アイラーは、「破壊せよ」とは言ってない

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以前アップした動画「アルバート・アイラーこそ革新者だ。コルトレーンなんて歌謡曲なんだ。高柳昌行『汎音楽論集』より。」(こちら)にいただいたコメントへのアンサー動画をアップしました。

コメント

博 橋本さんからのコメント。

😊🌟😊🌟😊🌟😊🌟😊🌟😎

オカハセちゃんねるさんからのコメント。

高柳さんなどさまざまな人がさまざまな考察をしてそれを述べることに関しては、とやかく言う気は全く無いし、相当に哲学者的に考え抜いて発言してるからある意味では説得力だってあります。
たーだ〜!(粗品風に、笑)
「舌を肥やすな飯が不味くなる」という言葉がありますが、音楽に関してもこれは当てはまる話ですね。
もちろん前提として「耳を肥やせる環境ならばどんどん肥やして良い」と思います。
たーだ〜!(笑) 舌を肥やせる環境じゃない貧困な国の人達の味覚が鈍感だろうかと考えるとそれは少し違っていて、本当に質素なもので「美味しい」と感動できる舌はある意味では肥えてるとも言えると思うんです。これは音楽を聴く耳に関しても言えて、耳が肥えたジャズ愛好家は良くも悪くもそう簡単には感動しなくなります。耳が肥えたというよりも「良いと判断する基準が狭くなっているのかもしれません。相当良いものにしか感動できないということは「判定がシビア」とも取れるけど「なかなか感動できない鈍感な人」とも言えて…
だからもしかすると「舌を肥やすな飯が不味くなる」という言葉の本当の意味は「舌が贅沢になると相当に美味しいものにしか感動できない鈍感な舌になって食事を楽しめなくなるから不幸だよ」という意味なのではないかと思っています。もちろん美味しんぼの海原雄山も然りです。美食を求め過ぎて奥さんを不幸にもしてますからね(笑)。
なんか話がズレましたね(笑)。
話を元に戻すと、僕は高柳さんの考察をとやかく言う筋合いも無いけど、僕らが高柳さんにとやかく言われる筋合いも無いわけで(笑)。
1番良くないのは自分の感性よりも、そういう人たち(例えば高柳さんや、タイプは違いますが寺島靖国さんとか)の考察を鵜呑みにすることかなと思います。
自分が心地良いと感じるものを素直に聴いてとやかく言われる筋合いも無いし、そもそもアバンギャルド音楽に理屈を付けて言いたがる人達は好きではありません。
あ!結局は高柳さんにとやかく言う結果になりました(笑)。

美食追求海原雄山化説は、なるほど!説得力ありますね。
確かにそうかもしれません。

ほんと、その通り! オカハセさん、うまい喩え話しを出すなぁと思いつつも、あまりコメントで返す言葉というか文章が思い浮かびませんでしたので、代わりにAIに返事を書いてもらうことにしました(笑)。

今回はGPTではなく、ジェミニにご登場願いまして、以下のような質問を投げてみました。

「あなたは哲学者であり、文化人類学者でもあります。そんなあなたに質問します。美味しいものをたくさん食べると、舌が肥えてくるので、だんだん料理に対する要求が厳しくなりがちになる。私はその通りだと思うのですが、あなたはどうお考えですか?」

すると、このような回答が返ってきました。

「哲学者・文化人類学者として、確かに美味しいものをたくさん食べると、舌が肥えて料理に対する要求が厳しくなる傾向は存在すると考えます。これは、経験と学習に基づく人間の味覚の可塑性によるものです。

まず、味覚は五感の一つとして、舌にある味蕾によって甘味、酸味、塩味、苦味、旨味の基本的な五味を感知します。しかし、人間が感じる味は、味蕾の情報に加え、嗅覚、視覚、触覚、温度などの情報が複合的に作用して形成されます。

美味しい食事を経験するほど、これらの感覚情報が脳内で記憶され、過去の経験と比較しながら新しい味を評価するようになります。つまり、より多くの美味しい経験を積むことで、味覚の解像度が上がり、より繊細な味の違いを識別できるようになるのです。

文化人類学の観点から見ると、食文化は社会の中で形成され、伝承されてきたものです。様々な食材や調理法、食習慣は、その土地の歴史、環境、宗教、信仰などの影響を受けています。美味しいものをたくさん食べることは、単に味覚を肥やすだけではなく、その土地の文化や歴史を理解することにも繋がります。

一方、舌が肥えると、常に新しい味を求め、満足するのが難しくなるという側面もあります。これは、常に「より良いもの」を求める人間の性向とも関連していると言えるでしょう。

しかし、食の楽しみは必ずしも高価なものや珍しいものではありません。身近な食材やシンプルな調理法でも、工夫次第で美味しい料理を作ることができます。大切なのは、感謝の気持ちを持って食事を楽しむことです。

結論として、美味しいものをたくさん食べることで舌が肥え、料理に対する要求が厳しくなるのは、人間の味覚の可塑性と文化的な背景に基づく自然な現象と言えます。しかし、食の楽しみの本質を見失わず、感謝の気持ちを持って食事を楽しむことが重要です。」

人間の味覚の可塑性かぁ。
感謝の気持ち。これって大事ね!(笑)

さらに質問を続けましょう。
以下のような質問をしてみました。

「このことは音楽ファンにも当てはまりますか? 良い音楽ばかりたくさん聴いてばかりいると、演奏やアレンジに求めるクオリティの要求がいつしか高くなり、次第に新しい音楽に接しても感動できなくなってくるということです。
文化人類学者であり哲学者であり脳科学と心理学の研究の権威でもあるあなたの見解をお聞かせください。
それとともに、良い音楽をたくさん聴き過ぎたが故になかなか標準レベルのクオリティのものには満足できなくなった感性に対する対処法があれば教えてください。」

するとこのような回答が。

「音楽ファンにも、美味しいものをたくさん食べることで舌が肥えるように、良い音楽ばかりたくさん聴き続けると、演奏やアレンジに求めるクオリティの要求がいつしか高くなり、次第に新しい音楽に接しても感動できなくなってくるという現象は確かに起こりえます。

これは、脳科学と心理学の観点から説明することができます。

脳神経科学による説明:

ドーパミン:
音楽を聴くと、脳内でドーパミンと呼ばれる神経伝達物質が放出されます。ドーパミンは、快感や報酬に関連する神経伝達物質であり、良い音楽を聴くことで、脳内にドーパミンが大量に放出されます。

報酬系:
ドーパミンの放出は、脳内の報酬系を活性化します。報酬系は、学習や記憶、モチベーションなどに重要な役割を果たしており、良い音楽を聴くことで、脳内の報酬系が活性化されると、その音楽を「良い」と記憶し、再び聴きたいという欲求が生まれます。

聴覚野:
良い音楽を聴き続けることで、脳内の聴覚野が活性化されます。聴覚野は、音声を処理する脳領域であり、活性化されると、より繊細な音の違いを識別できるようになります。
心理学による説明:

慣れ:
良い音楽を聴き続けることで、その音楽に慣れてしまいます。慣れは、刺激に対する反応が弱くなる現象であり、良い音楽に慣れると、当初ほど感動を感じられなくなります。

比較:
新しい音楽を聴く際、脳は無意識のうちに、過去の経験と比較します。良い音楽ばかり聴き続けていると、過去の経験が基準となってしまい、新しい音楽が基準に満たない場合、感動を感じられなくなります。

期待値:
良い音楽ばかり聴き続けていると、新しい音楽に対して高い期待値を持つようになります。期待値が高すぎると、期待通りの音楽に出会えなかった場合、失望感が大きくなり、感動を感じられなくなります。

良い音楽をたくさん聴き過ぎたが故になかなか標準レベルのクオリティのものには満足できなくなった感性に対する対処法:
意識的に新しい音楽に接する:自分の好きなジャンルだけでなく、普段聴かないジャンルの音楽にも積極的に触れてみましょう。

ライブに行く:
ライブでは、CDや配信では味わえない音や空気感を体感することができます。
音楽鑑賞の環境を変える:いつもと違う場所で音楽を聴いたり、ヘッドホンではなくスピーカーで聴いたりすることで、新しい発見があるかもしれません。

音楽を聴く以外の楽しみを見つける:
音楽以外の趣味を持つことで、音楽に対する執着を減らすことができます。

音楽評論家やブログなどを参考にしない:
音楽評論家やブログなどの意見は、あくまで参考程度に留め、自分の感性を大切にする。
これらの対処法を実践することで、音楽に対する感動を取り戻すことができるかもしれません。

まとめ:
音楽ファンも、美味しいものをたくさん食べる人と同じように、良い音楽ばかり聴き続けると、感性が鈍り、新しい音楽に感動できなくなってくることがあります。これは、脳科学と心理学に基づく自然な現象であり、対処法を実践することで、音楽に対する感動を取り戻すことができます。

大切なのは、常に新しい音楽に積極的に触れ、自分の感性を大切にすることです。」

だそうです😆

よーし、ライヴ行くぞ〜
音楽評論家やブログなどを参考にしないぞ〜😆

オカハセちゃんねるさんからの返信。

AIさん今回は滑稽では無い素晴らしい解答(笑)。
楽しく読ませていただきマンモスしたベシ(^◇^)

高松貞治さんからのコメント。

ブルースなら高野雲さんも知っていると思いますが、Black Ace のアルバムも言うことなしにすばらしいですよ!普通ではない独特の奏法で、自分とっては愛聴盤です。

ブラック・エース!
いいですねぇ。
他のカントリー・ブルース系のブルースマンとは一線を画するコクとマイルドさがあって大好きです。