感動的だった。感情のこもった名演だった。バラードの名手ミルト・ジャクソンも素晴らしい演奏を残してくれたけれど、アート・ファーマーの演奏は今でも印象に残っている。
ところで、ごく最近、フレディー・ハバードが電話をしてきてね、クリフォード・ブラウンの想い出を1時間余りも話しあったんだ。フレディーがいうには、1年半ほど前、イタリアのローマのコンサートで〈アイ・リメンバー・クリフォード〉を演奏したっていうんだよ。ところがその時、演奏していると自然に涙が出てきたっていうんだな。演奏中に涙が出たなんて、フレディーにははじめての体験だったらしいんだ。涙が頬を伝って顔がぐちゃぐちゃになったってね。ところが、それが客席のファンにわかってね、遂にはファンまで感動して、泣きだしたっていうんだよ。それがテレビの画面を通じて放送されたんだ。フレディーはそのビデオを私に観せたいっていうのさ。で、フレディーは、どうしてもこの曲を新しい構想でもう一度やってみたいから、オーケストレーションを書いてくれないかって頼んできたんだよ。フルートのヒューバート・ロウズを一緒にフィーチュアしたいっていうんだよ。私は嬉しかったね。もうすでに30以上もの異なるレコーディングが残されているし、作曲してからだって25年近くもたつんだからね。それなのに、今なお新たな感動を生むなんて、作曲家としての冥利に尽きると思うんだ。〈アイ・リメンバー・クリフォード〉こそは、私の生涯を通じてし、とも記念すべき曲だからね。
博 橋本さん⇒TAKESI0506さん
ゴルソンの秘話、有り難うございました。
《アイ・リメンバー・クリフォード》は私にとってはとても思い出深い曲です。
若い頃のクインシーのオーケストラをバックにクラーク・テリーが吹いているものと、MJQの「ヨーロピアン・コンサート」の演奏が好きです。それからゴールデン・サークルのパウエルの演奏は、弟のリッチーに向けての思いが切々と心に沁みる、別格の演奏だと思っています。
s tさんからのコメント。
長文失礼します。質問です。
私は元々ロック畑の人間だったのですが、20代になってから尖った荒々しい生命を感じるサウンドのロックよりも、アダルトで艶やかで時代の景色薫るジャズを好んで聴くようになり、かれこれ1年以上経ちます。
しかし、批評の記事や高野さんのようなyoutubeのレビューを見聞きしていて「いい演奏と悪い演奏」の違いが分かりません。
ソロの取り方など演奏者や、演奏の場所によって少しずつ違いが出るのは分かるのですが、では具体的にどういったところが「いい演奏か悪い演奏か」を決定しているのかジャズについて造詣の深い高野さんのご意見をお伺いしたく思います。
これからも応援してます!ご自愛ください。
気が向いたら動画で話してみようかと思っています。