『ジャズ批評46号』ジョン・コルトレーン特集に掲載されたトランペッター近藤等則氏による「評価されすぎたコルトレーン」などの記事を紹介した動画をアップしました。
ジョン・コルトレーン特集の『ジャズ批評46号』に掲載されたトランペッター近藤等則氏による「評価されすぎたコルトレーン」などの記事や詩を読んでます。
コメント
御駄賃取郎さんからのコメント。
自分の記憶では・・・スイングジャーナル誌上でコルトレーンを堂々と「神になりたい・・なんて、いかがわしい輩だ」と明言していた。岩波洋三さんただひとりだった。油井正一さんまでもが日本公演盤を大絶賛!していたが、ジャズ喫茶のような「道場」で感じるトレーンの熱気と、一歩距離をおいた市井のジャズファンの?感じ方には少し距離があったようだ。それが来日公演不入りの一因ではなかったのか?
今回のインタビューで稲垣次郎さんのコメントというのが実に興味深いのだが、あの世代のミュージシャン達は「技を極めてこそ、銭がかせげて、さらに自分のスタイルの研鑽へと進める」とみんなが語っていた。
だからこそ、こうしたスタジオワークに長けた技術を持つなんてことはプロとして極めて最低限のことであった。若き日の松本英彦さんが一時期、バリバリのコルトレーン・スタイルだった、という話を先輩からよくきかされた。そして、一流ミュージシャンは堂々と「歌のない歌謡曲」もやってきた。決して変名などつかわなかった。
だから、当時の日本の一流ジャズメンたちは、たとえフリーのスタイルであろうとも、きちんとフルバンドの仕事も初見で立派にこなせた。一流キャバレーバンドやスタジオワークのミュージシャンのレベルはあたりまえだが、かなり高いのだ。
今やキャバレーも姿を消し、テレビから歌番組もほとんど消滅しているが、これこそ、「ジャズの危機」のように思えてならない。
永井勉さんからのコメント。
サックスのソロをより機械的、よりシーケンス的に
聴かせてくれるコルトレーンの音使いは好きです・・・
スローで凄い演奏を出来るのに、あえてやらない感じが
いいですよねえ~~~
モンクと同じで先駆者だと私は感じています!!
で、その2人が共演した《スイート・アンド・ラヴリー》が、もう、これはノタウチ回るほど凄いんですねぇ。
永井さんもきっと大好きだと思いますけど。
永井勉さんからの返信。
のたうち回りました・・・WWW
やっぱり…😁
人力飛行機さんからのコメント。
朗読されてる話のなかにジェイク・コンセプションの名前があります。その人。ジャズに疎い私でも1980年頃から知っていたんですね。ジェイク・コンセプションて1979-1981に吉田拓郎のレコーディングやツアーに参加してる。でライブ盤聴くと間奏で拓郎氏が「ジェイク!」とかシャウト。でサックスのソロがある。そこでジェイクの名前は覚えたんです。拓郎氏の1979年に知多市の篠島でやったオールナイト・コンサートにも参加。ライブ音源やDVDにもサックス音源や姿が入ってるんですね。そのころ拓郎氏がジェイクのサックスを重宝してた。で私も何気に頻繁に聴いていた。検索すると、松田聖子の「Sweet Memories」にも参加。あの間奏の印象的なサックスはジェイクであったという。これは私も初めて知りましたけど。矢沢永吉さんのバンドにも参加。検索すると相当参加歌手が上がってきます。欧陽菲菲「Love is over」における印象的なサックスも。J-POPにおけるサックスはこの人、というポジションだったんですねきっと。ほぼ第一人者。
日本の阿部薫ってドルフィーの影響が強いそうだけど、思想とかジャズへのスタンスとしてはコルトレーンだったってことでしょうかね。ジャズをあり得ないものへの架橋にしていたようだから。それはドルフィーというよりはコルトレーンのスタンスなんでしょう。叫ぶみたいな部分はコルトレーンのバンドからですかね。
TAKESI0506さんからのコメント。
稲垣次郎というテナー奏者は74年頃のスイングジャーナルに「オレにも言わせろ!」というコラムを連載して、言いたいことを書いてましたが、74年11月号に載った中山康樹さんの「ブラックファンクへの警鐘」という文章に対して猛烈に噛みついてます。中山さんの文章は4ページに渡る長いものなので書き込めませんが、12月号に載った「オレにも言わせろ」を要約すると――
『今年一年をふり返ってみると、ブラック・ファンクとかファンキーという言葉が大氾濫した。
俺は来たるべくして来たブームだから何の不思議も感じない。ファンクが流行すれば、我々も忙しくなっていいや、くらいのもの。ただ、どうしても我慢ならないのは、日本人てのは、ヘソまがりが多いのかどうか知らんけれど、このようなブームになって来ると、必ず水を差す奴がいるんだな。「ヘッド・ハンターズ」がミリオン・セラーになると、あれは良くないとかイモだとかね。
しかし良し悪しの判断以前に、自分の好みでものをいってる人がいるんだな。慶大教授で評論家という肩書きを持つ鍵谷幸信さんという方もそうだ。セシル・テイラーや何かが好みと聞いたが、それじゃファンキーに関してはどの角度からみても好きになれる要素はないよ。自分の好み以外は音楽じゃないというのも結構なんだよ。俺も何10年間コルトレーン以外は何も聞かないようにしていた時代があった。
好みってのは千差万別、皆違うんだな。それを気に喰わないものは良くないとか音楽的後退だとかいわれちゃ困る。記事を書く人は、特に偏見を持っちゃいけないよ。常に白紙の状態で音楽を評価しなきゃ。俺の音楽生活23年間で、これ程苦労したことはないくらい難かしい音楽だ。それから、もう一人、中山康樹さんという人。何をする人か知らないけれど、ひどい事書いてるね。「ジャズは低迷期にあり、その一つの安易な逃げ道としてファンク・リズムを導入している」とか「ある方向に進もうとするのだが、そのヒントがつかめずにいる時、恰好の遊びとしてイージーに取り組むことができるタイプの音楽である」というんだな。何ということだい、これは! ファンクの要素を持つグループで、ウェザー・リポート、ビリー・コブハム、デビス、ハンコック、また彼らが作曲、制作したアルバム、たとえば「ミステリアス・トラヴェラー」や「クロスウインド」など、遊び半分で迷いながらできる音楽じゃないぜ、少し言葉や文字を慎しんだ方がいい。中山さんのいってることを聞いていると、デビスもビリー・コブハムもウェイン・ショーターも三流の楽隊のイメージに聞こえるじゃないか。ましてや、日本人のやるものなんてのは、ジャズじゃないと思っているんだろうけど。以前、渡辺貞夫と2人でガトー・バルビエリは最悪だといったことがあったけれど、あれは音楽的なことも含めていっているので、ただ好き嫌いだけでいったんじゃない。中山さんの言葉で、もうひとつ「楽しいだけの音楽があまりに多すぎることに気付きはしないだろうか」といってるね。何だい、これ。楽しくちゃいけないの? ああ馬鹿馬鹿しい。あきれて腹も立たねえや。俺はスイングして楽しいものがジャズだと思ったけど違うのかなあ。
結論……好き嫌いと良し悪しを、ごっちゃまぜにするな!』
75年1月号の読者投稿欄に中山さんの反論が載りました
『12月号の「ジ・アザーボイス」にて貴方が書かれた、ぼくに対する不満の数々拝読いたしました。以下はその感想及び貴方への〝俺にも言わせろ!〟です。稲垣さん、貴方は自分をまったくわかっていない方だ。良し悪しの判断以前に、好みでものを言っていると貴方が批難する人種の張本人こそ、貴方ではないですか。思うに、貴方にはクリエイティブで知的なサウンドに対するコンプレックスがあるらしく、貴方にとってファンク・リズムとは、それを消し飛ばしてくれる唯一の音楽なのでしょう。そしてもう一つ、貴方には人の書いたものや意見を曲解するという特技がおありのようです。ぼくは、ファンクが遊び半分の音楽だと書いた覚えはないし、マイルスやウェザー・リポートを二流と考えるようなことも書かなかった。しかし、貴方はどこをどう読んだのか、あるいはタイトルの「警鐘」という言葉にカチンと来たのかは知らないけれど、ぼくの意見を勝手に、文句の言いやすいように読んだのではないでしょうか。貴方はびっくりなさるかもしれないが、ぼくはマイルスやウェザー・リポート、言いかえるなら新しい動きには積極的に支持する気持ちの持ち主で、ぼくがファンクを通して言いたかったのは、ミュージシャンをして音楽へと駆り立てているものの質についてなのです。その結果生まれた音楽が楽しければそれで良いのであって、ぼくは〝楽しければ駄目だ〟とは一言も書いていません。稲垣さん、人に反論をする時は、もっと注意深く文章を読んでください。勝手に曲げてもらっては困るし、反論、言いがかり、悪口を混同してもらっても困る。そして、もしも貴方がミュージシャンなら、音でもって貴方の生き方を示すべきだ。ミュージシャンでありながら、画期的作品を発表せずして、ジャズ評論家でもないのに、マイルスやコブハム、ハンコックについてとやかく言う資格は貴方には、ない。ぼくから言わせるなら、貴方のようなミュージシャンこそ、ミュージシャンの風上にも置けない人物ということになる。ファンクに対して様々な論文を読む時間があるならば、パーカーを聴きなさい。エリントン、マイルスを聴きなさい。もう一度繰り返しておくけれど、ぼくはあの拙文に関する限り、好みで考えた訳ではない。すべて好みでわりきろうとしているのは、貴方自身なのだ』
中山さんの住所は大阪府堺市になってますので、スイングジャーナルに載った最も初期の文章かと思います。
凄いです。
よく記事保存されていましたね。
ありがとうございます。