マイルス・デイヴィスの『バグズ・グルーヴ』の日本盤レコードのライナーノーツを動画で紹介してみました。(執筆:野口久光氏)
コメント
永井勉さんからのコメント。
単純な曲を複雑に創り変えたり
複雑な曲を単純なピアノソロに変えたり
とにかくモンクは不世出なピアニストですね・・・m(__)m
もう本当、その通りでございますとしか言いようがありません。
2019 enchanさんからのコメント。
動画配信ありがとうございます。本作は三十数年前にレコードで買って始めて聴いたんですけど、たぶんこのライナーが入っていたんじゃないかなと思います。それにしても野口先生の首を傾げる記述や誤記はちょっとなあ・・・。本作は同じくPrestigeの Miles Davis and the Modern Jazz Giantsと同日録音のセットのような気がしてましたけど勘違いでした(パーソネル違いますもんね)。John Lewis 以外のMJQの面子が揃ってるじゃん!って、ちょっと感動してた記憶があります。Oleo でのRollinsの咆哮、Airgin でのMiles 鋭くも軽快なミュートがいいですね(循環コードですね!)。もちろん表題曲も。〜and the Modern Jazz Giants ではテナーがColtraneですが、50年代中盤のMiles作で非Coltraneってのもオツなもんですね〜
>John Lewis 以外のMJQの面子が揃ってるじゃん!
プレスティッジのボブ・ワインストックは、ジョン・ルイスが嫌いだったから呼ばなかった⇒モンクにした説もあるようですよ♪
博 橋本さんからのコメント。
【ライナー読み】有り難うございます。
私がこの盤を購入したのは1967年の夏でした。発売されたのは多分1964年頃だと思います。
現在の事情に較べると圧倒的に情報不足である、当時のライナー・ノーツの内容と事実との齟齬は否めません。
モンクの生地はノース・カロライナ州であるとか、特にバド・パウエルとの師弟(?)関係などになると、かなり漠然とした知識しか得る手立ては無かったように思います。
事実私も暫くの間はモンクよりパウエルの方が歳上のイメージで両者を観ていました😅
今思えば、そんなお粗末な事情に相応しい(?)まことしやかな情報も結構飛び交っていたと思います。
「喧嘩セッション」も然りです。喧嘩の有無は時々諸説流れる事はありましたが、私が決定的な根拠の伴う文章を目にしたのは、中山康樹訳の『マイルス・デイビス自叙伝(1)(2)』が初めてでした。そんな具合です。『バグス・グルーヴ』はベニー・グッドマン、エリントン、ベイシーとビッグ・バンドから聴き始めていた
私が、初めて買った「モダン・ジャズ」のレコードです。
少しずつ聞き齧り始めて得た俄か知識から、興味が向かったマイルス、ロリンズ、モンク、MJQ、ホレス・シルバーと盛り沢山の1枚でした♫😆♫モンクはこれが初めてでしたが、一発で魅了されました。ミルト・ジャクソンも同様です。
それと何故か「モダン・ジャズ」というものをしみじみと感じたのは『オレオ』のシルバーのソロでした。
こんなところが与太郎耳の私の思うところです。
今でも A 面、B 面ともかなりの頻度で聴いています😊
>モンクはこれが初めてでしたが、一発で魅了されました。
この出来事、この感性が今後のジャズ漬け人生を決定づけたのかもしれませんね😆
TAKESI0506さんからのコメント。
「バグス・グルーヴ」については、作曲者のミルト・ジャクソンが次のように語ってます。
『〈バグス・グルーブ〉ってのは、アルフレッド・ライオンからレコーディングの話を持ち込まれて、セッション(52年4月7日)の数日前に作ったんだ。私がリーダーレコーディングだったから自分で曲を用意しただけさ。〈バグス・グルーブ〉はセッションの時までタイトルなんかはついていなかった。このセッションのために、私は母親のリリーに捧げて32小節スタンダード形式の曲も用意した。その頃私はジョン・ルイス、パーシー・ヒース、ケニー・クラークというカルテットでしばしば演奏していたし、レコーディングはこのカルテットにアルト・サックスのルー・ドナルドソンが加わるというアイディアだった。
セッションでは私はブルースのラインを譜面に書いてみんなに渡し、ソロのオーダーはどうやるかってことをみんなに説明して吹込んだ。〈リリー〉をカルテットで演奏して、『次は何をやるか』となって、『これだよ』って渡した譜面がタイトルなしのFのブルースだったんだ。ブルースだからね、みんな気楽に簡単に演奏できたんだ。そしたらドラマーのケニー・クラークが、いつもの調子で『バグス・グルーブだ、バグス・グルーブだよ』っていいだした。
ケニーってのは、その頃“なんとかグルーブ〟っていうのに凝っていて、このフレーズを挨拶がわりに使うほど連発してたんだ。MJQの4人が集まって、私が『ハイ、ケニー』って声をかけると、彼の方では、『ハイ、バグス・グルーブ』ってな調子で返事してくるんだ。私だけじゃなかった。ケニーはセロニアス・モンクにも『ヘイ、モンクス・グルーブ』なんていうふうに声をかけていた。〝グルーブ”(Groove)ってのは、知ってるだろうと思うけど、当時はやったジャズ界のスラングでね、 Bag’s Groove というのは、ミルト・ジャクソンの“おはこ・スタイル” “十八番” “特質”というような意味を感じさせるんだ。それにグルーブっていうのは、“心から楽しめるもの”でなければならないんだ。ケニー・クラークは〝グルーブ”を連発して、相手に対する敬愛心を彼なりに表現してたんだな。ところで、私は、ケニー・クラークが『バグス・グルーブ!』といった時、『これはタイトルにいいぞ』と瞬間的に思ったんだ。その頃すでにブルースは私の特別な資質だって、ジャズ仲間はみんなそういってくれてたしね、“グルーブ”っていうのは音楽のなかに表現される特別パーソナルなフィーリングをさすわけだから、“バグス・グルーブ〟とすれば、“ミルト・ジャクソンの得意のブルース・ナンバー”といったような意味合いになると思ったんだよ。こんな調子だから〈バグス・グルーブ〉の名付親はケニーということになるし、曲自体もごくありふれた生まれかたをしたものなんだ。
もちろん、このブルースが、のちにモダン・ジャズの古典的な名曲になるなんてことは、当初は予想もしていなかったんだ。ところが〈バグス・グルーブ〉は、ふとしたことで数奇な運命をたどることになった。実はブルーノート・レコーディングの時、スタジオにアコーディオン奏者のマット・マシューズがジョージ・ウイナーという男をつれてやってきた。そのウイナーという男はウイマー音楽出版社からきた男で、マットは〈バグス・グルーブ〉をウイマー音楽出版社で出版させるといい、と私に推めたんだ。つまり〈バグス・グルーブ〉という私が創作した曲の出版権を譲渡してほしい――というのがウイマー音楽出版社の申し出だった。その見返りとして、ウイマー音楽出版社は『印税の前渡金として25ドルを支払う』といった。その時点では〈バグス・グルーブ〉が有名になるなんて夢にも思っていなかった私は、ミュージシャンのマット・マシューズの推選だったし、25ドルもらえるのならいいや、というぐらいの軽い気持ちで契約書にサインして、〈バグス・グルーブ〉の出版権をウイマー音楽出版社に委託した。ところが、契約書をろくに読みもしないでサインしたのがいけなかったんだ。ウイマー音楽出版社は、たった25ドルで〈バグス・グルーブ〉のあらゆる著作権を私からとりあげてしまったのだ。印税のアドバンスのつもりだった25ドルを受け取ったあと、私の手もとには以後びた一文も入ってこないという仕組みだったんだ。〈バグス・グルーブ〉のオリジナル・レコーディングのあと、まっさきにこの曲をレコードにしたのはくだんのアコーディオン奏者マット・マシューズだった。53年にマット・マシューズは、この曲をなんとクインテットとカルテットで2回も吹込んで、ウイマー音楽出版社に印税がころがり込むように協力してたんだ。これを知って私は頭にきたね。黒人ジャズメンが法律なんかに無知なのにつけいって、他人の創作物をネタに稼ごうなんて悪徳音楽出版社がいるってことがわかったんだ。もっとも、もし〈バグス・グルーブ〉って曲が、それっきり鳴かず飛ばずだったら、私もアクションを起すところまではいかなかったかもしれない。ところが例のプレスティッジの〝ジャイアンツ・セッション”でこの曲が演奏され、「バグス・グルーブ」という決定的な名演が誕生して、ベストセラーになって、それでも曲の印税が一銭も入らないんだから私はもう黙ってはおれなくなったんだ。62年に私は、ウィマー音楽出版社とそこのジョージ・ウィナーを相手に訴訟を起し、〈バグス・グルーブ〉が私の作曲した楽曲であることを法廷で証明した。それが認められて、私はかろうじて作曲家としての印税だけはもらえるようになった。ただ、裁判にかけても〈バグス・グルーブ〉の権利をすべて取り戻すことはできなかったんだ。その訴訟のために当時としては大金の15,000ドルを費したが、私がもしこの曲のすべての権利を確保していたとしたら、私はとっくに〈バグス・グルーブ〉が生む著作権印税だけで百万長者になり得ていたんだ。〈バグス・グルーブ〉をウィマー音楽出版社にとられてしまった対抗策として、私は57年にこの曲に〈バグス・ニュー・グルーブ〉という別タイトルをつけて、著作権協会のBMIに登録し、何度か吹込んだりもした。〈バグス・グルーブ〉の印税かい? 日本からくる印税がどの国よりも多い――、てことははっきり憶えている』
クリスマス・イブのバグス・グルーヴ・セッションについて、アイラ・ギトラーは次のように語ってます。
「プレスティッジの『バグス・グルーブ』セッションを目撃したのはプロデューサーのボブ・ワインストックとエンジニアのルディ・バン・ゲルダー、それに私と現ザナドウ・レコードのオーナー、ドン・シュリッテンだけだ。当時、私は26歳で、51年からつとめていたプレスティッジを退社してフリーのライターになっていた。プレスティッジのライナーノーツはほとんど私が書いていたので、54年12月24日の『バグス・グルーブ』セッションも見ておこうということになり、録音が始まる午後の2時過ぎに友人のドン・シュリッテンを誘ってバン・ゲルダーのスタジオに行った。ベースのパーシー・ヒースとドラムスのケニー・クラークは、当時プレスティッジのハウス・リズム・チームみたいで、前の日にはMJQの『ジャンゴ』セッションを終えたばかりだった。このリズムにマイルス・デイビス、ミルト・ジャクソン、セロニアス・モンクというジャズ・ジャイアンツを組み合せるというアイディアはプロデューサー、ボブ・ワインストックの企画だった。マイルスはコロムビアからも誘われていてプレスティッジのスターだったので、彼が一応リーダー格となっていた。というのはマイルスが当時のユニオンの規定通りリーダーとしての125ドルをもらい、他のメンバーはサイドメンとして規定の40ドルをもらっていたからだ。それにマイルスには印税も入るようになっていた。当のセッションは最初からスムースにいかなかった。その日がクリスマスの前日だったというのは関係なかった。ミュージシャンは、その金でクリスマスのディナーが食えるわけだし、当時レコード界では、ボーナスみたいにクリスマス・セッションなんてこともあったんだ。問題があるとすれば、それはマイルスの方だった。その夜、マイルスはハーレムの「ミントンズ・プレイハウス」に出演する予定が入っていた。午後2時過ぎから夜までにはレコーディングを終らせなければならなかった。それでも、スムースにいけば6時間のダブル・セッションで、8時頃には終れるわけだ。ところが第1曲目のミルト・ジャクソンの〈バグス・グルーブ〉をやる段になって、マイルスがモンクに向って『オレのソロ・コーラスではピアノを弾くな』と注文をつけたんだ。これを聞いてモンクはムッときたんだな。モンクは「ソロのバックでレイアウトするのは、ずっと前からオレがやりはじめたやり方だ」「オレの手法を盗む気だな」とモンクは怒り出した。こうしてモンクとマイルスの間で口論があった。ただし、巷間噂されたようなマイルスがモンクの顔をぶん殴ったというような事実はなかった。もしその時、マイルスがモンクを殴ったりしていたら、のちにモンクが私に語った通り「マイルスであろうとオレは殺っつけた」にちがいない。その日のセッションはこんな調子で険悪な雰囲気となり、私が目撃した〈バグス・グルーブ〉の演奏時には、セロニアス・モンクがマイルスがトランペット・ソロを吹き出すと、すっくとピアノから立ちあがって、そのままスタジオから外に出てしまい、トイレ(!)に行くという場面もあった。モンクはスタジオを出る時、わざと「バスルーム(トイレのこと)に行く」とことわって外に出る始末だった。だから、私がドン・シュリッテンと一緒にバン・ゲルダーのスタジオを出た6時頃までには、まだ満足なテイクは終っていなかったんだ。
その夜、私は自宅に戻ってクリスマス・イブのディナーをすませると「ミントンズ」に出向いてゆき、マイルスの演奏をまた聴いた。そこでばったりドラマーのケニー・クラークに会ったので、『セッションはその後どうなった?』と聞いてみた。ケニーのその時の返事が「マイルスってのはさすがに凄い」というひとことだった。これで私はセッションがそのあと凄い演奏になったんだという確信をもった。ケニー・クラークほどのミュージシャンが「凄い」というからには、これはグレイト・セッションになったにちがいないと直感したからだ。かつての私のボス、プレスティッジの創設者ボブ・ワインストックという男はジャズを聴きわける素晴らしい耳と感受性を持った名プロデューサーだった。当時、誰もが尻ごみをしたセロニアス・モンクをマイルスと組合せた「バグス・グルーブ」セッションは、ボブ・ワインストックの卓越した手腕があってはじめて実現したといえるだろう。このセッションにミルト・ジャクソンを持ってきたのは、ミルトとモンクとが40年代末期からしばしば「ロイヤル・ルースト」などで演奏しているのを彼はちゃんと聴いて知っていたからだし、ワインストックには、最初からこのセッションが画期的な演奏を生み出すだろうという読みがあったにちがいなかった。」アイラ・ギトラーは、このセッションを最初から最後まで見ていたと私はずって思ってましたけど、途中で抜けていたのですね。この記事を読むまでは全然知りませんでした😢
またまた、いつもいつも、貴重な資料、ありがとうございます!
これは動画で取り上げないと。
サンジョルディさんからのコメント。
【<パラレルワールド江戸>思いつきで話す熊さんと、知らないとは言えないご隠居の会話、あるある】
【熊さん】
ご隠居、あっしは、<マイルス=ヴォーカル説>を唱えてえと思うんでさあ。【ご隠居】
お前さんは、相変わらず<唐突>な上に、<突拍子もない>ことを言い出すのう。まあ、言ってみなされ。【熊さん】
まず、マイルスは、56年の2月か3月に喉の手術をして、10日間声を出さないように医者から言われていやした。ですが、しつこく契約をすすめるレコード会社の人間に怒鳴り声を上げて、ハスキーヴォイスになったんでやすね。【ご隠居】
そうじゃ。わしもハスキーヴォイスになる前の、マイルスの声の録音をYouTubeで聞いたことがあるが、<甘くかわいらしい>声じゃった。
アルフレッド・ライオンも、インタビューで、「マイルスがあのままの声だったら、チェット・ベイカーのようにヴォーカルのレコードも売れたに違いない」というようなことを言っておったのう。【熊さん】
プレスティッジの『リラクシン』に録音されたハスキーヴォイスは、声が変わった出来事の数ヶ月後だったんでやすねえ。【ご隠居】
そうじゃ。我々はあの声を、まず最初に聞いたからのう。【熊さん】
あと、マイルスは、ハーマンミュートを使う理由を聞かれて、「人間の声に似ているから」と答えたとも聞きやす。【ご隠居】
確かにマイルスは50年代後半辺りで、カップミュートよりもハーマンミュートを多用するようじゃ。
また、他のトランペッターは、<音量を抑える>ためにミュートを使うが、マイルスはそれだけの理由ではないのう…
まさか、マイルスが<自分のかつての甘い声>を、トランペットで取り戻そうとした、とお前さんは言いたいのかの?【熊さん】
へへえ(笑)
それから、マイルスは、フランク・シナトラが、マイクを上手く使って、自分の声量をカバーしたことも、トランペットの参考にしたらしいでやすね。【ご隠居】
その話は、聞いたことがあるがの。それは、ディジー・ガレスビーのようにハイノート連続では吹けないから、シナトラを参考にしたという文脈で聞いたわい。【熊さん】
あっしは、<マイルスミュージック>は、全てマイルスの<ヴォーカルもの>ととらえた方がいいと思いやす。
マイルスが<ヴォーカル>で、あとのメンバーは、いわゆる<歌伴>、歌の伴奏でさあ。
それから『カインド・オブ・ブルー』なども、ハードバップが行き着く先の目まぐるしいコードチェンジよりも、自分のトランペットが<ゆったり歌いやすい>から、<モード奏法>を取り入れたと、にらんでいやす。【ご隠居】
そう言えば、<なかやん>が以前、
「マイルスは、自分が歌手だと思っていますよ。『オレは歌うトランペッターだ』と言っていますから」と言っておったことを思い出したわい。あれは、マイルスがヴォーカルとの共演が少ない理由として挙げたものだった覚えはあるがの。【熊さん】
マイルスが<ヴォーカル>だと、とらえれば、後の『ビッチェズ・ブリュー』や『アガルタ』『パンゲア』、そして「タイム・アフター・タイム」を演奏したのも、納得出来るんでさあ。【ご隠居】
ふうむ。
マイルスが<ヴォーカル>だとすると、
時期によって、ジャズはもちろんのこと、<シャンソン>や<R&B/ソウル/ファンク>、<ロック>や<ポップス><ヒップホップ>までトランペットで<歌った>ということじゃな。
<ロックの世界>で言うと、デヴィド・ボウイみたいに、時代によって色々なスタイルに変貌を遂げたと言うことかの?【熊さん】
マイルスは、「オレのことをジャズと呼ぶな」とも言いやしたからねえ。【ご隠居】
まあ、あの発言は、<ジャズ>と言う言葉自体が、アフリカ系アメリカ人の音楽に対する<差別語>だと思っていたのじゃ。マイルスは80年代のインタビューでもそう言っておる。【熊さん】
あの時代は、<ジャズ>を差別語ととらえるジャズマンが多かったようでやすね。【ご隠居】
話を戻すと、
ブルーノートのハードバップとは雰囲気の違う<マイルスワールド>も、
マイルスが<ヴォーカル>で、あとのメンバーが<伴奏>だったからと、お前さんは言いたいのじゃな。
ふむふむ、<ヴォーカルマイルス>であれば、ギル・エヴァンスの<やや大げさな>編曲も気に入ったかも知れんのう。
また、<ヴォーカルマイルス>だからこそ、<フリージャズ>は、嫌いだったのじゃろう。【熊さん】
<フリージャズ>だと、自分が<歌えません>からねえ。【ご隠居】
いやいや、どうもお前さんの<マイルスヴォーカル説>に乗っかり過ぎたわい。
<乗っかりついで>じゃが、マイルスがトランペットを<ヴォーカルとして>演奏したのなら、
コルトレーンとは方向性が違ってくるのは、必然かも知れんのう。【熊さん】
へえ。
コルトレーンは、テナーサックスやソプラノサックスを、あくまで<楽器として>演奏しやしたからねえ。
<フリージャズ>まで行きやした。
熊さん、なかなか鋭いですね。
私も<マイルスヴォーカル説>に乗っかりたいですw
晩年のマイルスのバンド名も「マイルスとマイルスのバンド」というような名前だったような……。記憶がおぼろで申し訳ありませんが、だとすると、完全に「主役」と「バックバンド」を分けているような名前ですね。つまり、歌手と伴奏係を明確に分けた考えなのではないかと。
サンジョルディさんからのコメント。
【<パラレルワールド江戸>思いつきでしゃべる熊さんと、知らないとは言えないご隠居の会話、あるある】
【熊さん】
ご隠居、アルフレッド・ライオンがプロデューサーだった頃のブルーノートには、ヴォーカルのアルバムがほとんどありやせんね。【ご隠居】
お前さんは、相変わらず<藪から棒>じゃのう。
確かにライオンの時期のブルーノートには、ヴォーカルアルバムは、ドド・グリーンとシーラ・ジョーダンの2枚だけのようじゃ。
まあライオンは、ヴォーカルに興味がなかったと、一般に言われておると思うがの。【熊さん】
あっしは、<興味がなかった>という消極的な理由だけではないと、にらんでいやす。【ご隠居】
ほほう、何じゃの?【熊さん】
当時のライオンは、ヴォーカルアルバムを作ると、<ヴォーカル>と<伴奏>になることを嫌ったのではないかと思いやす。つまり、ライオンの大好きな楽器が、脇役になっちまうんでさあ。【ご隠居】
お前さんの言いたいことは、何となく分かるのう。50年代当時は、フランク・シナトラやサラ・ヴォーンのアルバムなど、確かに<歌手>と<伴奏>じゃのう。まあ、クリフォード・ブラウンは、<伴奏>でも、かなり目立ったがのう(笑)
60年代になると、ザ・ローリング・ストーンズなどのロック・バンドで、少しずつ<ヴォーカル>と<伴奏>の形態が変化したがのう。まだ、ヴォーカル中心に思えるわい。音楽シーンで、専属<ヴォーカル>と<楽器>が、バンドの形態の中で、全く<対等>になるのは、やはり60年代後半から70年代のハードロックを待たねばなるまい。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどじゃのう。あれは、もはやヴォーカルも、<楽器の一部>じゃ。ヴォーカルのメロディに対して、ギターやキーボードなどの<リフ>や<ソロ>の比重がかなり大きくなっておる。
【熊さん】
そうでさあ。
それから、ライオンがヴォーカルアルバムをあまり作らなかったもう一つの理由、
それは5・60年代ブルーノート・ハードバップには、すでに<ヴォーカル>がいたんでさあ。【ご隠居】
ふむふむ、トランペットやサックスなどのホーン陣が<ヴォーカル>だと言いたいのじゃの?【熊さん】
さすがご隠居、分かっていらっしゃる(笑)
私も話しの途中からご隠居さんと同じ考えで読んでましたw