1975年(昭和50年)の年末に発売された『ジャズ批評』No.21。
特集は、「ジャズ史を転換したエネルギー」。
まだ、未読なのですが、手にとってパラパラとめくるだけでも、かなりの熱気が活字からゆらゆらと漂ってきています。
読む前に、いったいどのような誌面になっているのか。
内容をざっくりと紹介した動画をアップしました。
コメント
MrNOBUchanさんからのコメント。
五十嵐明要→いがらし・あきとし さんです。発売レーベルのロックウェル・レコードとは、岩味潔さんの「岩(英語に訳すとrock)」と油井正一さんの「井 (井戸のこと:英語に訳すとwell)」を組み合わせた言葉遊びでしたね。
「あきとし」さんと読むんですね。
あと、「ロックウェル」の由来も、そういうことだったんですか。
勉強になります。
ありがとうございました。
再びMrNOBUchanさんからのコメント。
『幻のモカンボ・セッション』cd2の冒頭に収録されている「テンダリー」、ピアノを弾いているのが当時、在日駐留米軍の一員として日本にいたハンプトン・ホーズですね。この演奏、実に素晴らしいので今でもよく聴いています。
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《テンダリー》、いいですねぇ。
というか、「モカンボ」は全部いい(笑)。
演奏もいいんですが、なんというか、空気までは聞こえないんですが、しかし熱気のある空気をも音と一緒にパッキングされているような、そんな感じがして、私は1954年の熱い空気が圧縮されたCDを解凍して音楽とともに味わっている、そんな感じがします。
御駄賃取郎さんからのコメント。
これはこれはまたスゴイお宝ですねえ!私もおおいに興味をひかれます。私はジャズにはまって以来「踊る阿呆に観る阿呆・・同じアホなら踊らにゃソンソン」とばかり「スイングジャーナル一穴主義?」だったのでジャズ批評のこうした当時の記事はとてもなつかしくも、当時のジャズシーンの空気感を感じて興奮します。
いまでは当時の「熱きジャズ!」をふりかえると「WHO HAS SEEN THE WIND?」(誰が風をみただろう)の歌詞が思い浮かぶのですが・・今では「ジャズの十月革命」などといってもほとんど周りでも無反応です。
「モカンボ」も「銀巴里セッション」も新譜として聞いた私は(すげえっっ!)とただただショックを受けるばかりでした。日本のミュージシャンの恐るべきレベルの高さに自分もなんだか誇らしかったものでした。
こうしたバックナンバーこそ、私のような断捨離に励む世代が多い?「今」こそが旬なのかもしれませんね。笑
>新譜として聞いた私は(すげえっっ!)とただただショックを受けるばかりでした。
やっぱりそうだったんですか。
新譜にリアルタイムで接した方からの感想は貴重です。
ありがとうございました。
>断捨離に励む世代が多い?「今」こそが旬
そうかもしれません。
なので、いらなくなった古新聞・古雑誌は、「高野ちり紙交換」まで~
……いや、古新聞はいらんですがw
Hiromi Hasegawaさんからのコメント。
つげさん、芸術院会員になったようです。ちょっと複雑な思いですが「みなし公務員」で終生年金年250万だそうで「それならいいか」という感じです。守安ですが、盟友宮沢昭によるとその死の1か月後NHKラジオが1時間の追悼番組を放送したそうです。で、当時の雰囲気が判る音源が無いかと探したら….。
「青春ジャズ娘」(1953)ベースの高島忠夫、ドラムのフランキー堺、ボーカルの新倉美子(辰巳柳太郎氏長女)以外は「くちパク」? あと、ナベサダ、穐吉が在籍したシックスレモンの動画もありました。
これはまた、貴重な映像を教えていただきありがとうございます!
豪華かつビックリするほど皆若くて、エキサイティングです。
凄い!
高島忠夫がベースなのも驚きました(笑)。
当時の空気、こんな感じだったんでしょうね。
なんだか、怖い物なしの勢いに溢れていて瑞々しいです。
歌も演奏もフレッシュで、イキがいいとはこういうことをいうのでしょうね。
良い映像を味わうことができました。
ありがとうございます!
Hiromi Hasegawaさんからの返信。
この映画の続編が『娘16ジャズ祭』(笑)。新倉美子のCD(現在Amazonで2万6千円!)の帯のキャッチコピーを書いているのが瀬川昌久氏『ラテンもハワイアンもカントリーもすべてがジャズと呼ばれていた時代。日本で初めてのアイドル・ジャズ・シンガーが登場した!!』。「じゃあ、2番目は誰だよ」というツッコミはともかく、ジャズが今では想像できない様な「国民的な人気」があったようです。(かまいちさんご紹介の)守安の評伝にもありますが、「ポピュラーのメロディラインを少し崩しただけでジャズで通用した」、まさに怖いもの知らずの時代、だからこそ守安の「異様さ」が際立ちます。
『娘16ジャズ祭』。
イカしたタイトルですね(笑)。
なんでもありなパワフルな時代だったんでしょうね。
博 橋本さんからのコメント。
3年〜4年前に上記の2本をYouTube で観ることができたのですが最近見当たらなくなってしまいました🥵🥵
じつは、私もナウでイカしたヤングなタイトルに釣られてYouTubeで検索してみたのですが、ありませんでした(残念)。
でも、昔はアップされていたんですね。
博 橋本さんからの返信。
残念ですね。ひょんなことでまた浮上してくると良いんだけれど。
若木彰さんからのコメント。
守安祥太郎「モカンボ」でのセッションの裏方をされていたのは、ハナ肇、植木等さんです。
とにかく、日本でも一番早くビ・バップを取り入れたピアニストです。
しかし、当時(1950年代前半)は、日本ではまだ、ダンスミュージック全盛期で、それを何段階も飛び越えた演奏には、日本人には受け入れてもらえなかったようです。
少し、精神的に不安定になり、ピアノで破天荒なパフォーマンスをしていたようです。
そして、1955年に鉄道自殺されました。
その自殺原因は未だ分からないということですが、私的には、音楽の行き詰まり(日本でのジャズファンからの不当な評価)だと、思っています。
生まれてきたのが、10年早すぎたのでしょう。
また、秋吉敏子さんとの、因果関係も興味があります。
皆さん、名著「そして、風が走りぬけて行った」(植田紗加栄著、講談社)をぜひ講読されることをお勧めします。created by Rinker¥1,412 (2024/11/21 17:36:50時点 Amazon調べ-詳細)追伸:この1975年は私が、ジャズに本格的に目覚めた年で、さらに、つげ義春さんの世界に引き込まれた年です。今日の新聞でつげさんが、芸術院会員に選ばれたニュースを知り、確かに、つげさんの哲学ではないかと思いますが、少しでも、生活が安定され、うれしく思っています。あれ!最後は、守安からつげへと飛躍してしまいました。
いろいろと情報ありがとうございます!
勉強になります。
『そして、風が走りぬけて行った』もご紹介いただきありがとうございます。
読んでみたくなりました。
とはいえ、ちょっと現在は「つん読地獄」なので(苦笑)、すぐにというわけにはいきませんが、いずれ読みます!
kamaichi2002さんからのコメント。
こんにちは。かまいちです。ご活用いただきありがとうございます。
ご参考までに、下記のページもご覧ください。モカンボセッション
↓
1954年、あの夜の『モカンボ』の真実【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.5
ありがとうございます!
まず、「守安本」に関してですが、若木彰さんからの紹介もあり、この本はいずれ読んでみたいと思います。
で、モカンボセッションの記事は興味深く読みました。
伊勢佐木町といえば、私も5歳までは横浜に住んでおり、土日祝日は両親に連れられて、よく元町や伊勢佐木町に行っていたので、もしかしたら店のビルの前を何度も通っていたかもしれません(とはいえ、その時はもう閉店していたんでしょうけど)。
で、現在はフィリピン・レストランなんですね。
「会場には総計100人近いミュージシャンが集まり、入れ代わり立ち代わりステージに立って演奏を繰り広げたと伝えられている。」
100人。
しかもプロが!
想像以上の人数に驚きました。
「女性とのダンスと酒を目当てにやってくる客を相手にした演奏の時間が終わり、店の営業時間が終了したのちのいわゆるアフター・アワーズに、ミュージシャンたちが火花を散らして最先端のジャズに打ち込んだ」
まさに、「ミントンズ・ハウス」のジャムセッションではないですか。
営業演奏ではなく、本当にやりたい音楽をぶつけ合っていたからこそ、音が熱くて勢いに満ち満ちていたんでしょうね。
やっぱりバップは、最高!(笑)
「当時、渡辺は21歳、秋吉は24歳。」
若いなぁ。
ナベサダ(岩味氏さん的にはサダナベ)の年齢、もううちの息子は追い越しちゃってますよw
「岩味が『モカンボ』に到着して、一本しかないマイクを天井から吊るし、録音機材のセッティングをしていたとき、『モカンボ』の店員が電源を落とそうとした。(中略)電源を落とされたら録音ができない、と困っていたところに助け舟を出してくれたのが、『ちぐさ』の吉田さんでした。“これから演奏をするというのに、電源を切るとは何ごとか!”と彼が一括してくれたおかげで、事なきを得ました」
うーん、いい話だ。
(当時の)『ちぐさ』のマスター、偉い!
「参加ミュージシャン全員から参加料として500円を徴収したというが、その徴収係をのちにハナとともにクレージーキャッツを結成することになる植木が担当したのは、彼が下戸で、酔って仕事をさぼったり、計算を間違えたりする危険がないからだった。」
そうだったんですね。
なるほど、100人も参加者が来るのであれば、徴収係の責任も重大ですからね。
10時間もの長丁場のジャムセッション・タイム。
そして、「売店をつくり、水割り一杯80円、すし100円。俺はヒロポンを仕入れて2階に置き、打ちたいやつには打たせてたなぁ」(ハナ肇)な環境で、ひたすら録音を続けていた岩味氏さんは当時19歳だったとは!
いやぁ、若い熱気とエネルギーに満ち溢れていた場所だったんですね。
どうりで音もピチピチと勢いがあって火傷しそうなほどにエネルギッシュなわけだ。
やはりエネルギッシュなジャズはいいですね!!
Ken Konishiさんからのコメント。
昔の秋葉原は駅前にバラックの電気部品屋が並んでましたね。良く行きましたがマニア以外は行かなかったと思います。街も清潔ではなく、雰囲気は最悪でした。
そうだったんですね。
今ではすっかりアニメとメイド喫茶の町になっていますが(少し前はパソコンの町、そのまた前は電気の町)、そんな秋葉原がかつては「最悪の雰囲気」だっただなんて、まったく想像もつかなかったので、「秋葉原電気振興会」のHP内の「第二章 ~焼け野原からの出発~」を読んでみました。
⇒こちら
終戦の時点で、秋葉原一体はほとんど焼け野原で、上野から須田町が見渡せたほどであった。しかし、終戦を待ちかねていた電気店は続々と店を再開し、あるいは起業し店を構えて新しい時代を切り開いていった。
戦前から店を構えていた、廣瀬無線、山際電気商会、高岡電気、中川無線に加え、今村電気、石丸電気、志村無線、谷口商店、朝日無線電機、中浦電気、ミナミ無線、山菱電気などが中央通り沿いに店を構え、万世橋近くに鹿野無線、須田町角に万世商会、中嶋無線、金田商会があった。また、昭和23年に角田無線が現在の場所に、新徳電気、オノデンも店舗を構えた。現在の秋葉原の下地が戦後のわずかな期間に急速につくられていった。
なるほどね~。
小さく終戦直後の写真も掲載されていましたが、まるっきり焼野原で、本当に「上野から須田町が見渡せたほどであった」という記述どおりな感じですね。
で、「モカンボセッション」の1954年(昭和29年)あたりの記述を見ると、昭和28年「家電元年」であり、朝鮮動乱の特需で好景気が続く中で、次の発展のステップ「テレビ放送」が開始されたとあります。
「三種の神器」のテレビ・冷蔵庫・洗濯機のうち、テレビと、洗濯機の爆発的ヒットの萌芽が昭和28年に始まり、当時の秋葉原は、卸商を営む廣瀬商会、角田無線電機、山際電気商会、石丸電気が全国的にも有名で、「秋葉原は安い」という情報を発信し、秋葉原近隣には小売り専業で商売を始める会社も増え、活況を呈していったそうなので、モカンボセッションの前後から、少しずつ秋葉原も電気の町としての形を整えていったのでしょうね。
博 橋本さんからのコメント。
67年〜68年頃のTBS ラジオの夜の番組に大橋巨泉の『プレイボーイ・クラブ』というのが有りました。放送の中で何度かモカンボ・セッションの話も取り上げてくれました。
録音したのは学生で当時のテープは紙製だけどアメリカ製だとか、ハナ肇が仕切ったとか・・・。
ハンプトン・ホースは皆から「ウマさん」と呼ばれて慕われたなどの話でした。
音源はまだありませんでしたがスイングジャーナル誌上でも稀にモカンボ、守安の話題はあったと思います。
レコードが発売された時はモノクロ写真で4頁くらいの記事で取り上げられた事を憶えています。当時はレコード購入にまでは至りませんでしたが、後年CDを地元の図書館で見付けた時はすかさず借りて帰りました。
秋吉敏子が「イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン」で担当の居なかったベースを弾き始めますが途中で助けを求めて叫ぶ、という様なラジオだけで聴いて終わっていた話が改めて思い起こされ、戦後の横浜に憧れていた高校生に戻っていました。
レコードが発売された当時はラジオのジャズ番組にゲストでハナ肇が呼ばれて語ると言ったこともありました。