【コメント返し】じゃきもぶ

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動画「【コメント返し】ロン・カーターやジャッキー・マクリーンのピッチ(音程)の話など」(こちら)に視聴者さまよりいただいたコメントを紹介し、アンサーした動画をアップしました。

コメント

サンジョルディさんからのコメント。

コメント返し、ありがとうございました😆

4年弱前のコメントなので、
とにかくたくさんアルバムを書きたかったのでしょうね(笑)

<愛聴盤がブルーノートのみ!>となった現在でも、
やはりモブレー、マクリーン、
そしてリー・モーガン、ウェイン・ショーター は、
私の中では<トップ4>です🤓

<ブルーノートのハードバップ好き>のサンジョルディより😎

えっ?!
今はもうブルーノートオンリーなんですか!!!???
>愛聴盤がブルーノートのみ!

もはやサンジョルディさんは「ブルーノート仙人」の域に達してますね。
仙人は霞を食って生きてますが、サンジョルディさんはコクのある音を食べて生きている?そんな感じ?
略して「ブル仙」。
そこからだんだんと漢字の表記が変化して「ブル専」になっていったというw

用例としては、

「あのジャズ喫茶にはブル専モブ専の常連が揃ってるから、気を抜いたらすぐにやり込められるぞ!」

「小川隆夫? いや、あの人よりも行方均の方がブル専モブ専だよ」

「ジャズマニアってのはさ、最初はマイルス、コルトレーンでも、20年もやってればブル専モブ専なるって話さ」

うーん、私の幼稚な語彙では、ここまでが限界やなぁ。

そこで、Chat GPTくんに代わりにサンジョルディさんを褒め称える文章を書いてもらいました。

お願い文章(プロンプト)はこんな感じです。
⇒ジャズには色々なレーベルがあるんですが、時にものすごいマニアで「愛聴盤はブルーノートのみ!」という人もいます。そういう人を呆れつつも「あんたは偉い!凄い!」と褒め称える文章を、私のこれまで書いてきた文章と思考パターン(私が過去に書いた文章をいくつかメモリーさせているのです)をベースに、書いてみてください。

そして、パパッと出てきた文章がこちらw

ジャズという音楽の魅力は、何といってもその多様性にある。スウィング、ビバップ、クール、ハードバップ、フリー、フュージョン、コンテンポラリー──そのいずれにおいても、プレイヤーの個性が剥き出しになり、即興という自由の中で世界が編み直されていく。その多様性を支えてきたのが、無数に存在するジャズレーベルの存在である。Prestige、Riverside、Impulse!、Verve、Savoy、ECM……数え上げればきりがない。それぞれが独自の美学と音の設計図を持ち、ジャズという森に異なる香りを放つ小径を用意している。

そんな中、「ブルーノート以外は聴かない」という人種に出会うと、私はある種の戸惑いを覚える。あれだけ広大な音の世界を前にして、なぜブルーノートだけに閉じこもるのか? モンクの異端なピアノも、マイルスの変容するサウンドも、コルトレーンのスピリチュアルな旅路も、Impulse! や Prestige にこそ記録されているというのに──。

だが、彼らには彼らの矜持がある。

あるブルーノート至上主義者の言葉を借りれば、こうだ。「ブルーノートの盤には、音だけじゃなく“匂い”がある」。1950年代後半から60年代半ば、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオで録られたあの独特の残響。リード楽器が湿った空気を切り裂くように吹き抜け、ドラムのシンバルが部屋の壁に跳ね返る。モノラル録音であっても音場が立体的に感じられる、あの不思議なマジック。彼らはそれを「ブルーノートの霊気」とすら言う。

たしかに、アルフレッド・ライオンの審美眼と、フランシス・ウルフのカメラアイ、そしてリード・マイルスのモダンなジャケットデザイン──それら三位一体の“編集美”は、もはや芸術の域に達している。音楽、写真、グラフィック、すべてが一枚のレコードというメディアに凝縮されている。これを愛さずにいられるか、という主張は、ある意味もっともだ。

思えば、中国の故事に「画竜点睛(がりょうてんせい)」という言葉がある。名匠が龍を描き、その眼を最後に描き入れた瞬間、龍が天に昇ったという逸話。まさにブルーノートの盤には、その「睛(ひとみ)」が入っているというのだ。音楽だけでなく、その包み方、佇まい、空気感──すべてが昇華され、聴き手の心を天に導くという。

とはいえ、たまに思うのだ。そんなにブルーノートばかり聴いていて、飽きないのだろうか? “似たようなメンツ、似たような編成、似たような録音バランス、似たようなマイナー調ブルース進行”──この手の批判は、彼らの耳には届かない。むしろ、そういう“統一された世界観”こそが尊いのだと、彼らは言う。

これはもう、一種の宗教である。仏教にも禅宗、浄土宗、真言宗など派が分かれているように、ジャズにも「ブルーノート宗」という一派があると考えるべきかもしれない。そして彼らは“正しい聴き方”を求道する修行僧のように、毎夜、ソニー・クラークやハンク・モブレーを拝み、アート・テイラーに祈りを捧げる。

正直に言えば、私はその偏愛ぶりに、少々呆れている。しかし、それ以上に、心のどこかで羨望している自分もいるのだ。

なぜなら、彼らの聴き方には「迷い」がない。これだけ音楽が氾濫し、プレイリストがアルゴリズムに操られる時代において、彼らは“自分の聖域”を持っている。そのブレなさ、信念の強さは、音楽の本質に最も忠実な姿勢なのかもしれない。

人は皆、音楽の海を泳ぐ旅人だ。その中で、ただ一つの灯台を信じ、そこに導かれるように音を追い求める──ブルーノート信者たちは、まさにそんな人々である。

だから私は今日も彼らに、やや呆れながら、こう言うのだ。

「あなた、もしかしてまたモブレー聴いてるの? でも…うん、わかる。たしかに、あれは沁みる。」

↑だそうです。凄いねAI😆

サンジョルディさんからの返信

素晴らしい回答ですね、今回のチャットGPT、<過去1番〜>ではないでしょうか?(笑)

いつもあるような<ツッコミ所>が、今回は見当たりません🤣

「アート・テイラーに祈りを捧げる」の一文には、感動しました(笑)
ハードバップ好きでなければ、なかなか<アート・テイラー>は、出てこないと思います

<ブルーノーティアン>の気持ちが良く分かっていますね、チャットGPT😭

<ブルーノート信者>のサンジョルディより🤓

ありがとうございます。
>「アート・テイラーに祈りを捧げる」の一文には、感動しました(笑)
てへへ、これ、実はですね、
ここの箇所だけ、名前入れ替えてるんですよw

GPTが出してきた原文は、「毎夜、ケニー・ドリューやハンク・モブレーを拝み、ホレス・パーランに祈りを捧げる。」だったんですよ。

これ読んだ私は、うーん、確かにケニー・ドリューは『ブルー・トレイン』やモブレー入りの『アンダー・カレント』にも参加しているから、AIなりに痒いところ突いてきてるなとは思ったんですが、どうもいまひとつニュアンスが「サンジョルテイスト」じゃないなぁと感じたんですね。
もう少し「イモ」な感じ?が欲しい。

ドリューも良い味出してるピアニストではあるんですが、ちょっとシャープな感じじゃないですか? だから、ドリューよりは「微イモ」な成分のあるソニー・クラークに変えましたw

あと、ホレス・パーランですが、これは確かに『アス・スリー』とか『ヘディン・サウス』とか、結構「イモ」な感じが入ってるんですが(特にジョージ・タッカーw)、「サンジョル・クオリティ」からすると、ちょっと「郊外すぎるかな?」と感じたので、アート・テイラーに直しました。

安定のクオリティ、安心のハードバップドラマーですからね。

そんな感じのAIコラボ?回答でございました。

サンジョルディさんからの返信。

そ、そうだったんですねー😱

どうりで、チャットGPTにしては、「ツボを押さえているなあ」と、AIの進歩を痛感しましたが、
ソニー・クラークやアート・テイラーは、高野さんが<変更された>のですね🤣
おっしゃる通り、ケニー・ドリューよりはソニー・クラークがツボです。
また、ホレス・パーランは、<私にとって>やや<圏外>です。良く分かってらっしゃる、さすがです(笑)

<ブルーノート宗>のサンジョルディより🤓

そう、これがAIと人間が共存する未来像の理想モデルなのです(謎&大袈裟)

それにしても、「ブルーノート宗」(笑)。
それじゃ私は「プレステ真宗」に入信しようかなw

これは、平均律と純正律の問題なのかなと思います。ロンカーターは、たぶん、絶対音感がかなりあったんじゃないかと。そして、1960年代で音程を自在にコントロールできたジャズで使う楽器はコントラバスだった。それにつきるんじゃないか。マイルスバンドでの自分の演奏はピアノというピッチコントロールができない楽器が入っていることもあり、そこでは、平均律に基づく音程で演奏すると。しかし、自分が中心になるとそれだけじゃないぞと。雲さんはヤマハのエレクトーンかピアノの教室で子供のころ習っていたと、どこかで聞きましたが、そうすると雲さん的には平均律が基準で、それ以外の音程ははずれていると聞こえる。最近、「さとうみつろう」という哲理学者を自称するひとが純正律でカノンを演奏するというイベントをやってますが、平均律でやってきたミュージシャンは違和感あるだろうなと思います。「じゃ、純正律でみんなやればええやろ」と思いますが、Cメジャーの純正律とDメジャーの純正律は合わせる周波数が違ってくる。フレットレスであるバイオリンとかは、ある程度対応できるが、ピアノはピッチを瞬間的に変えるとこができないのでアウトなんです。つまり、純正律で「ジャイアントステップス」はできないという結論になるわけです。そんなことなのかなと思ってます。

いつもながら鋭く深いコメントをありがとうございます!

まさにおっしゃる通りで、「純正律 vs 平均律」や「音程の捉え方」についてのご指摘には、なるほど!です。

私もずっと音程というものを、「合っている/外れている」の“オン・オフ”の二分法で捉えがちな環境で育ってきたような気がします。
ご指摘の通り、ヤマハ音楽教室幼児科⇒ジュニア科アンサンブル教室に通っていたこともあり、“平均律ベースの世界観”が身体に染みついてしまっていて、幼い頃から耳もそのモードに最適化されてしまっているというか。

それゆえ、ロン・カーターのような「自在な音程運用」についても、最初は「なんじゃこりゃ?」と爆笑していましたが、(全てではありませんが)それはむしろ魅力として聴けるものもあるんだなと思えるようになってきています(あくまで“ディスり”ではなく“驚きと関心”の対象です)。

「型破り」な表現が好きな私ですが、「型破り」だと感じるには、「型」を知らなきゃ「型」を「破」ってるとは感じませんもんね。

私がベースって面白いな、ベースという楽器やってみようかなと思わせたベーシストって、ミック・カーンなんですよ。
フレットレス奏者。
しかもイギリス国籍ではありますが、キプロスのニコシア出身で、ギリシャ系のルーツということもあってか、本人は中近東の音楽の影響も受けているとインタビューで語っていますし、西洋音楽の一般的なスケール感とは異なる、独特のムードを醸し出しているところに惹かれた(つまり、型から外れている)のだと思います。だから同じフレットレスベース奏者でも長い間ジャコ・パストリアスには全く響かなかったんですね。

もちろん演奏技術は神懸かってますし、音程も驚異的に正確。奏法的な革新性(ハーモニクスやスライドなど)も素晴らしい。
アイデアは「革新」的な要素が多いのですが、こと音階的には“型破り”ではなく、むしろ非常に「模範的で理路整然とした」プレイヤーだと感じてしまい、私は正直そこまで強くは響きませんでした。
つまり、ジャコが「天才的な技巧と模範的音程の人」なら、ミック・カーンは「とらえどころのない異形のベース生物」という感じです(笑)。

だから私が時折話題にする「ロン・カーターの音程」についても、「下手だから気になる」とかではなく、「音程操作の自由度が高くて面白い」という意味合いで、非常に興味深く感じているんです(全てではありませんが/いまだにヒドいぜ!と思うものもありますがw)。ただ、そのニュアンスが伝わりきらず、「ディスってる」と誤解されることもあるようで……。

純正律のカノンについても、すごく面白そうですね。

一時期、私はヤマハのVシリーズ(DXシリーズの末期からSYシリーズへの過渡期に発売されたシンセサイザーのモデル)のV50という機種を愛用していた時期があったんですが、純正律やヴェルクマイスター音律などに対応したマイクロチューニング機能があったので、チューニングを微妙にズラした状態で、ピアノやもう一台のキーボードで弾いてみて(右手のメロディをV50、左手をピアノやキーボードで伴奏)、うわっ、微妙にズレてて「気持ちワル気持ちイイ!」とニヤニヤしながらヨガってました。はい、変態ですw

なので、龍大阪さんおっしゃりたいとこと、というか、感じていること、すごく伝わってきます。
興味深いコメントありがとうございました。