先日アップした動画「ドーハムの「そこ」が良い!」(こちら)に動画視聴者さまよりいただいたコメントに対してのアンサー動画をアップしました。
【コメント返し】ケニー・ドーハムのトランペットをめぐって~青二才 vs. 大御所評論家
コメント
kankannouさんからのコメント。
じゃず道場🎺😍w
ジャズ道場w😱w
早春さんからのコメント。
コメント返しありがとうございました。
最近、蓮見重彦に影響を受けた勢いで書きました。
ちょっと調子に乗り過ぎましたし、硬くなり過ぎました😓。次はもう少しのらくらと書こうと思います😅。言葉については、チョムスキーの言葉を借りると
言語は思考の道具である。(Chomsky, 1992a: 49)
だそうです。動物の言葉と違って人間の言葉は誤解を生んでしまうことから、人間の言語はコミュニケーションのツールではなく思考の道具である、ということだそうです。私もいつもコメントを書きながら文字だけで伝える難しさを感じています🤔。
文学の文字で記述する営みは、物事のいろいろな側面を映し出し、人に「気づき」を与えるものだと思います。「思いつく」という自分の中に自然発生する事象によってのみ引き起こされる物事に「気づく」という行為は、自分で意図して起こすことが出来ません。この「気づき」のきっかけを人に与え、その人の人生を意味あるもので満たし、人生を豊かにするものが文学だと私は思います。昨今の若者はこの意味での文学、「気づき」をもたらし人を思索へと導くものを放棄してしまったように感じられます。
音楽にも文学とは違う側面からの「気づき」を与える効果があると思いますが、今日ではただ自分が「いい気分」でいるためだけの道具になり下がってしまったように感じます。ドーハムのようなじっくり聞かせる音楽は却ってその価値を高めているのかもしれません...。高野さんのドーハムのフレージングについてのお話を聞いてから、Quiet Kenny、特にLotus Blossomを聞きまくっています。おっしゃる通り彼のフレージングはなかなか考えられた、ただ事ではないソロだと思います😆。
コメントの中でマイルスに触れましたが、私はドーハムとマイルスには通じるものを感じます。知識不足ゆえのことでしたら恥ずかしいのですが、①ビバップ時代から演奏していて、②ビバップの次のスタイルの創世記に活躍し、③60年代前半あたりでテクニック的にも音楽家としても円熟を迎えるというところです。演奏スタイルにしてもビバップ時代の神々しいトランぺッターとは違う、④リップコントロールの生むニュアンスの妙に可能性を見出したというところにはやはり通づるものを感じます。マイルスが時代を引っ張って行ったのに対してドーハムは「装飾者」だったのかもしれませんが、ビバップの後JMを経て、ジョー・ヘンダーソン、ドルフィー、ヒル、セシル・テイラーと共演し、その中に素晴らしい演奏を残していった点は見逃せないと思います。見当違いの見解かどうか😅、ご意見をうかがえると嬉しいです。
>私はドーハムとマイルスには通じるものを感じます。
同感です。
映像作品でいえば、最近の庵野秀明監督に近いのかも。
つまり「第二世代」。
もちろん『エヴァンゲリヲン』というSFの衣をまとった私小説的オリジナル作品も作っていますが、基本的には「本歌取り」が得意な人だと私は考えます。
キューティーハニー、ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーを生み出した、永井豪、本多猪四郎、円谷英二、石森(石ノ森)章太郎ら、ゼロから新しい価値、つまりオリジナルを作り出した人の作品に憧れ、近づこうとした「次世代」の人。
だから、ゼロから新しい価値を創出するだけの強烈なオリジナリティには多少欠けるものの、強烈なオリジナリティを放出した人たちの作品に対する一種独特な批評的な目線、メタ化できる「ほどよい時間差」、そして敬愛する先輩の創作パワーとオリジナリティに対するある種のコンプレックスと、別な価値を付加して乗り越えよう(ヴァージョンアップをはかろう)とする柔軟性などなど。
表現者の力量、センスにが占める要素ももちろん大きいのですが、「いつ生まれ、誰の作品に痺れて育ったか」によっても、作品のパワーのベクトルはずいぶんと異なる方向に向くのではないかと思います。
早春さんからの返信。
すみません、例示されているものはほとんどわからないのですが、言わんとすることは解りました😅
ご意見ありがとうございました。参考になります😁
Kawai Andyさんからのコメント。
言葉は難しいですね〜 最近、世間では短歌が様々な年代で流行っているみたいですけど、私は哲学や論理的な言葉そのものも大事ですが、俳句や詩などの「行間を読む」ことも大事だなぁと思います。
「行間」を読むことは大事ですね~。
私はあまり得意なほうではないので(涙)、なおさら大切さを感じています。
あと、早春さんへのアンサーコメントでも触れましたが、その作品(表現)は、「いつ」作られたか(演奏されたか)に注目するのも個人的には大切、というか興味があります。
すべての作品が時代とリンクしているとは限らないのですが、その表現者は「誰」から影響を受けたのか(先輩)、あるいは同世代はどのような表現をしていたのか、さらに後続はどのような表現スタイルなのか、などに注目し、自分の中で点と点を結び付けて線を作る作業が歴史好きということもあってか、個人的には楽しいです。
Kawai Andyさんからの返信。
ジャズを楽しむことの一つに「聴く」だけではなく、作品やその背景についての情報をもとに更に深く理解を深めることもありますね。アートの世界でもフェルメールの作品やダ・ヴィンチの「モナ・リザ」など謎解きにワクワクします。学問で言うとまるで「考古学」のようですね。
たしかに、音楽を起点に様々な領域に興味が拡大していく楽しみもありますよね。
御駄賃取郎さんからのコメント。
私がこうした医者・科学者?のジャズ論が苦手なのは「スパッ!」と理路整然とかたられることです。こんな話しなど、ジャズ好きが、酒場に2人よれば、言葉こそ不自由であろうとも、あたりまえのごとく語られる会話だ。
お前こそ(医者など)てめえの屁理屈を偉そうにぶつな!・・・というのが私の本音であり、どこまでも早春さん?に限りなく同感・支持をしたい。フリーだろうが、現代音楽だろうが、音楽はすべからく「好きか、嫌いか」以外に何が必要なのだ!?
自分はこうした医者のごとき「科学者」が語るジャズ論など、実をいえば、かなり昔から馬鹿にしてきた。異性を好きになる時、それにさえ学者は分析し理屈をごねるのか?そんなもん、個人の勝手だろ!?お前の身勝手な屁理屈など、銭だして聴く耳などわしはもっておらんわ!!
なぜ寺島靖国さんの本がある時期ブームを呼んだのか?といえば、こうした評論家への反発にも思える。
ジャズを理路整然と語る人物の話など大の苦手としてきた。ケニー・ドーハムを語る時、なぜマイルスがでてくるのだ!?・・・これこそ自論の「自分の女房自慢するやつはロクなモンじゃねえ!」の所以だ。
私は、全面的ではないものの、寺島靖国支持派だ。余韻が残るのと、好きでもないことへの文章は極端に弱さを露呈する。まさにそれが寺島節であり、私もそうでありたいと自分で思う。
早春さん!いいかげんな大御所?が必ずしも正義とはかぎらない。自分は粟村氏の本など、「真っ先に買い、真っ先に捨てた」。