【記録音源】酒バラ/ジャムセッション記録

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2025年のいつだったか忘れてしまったんですが、ジャムセッションにエレクトリックベースで参加した時の音源をアップしました。

曲は『酒とバラの日々(The Days of Wine and Roses)』です。

編成は、トランペット、アルトサックス、ピアノ、エレキベース、ドラムです。

私がベースソロを始めたら、突然パトカーのサイレンが鳴り始めたところが聴きどころ(?)です。

コメント

べらんめえAORおやじさんからのコメント。

アニメは、パトレーバー2やうる星やつら2ビューティフルドリーマーが大好きですね。押井守監督の大ファンなんです。
あと宮崎駿の千と千尋の神隠しや魔女の宅急便、同じジブリでは毎年終戦記念日の頃、金曜ロードショーでやる火垂るの墓なんか何回観ても泣けますね。

『うる星やつら2・ビューティフル・ドリーマー』!
懐かしいですね。

私の場合は、なぜか高校時代に授業中、それも理科系科目の時間だった記憶があるのですが、確か化学科生物だったかな……視聴覚室で、何回かに分けて見せられました。

当時の理科の先生が「うる星」ファンだったのか、「押井守」ファンだったのか、それとも単に「名作だから観ておけ」と思ったのかは分かりませんが、あのチョイスは今思い返してもだいぶ攻めてますよね(ちなみにその年の「映画教室」で観に行った映画は『キリング・フィールド』でした)。

1回目に見た時は、あまりよーわからんという感じでしたが、夢邪鬼(むじゃき) という当て字のネーミングセンスがいいな、と思ったのが第一印象でした。

で、その後、ビデオだったりDVDだったりでレンタルして自宅で見たのですが、この作品、やはり 押井守色が全面に出ていますよね。
原作が高橋留美子であるにもかかわらず、「高橋留美子作品」というより「押井守という思想の実験場」になっている感が強い。

強引にジャズに当てはめるなら、コール・ポーターが作曲した《帰ってくれれば嬉しいわ」(You’d Be So Nice to Come Home To)》を、セシル・テイラーが独自すぎる解釈で演奏をしたような感じ? あるいはリー・コニッツがピアノレストリオでアドリブのための「素材」としてしか扱っていないような感じ?

作曲者が想定し、バランスを考えながら構築した「曲」ではなく、演奏者がその場で立ち上げた「出来事」になってしまっている。いわば、換骨奪胎された「演奏」に転華(価値が転じて昇華される)されているところに面白さがあるのですが、ジャズには比較的、そのようなことが多いような。だから、ジャズ好きには『ビューティフル・ドリーマー』好きが多いのではないか?というのが、私が今思いついた仮説(?)です。

とはいえ、高校生だった当時の私にとっては『ビューティフル・ドリーマー』は、正直「難解」でした。周囲の連中も「よーわからん」「いつものうる星と違う」と言っている奴ら
が多く、当時、私の周囲ではあまり評判は良くなかった記憶があります。
テレビ版やコミックで築か、慣れ親しんできた「うる星観」との断絶が大きすぎた。

そして必ず語られるのが「原作者激怒説」ですね。

この話、今ではだいぶ整理されてきていますが、面白いのは「事実」と「語り」のズレです。
押井監督自身が「怒らせた」「嫌われた」とインタビューなどで語ることで、物語が増幅していった側面は否定できません。一方で、激怒されたとされる高橋留美子先生本人は、「全然怒っていない」「押井さんの傑作だと思う」と明確に否定している。

ただし重要なのは、その後に続くニュアンスで、「これは私の『うる星やつら』ではない」という線引きははっきりしていた点ですよね。

怒りというより、「自分の手を離れた場所で、全く別の進化を遂げた作品を目撃した戸惑い」のようなものはあるのかもしれない。
そして、それが周囲によって「激怒」という分かりやすい言葉に変換され、都市伝説化した。創作の現場では、わりとよくある話だと思います。

私は京アニの『涼宮ハルヒの憂鬱』が好きで、とりわけ評価が割れるエピソード「エンドレス・エイト」が好きです。

このエピソードが 『ビューティフル・ドリーマー』の影響下にある という指摘は、かなり妥当だと思っています。
「終わらない日常」「心地よいはずの時間が、実は閉じたループだった」という構造。
文化祭前日が永遠に続く『ビューティフル・ドリーマー』、夏休み最後の2週間が終わらない「エンドレス・エイト」。これはもう、フォーマットレベルでの継承ですよね。

私が「エンドレス・エイト」を面白いと感じる理由を分析すると、「同じ構図を使いながら、微細な差異で違和感を積み重ねていく演出」に尽きます。

蝉の鳴き方、空の色、間の取り方。

これはまさに、押井監督が『ビューティフル・ドリーマー』で提示した「反復される風景の中の差異」という演出技法へのオマージュ、あるいは挑戦だったのでしょう。

そして、ここがジャズ的に一番面白いところですが、この「大枠は同じ、でも毎回違う」という構造は、完全にオルタネイト・テイクを味わう楽しみ方なんですよね。

同じ曲、同じコード進行、同じテーマ。それでも Take 1 と Take 2 では、ソロの入り方が違う、ドラムのタメが違う、「こっちの方がサックスは勢いがあるけど、テーマの出だしが揃ってない」「マスターテイクは、テーマなどのアンサンブルの一体感はあるけれども、サックスのアドリブは他のテイクの方が勢いがあっていな」などと感じる。
どっちもいいけど、どっちも完璧ではない。両方のいいところが合体するといいのにな、あんて少しモドかしい思いをしながら聴く、これもボックスセットなどオルタネイトテイク満載の音源を聴く楽しみの一つなのでしょう(とはいえ、そういう楽しみ方ができるミュージシャンはパーカー、マイルスなど、ごくごく人握りのジャズマンに限りますが…。

ちなみに、『エンドレス・エイト』ですが、これは動画も声や音も単なる使い回しではなく、全8話すべてで作画・コンテ・アフレコを作り直している。衣装も違う、座る位置も違う、声優のニュアンス、イントネーションも違う。制作はいくつかのチームに分けて、互いのチームにはどのような内容で作っていることは秘密にして作られたようです。なので、演出家ごとに「今日はここを強調しよう」という解釈がある。

これは、パーカーやエヴァンスのレコーディング・セッションを全部聴かされる感覚に近い。贅沢なのか、拷問なのか、受け手の姿勢が問われる。

退屈か、豊穣か。
その分岐点に立たされるこれらの作品が、時代を超えて生き残るのだとしたら、この2作は、やはりどこかで深くつながっている気がします。

べらんめえAORおやじさんからのコメント。

未来少年コナンは、池袋の東京芸術劇場でやった舞台迄足を運ぶ位大好きです。

それは知りませんでした。舞台化までされていたとは……。
舞台でどう身体性に落とし込んだのか、ちょっと想像が追いつかないですね。

『コナン』は、私はNHKの放送、リアルタイム放送で観ていました。正直、ストーリーの細部はほぼ記憶から蒸発しています(涙)。

だけどダイス船長が運転(操縦?)しているロボノイドが好きでした。

「ちょっと不恰好な道具感」がたまらんでしたね。この道具っぽさの魅力に開眼したからこそ、後の『戦闘メカ・ザブングル』のウォーカーマシン好きになれたのだと思います。