ウィントン・ケリーBEST5/ポール・チェンバースのブルース ウォーキング・ベース

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先日アップした動画「教えて!ウィントン・ケリー MYベストナンバー5」(こちら)にいただいたコメントに対してのアンサー動画をアップしました。

コメント

TAKESI0506さんからのコメント。

ポール・チェンバースが亡くなった69年、スイングジャーナルの追悼文は元ベーシストでジャズ評論家の本多俊夫さんが書いてます。

『児山編集長からの電話で彼の訃報に接した私は、思わず大きな驚きの声を発してしまった。ラジオ関東の制作部の真中で電話に出ていたのだが、まわりの人々が何事かと注目するような大きな声だった。かつて私と「ミット・ナイト・ジャズ」をやっていた高桑氏は、ポール・チェンバーズ死すと聞いて一瞬信じられぬという顔付きになったが、“じゃ、今夜の番組で、すぐに特集をやらにゃ……”と、チェンバーズのレコードを探しに、レコード室へ飛んで行ってしまった。まことに仕事熱心な、ジャズをこの上なく愛している得難いプロデューサーである。この人と共に作って来た「ミット・ナイト・ジャズ」は、9年間存続し、JORFの看板番組の1つになっていた。そして、その間にポール・チェンバーズの演奏はどの位放送されたことだろう。ご存じのように、今は亡き名ベーシスト、ポール・チェンバーズが名を連ねているレコードは、厖大な数に上っている。彼自身の名を冠したLPはともかく、その何倍ものレコーディング・セッションに名をつらねている。ということは、とりも直さずそのレコーディングのリーダーや、プロデューサーが、リズム・セクションの人選に当って、躊躇することなくポールに依頼したからだ。“彼にベースをまかせておけば安心”だったのである。ダイナミックで安定したリズム、深みのある音色、ホーン・ライクによく歌うソロ等々、間違いなく、ポール・チェンバーズは、1950年代が生んだ驚異的なベース奏者であった。
 1950年代は、モダン・ジャズの一大飛躍期であった。今様のニュー・ジャズを生み出す下地が、次々と積み重ねられていた。ハーモニー、リズムそのほかの面で種々の改良や研究が行われ、ミュージシャンたちの音楽的水準もぐんと上昇したころの、非常に活気に満ちた時期であった。特にベースという、それまでもっとも遅れていた部門においてその徴候が顕著であった。ビーバップという激しい変革期を経て、ほかの楽器の部門においてミュージシャンたちの楽器へのアプローチが、その方法を変えて来ているのに、なぜ、ベースのみがとり残されたのか? この問題には種々の要因があるが、ポール・チェンバーズの追悼文においては主題とはなるまい。ただいえることは、コントラ・バスという楽器は、非常にむずかしい楽器であり、その奏法をマスターしてモダン・ジャズの路線に適合させるには、非常に忍耐を伴った修練と、それに見合った理論の開発が必要であった。ちなみに、もし、ベース奏者たちの“開眼”がもう5~6年早かったら、モダン・ジャズの発展はもっと急ピッチで進んだであろう。ともあれ1950年代には、少々遅くはあったが、優れたベース奏者たちが現われ始めたのであるが、技術面、理論面に加えて、新しいジャズの感覚を備えて、モダン・ジャズのベースのひとつのパターンを作った人、それが、ポール・ローレンス・ダンパー・チェンバースJr.であったことは間違いない。
 大変に長いフル・ネームを持ったこの音楽家は、1935年4月22日、ペンシルベニアのピッツバーグに生れた。彼は幼いころに母を失い、音楽をこの上ない慰めとしていたそうである。やがてデトロイトに移り住むが、その頃から音楽で身を立てようと志を立てたようである。デトロイトは、非常に多くの優秀なジャズ・プレーヤーを世に送り出しているところから見て、彼がデトロイトに移り住んだということは、彼の音楽への進路を決する上で大きな影響を与えたように思われる。初めて手にした楽器はバリトン・ホーンとテューバであったという。この辺のところに、後に彼が展開した“ホーン・ライクなソロ”の秘密がありそうだ。べースに持ち変えてプロ入りした彼は、14才の時から、ギターのケニー・バレル、あるいはピアノのパリー・ハリスなどと共演して5年ばかりを過している。この間が、この若きベース奏者の修業の時期であった。コントラ・バスを扱うもっとも基礎的な訓練を充分に積み、デトロイト・シンフォニー・オーケストラの主席ベース奏者について研究を続けた。
 1956年、彼はべニー・グリーン、ジョー・ローランド、J.J.ジョンソン、ケイ・ウィンディング、ジョージ・ウォーリントンといったベテランたちと仕事をした後、ジャズ史上に大きな足跡を残したマイルス・デヴィスのオリジナル・クインテットに参加したのである。この当時の彼の演奏は、この人の生涯の中で恐らく最高のものであろう。マイルス・デヴィス・クインテットでのものあるいは、このクインテットのリズム・セクション――つまり当時50年代のオール・アメリカン・リズム・セクションといわれたレッド・ガーランド・トリオでのもの、あるいは、彼自身の名盤「べース・オン・トップ」、あるいはソニー・クラーク・クインテットでの「クール・ストラッティン」など、数え上げたらかぎられた紙面が埋めつくされてしまうだろう。
 私が現役のベーシストであった頃、この人のベース・プレイをレコードでずい分聞き込んだ。ソロをそっくりそのままコッピーして、労音のステージなどでやって見たりもしたものである。もちろん、彼のソロも絶妙であり、また、それ故に聴衆にアッピールしたのであるが、私はむしろ、この人の、べース・ランニング――音のとり方と、リズム感、音色、といった面をより高く評価している。レッド・ガーランド・トリオにおける“A Forgy Day”のメロディー・ラインとコード進行に対してのベースの進行などは、ジャズ・ベース・ランニングの教科書ともいうべきであろう。また彼は、スローバラードにおいても驚くべき才能を示した。マイルス・デヴィス・クインテットでの“マイ・ファニー・バレンタイン”のソロイストに対するバッキングを、この際もう一度聞いて見ようではないか。バラード・プレイにおいて、このような奏法を見せたペーシストが、それまでいたであろうか。また、同じく、マイルス・デヴィス・クインテットにおける“イット・ネバ-・エンタード・マイ・マインド”をもう一度聞いて見よう。これほどの音色をもったベース・プレーヤーが一体、何人いるだろうか?
 彼がマイルスの許を去ったのは、1963年であった。そして翌64年、ウイントン・ケリー・トリオの一員として世界ジャズ・フェスティバルに参加、来日、その演奏ぶりを日本のファンの前に披露した。私が感じていたのは、この頃を境にして彼のプレイは頂上に登りつめてしまったということである。しかし、何も、彼が下り坂になったということではない。それよりも、ジャズ界全体が、さらに大きく飛躍したのであった。そして、彼の全盛期というべき、1950年代半ばから後期にかけての彼の演奏やそのパターンを、かつて彼がそうであったようなより若きミュージシャンが吸収して、さらに発展させて今日のニュー・ジャズの中に持ち込んでいるのは疑いのないところである。
 児山編集長から彼の訃報を受ける前の日、私は名古屋労音のステージで、1950年代のオール・アメリカン・リズム・セクションの話をしていた。当然、ポール・チェンバーズの名前が出て来た。何で話題がそこへ行ったのか、前後の関係が分らなくなっているが、その時、東京へ帰ったら、久しぶりにポールのレコードを聞きたいなと瞬間的に思ったが、それも忙しさにまぎれて忘れてしまった。そして翌日の電話であった。最近は健康がすぐれず、それでもニューヨークを中心に演奏活動をしていたらしい。原因は香港カゼとか……。まことに憎むべきヴィールスである。東洋から伝播して行ったカゼということで、説明のしようもない責任感みたいなシコリが残る。ナンセンスではあるが、そんな気持になるほど、私はこのプレーヤーが好きだった。
 享年33才、冥福を祈ろう。      合掌

博 橋本さん⇒TAKESI0506さん

これは高校のブラバンの部室で読みました。
今読み返して気付いたこと。
名前の ”ダンパー” のところですが、私は “ダンバース” と勝手に韻を踏ませて記憶していました😅

TAKESI0506さんはコロンビアの『マイルス&モンク・アット・ニュー・ポート』がお好きと伺って居ります。
マイルスの2曲目の『ストレート・ノー・チェイサー」でチェンバースがソロに入ると、微かに自らフレーズをハミンし始めます。ベースの音と相俟って心地よく聞こえてきますね。あれが大好きです。

TAKESI0506さんからのコメント。

この文は、72年のスイングジャーナルに載った悠雅彦さんのものです。

『ポール・チェンバースにみるモダン・ベース奏法
 このような発展がなされていたとはいえ、ベースはなお主だった楽器のなかでは最も<遅れた>存在に違いなかったというのは、ベースがある程度の進歩を示したとき、他の楽器はそれ以上のスピードで発展をとげており、イディオムや技術的アプローチの変化に即応した進展をしるしていったからである。特に50年代はバップ・イディオムが浸透し、ウェストに対するイーストの強力な巻き返しなどがあって、あらゆる点でモダン・ジャズの発展が認められた時代である。ベースも例外ではなく、遅れたギャップを取戻す好機であった。ポール・チェンバーズが登場したのはこのときである。
 彼の天才的なベース・テクニックについてはいまさら言及するほどのこともないように思われるほど、マイルスのリズム・セクションとして、あるいは自己の「ベース・オン・トップ」を含む厖大なレコーディングに、50年代から60年代にかけて、彼は驚異にたるベース・ワークで一世を風靡した。彼のベース技法は、ジャズ史を通じても最高の部類に属するものであったが、たとえばブランドンのように特筆すべき革新をなしとげたわけではなく、またミンガスやラファロのように、もっと総括的なジャズ・イディオムによってこの時代を支配したわけでもなかった。いうなればそれまでのベース遺産を最大限に活用し、自己の天性的アイディアとマイルスをはじめとする巨人たちの暗示に基づいて、コード進行、リズム、フィンガリングなどに、モダン・ベースにふさわしい改良を加えたのがチェンバーズだった。その意味で彼の作業が、<革新的>であったといういいかたは間違いではない。実際彼の出現によって初めて、べ-スは真の意味でホーン楽器と同列に並んだのである。技術面でベースのもつ機能を彼ほどヴィヴィッドに活用した人はいない。その成果は、ソロやアンサンブルやサポートにおいて十二分に発揮されている。そのベース・ランニングはそれまでには決してなかった変化とスリルに満ちたもので、各種のアンティシペーション奏法や息を呑むような3連音符音型などによって、ウォーキング・べース奏法はより完璧に、よりダイナミックかつ華やかになった。この方法により彼はよく音を拾ったが、それはこの時代のジャズのスピードにべースが即応していけることをしめすと同時に、ハイ・レベルでありながら最も魅力的なベース・パターンをつくりあげたのであった。それはさらにソロにおける表現の拡大をもたらした。その自在性はピッチカートとアルコの両面において発揮されたが、なかんずくアルコによる大胆なアドリブ・ソロは、コントラ・バスの最も伝統的で最大の機能をジャズが取戻した決定的な証左であったといいうるように思う。彼は、イースト・ジャズ、つまりはヴァイタリティに富んだハード・バップを象徴する、最も典型的なジャズメンのひとりであった。恐らく今日、彼の影響を受けないベーシストはひとりもいないといっていい。ペティフォードをはじめ、彼に先行する多くのべーシストでさえ、まぎれもなく彼の影響を受けたのである。そのチェンバーズ派をここに列挙することは到底不可能である。主だった人だけでも次のようなべーシストがいる。サム・ジョーンズ、故ダグ・ワトキンス、ウイルバー・リトル、ジミー・メリット、ベン・タッカー、故アディソン・ファーマー、ジーン・テイラー、そしてリチャード・ディヴィスやロン・カーターなど、より広範なベース技法を展開してきた後世代に属する人たちもチェンバーズ・スクールであるとみなすことができるにちがいない。
 しかしジャズは、行きつく先もないかのように発展を続ける。チェンバーズはすでに、マイルスやロリンズに対抗しうるホーン・ライクなアドリブ法を完成していた。60年初めベースを採用したコルトレーンは、チェンバーズのようなべーシストがいないことを嘆いたが、実際はベース機能の飛躍的な拡大を意図していたのかもしれない。60年代のジャズは、コルトレーンを中心にして発展しようとしていたからだ。そのようなジャズの急速で際限のない発展にあっては、チェンバーズでさえも取り残されるような、そんな時代を迎えつつあった。実際には死去(69年1月4日)したときでさえ33歳という若さだった彼が、20代でもはや衰えるとは考えられなかったし、事実彼のプレイが衰えたわけではなかった。ジャズの急速な進展は、チェンバーズでさえも呑み込んでしまうほど、とどまるところがなかったのである』

>モダン・ベースにふさわしい改良を加えたのがチェンバーズだった。
それは、まさにその通りだと思います。