一体どっち?マッコイ・タイナーを褒めたり貶したり

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先日、「1964~74年 10年間の重要アルバム~『モダン・ジャズ読本’75』(スイングジャーナル臨時増刊)より」というタイトルの動画をアップしたところ、TAKESI0506さんより興味深い記事の投稿がありました(⇒こちら)。

ジャズ評論家でもあった鍵谷幸信先生が、マッコイ・タイナーのピアノを激褒めしたり、(3年後には)貶しまくっていたりしていることに対しての読者からの指摘です。

そして、それに対する鍵谷先生からのご回答も。

46年前のジャズ雑誌上では、このようなやり取りが交わされていたことが興味深かったので、そのやり取りを紹介する動画をアップしてみました。

矛盾を指摘した読者の方は、礼節もわきまえているし、自らのスタンスもしっかりと表明している上に、分かりやすく矛盾点や質問の要旨を具体例を交えつつ指摘をしていると思います。

それに対して、先生のご回答はというと……?

コメント

Ken Konishiさんからのコメント。

ジャズは絶えず前進するものでは無いと思います。自身のスタイルを確立できれば、あとはマンネリと言われようがそれで良いのでは。ジャズ・プレーヤーも仕事ですし、生活もありますからね。

高松貞治さんからのコメント。

ライオネル・ハンプトン、グラミー賞、特別功労賞受賞おめでとうございます😋

カトウシュンさんからのコメント。

読者さんの投書には鍵谷先生に対して「念」が感じられます。
逆にジャズミュージシャンが批評家の方達をどう思っていたのか知りたいですね。
私個人の偏見ですがさんはズバッと一刀両断しそうな気がします((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

高柳氏なら言いそう(書きそう)ですね。
氏の著作『汎音楽論集』を過去に読んだのですが、評論家については書いてあったかなぁ(忘却)。時間がある時に読み返してみますね。
同業のギタリストには手厳しいことが書かれていていたことは覚えています。グラント・グリーンに関しては、たしか「演歌」というようなことが書いてあったように記憶しています。

カトウシュンさんからの返信。

私も何の雑誌か失念しましたが高柳さんが「ケニー・バレルはたいした事ない」と仰っていた記事を目にしたことがあります。
昔のジャズ批評には高柳さんの批評が掲載されているのですが面白いというかもっと読みたくなるんですよね。
『汎音楽論集』は探して購入してみようと思います。

あ、なんとなく思い出してきました。
たしかに、ケニー・バレルに関しては芳しい評価ではなかったような気がします。
タル・ファーロウは三味線ギター、でしたっけ(記憶違いだったらすいません)。

『汎音楽論集』は、けっこう厳しいことが書いてあるので(特にギターに関しては)、軽い気持ちでジャズギターをはじめようと思った人が読むと、「やっぱりやーめた!」となるんだろうなぁなんて思いながら読んだ記憶があります。

というのも、昔、行きつけの居酒屋のマスターがギター弾きで、彼の知り合いが、少しだけ(ほんとうに数週間だけ)高柳氏のギター教室に通っていたことがあるそうですが、あまりに厳しすぎてやめてしまったという話を聞いたことがあるからです。

とにかくフォームに関しては徹底して厳しい。
ジャズギターというよりも、ガットギターを使ったクラシックギターの奏法を学ぶことがその教室の中心だったようですね。あくまで習うのは「弾き方」であって、「ジャズ理論」は自分で(他所で)学びなさいということだったらしいです。

そうそう、だんだん思い出してきました(笑)。

さらに、書名は忘れましたが読まねばならぬ必読書があり(たしかヨアヒム・ベーレントの歴史本?)それを読むのも課題の一つだったようです。ジャズの歴史も学ばねばならぬ、と。そして、週1か月1だったか、定期的に作文を書いて提出することもノルマだったそうです。

最初は好奇心で習い始めるギター志望者もいるのですが、「そこまでやるの?!」と、だいたいが途中でリタイアしていく。しかし、年少ながら、この厳しい環境に耐え、軽々と数か月で教えをマスターしてしまった中学生か高校生の少年がいた。それが渡辺香津美だったのだそうです。

たしかこの話を聞いて興味を持ち、『汎音楽論集』を買って読んだのだと記憶しています。

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カトウシュンさんからの返信。

ますます興味が湧いてきました。
その「必読書」も探してみようと思います。

高松貞治さんからのコメント。

鍵谷幸信、何を言っているのか私にはよくわかりません❗️やっぱりみんな自分と同じ考えなんですね。寺島靖国さんの件はおそらく辛口JAZZノートだったと思います。

「辛口」のほうでしたか♪

Hiromi Hasegawaさんからのコメント。

以前の動画で高野さんが紹介されたいましたが、私はサージ・チャロフの大きな楽器を力いっぱい吹いて囁くような音を出す”Blue Serge”が大好きですが、それが故に”The Fable of Mabel ”を聴いたときには茫然としました。あとハル・マクーシック(マリアーノもそうですが)の様にリーダーアルバムだと室内楽ジャズ、サイドメンだとウエスト、イースト関係なくいろんなセッションに顔を出し歌伴もやる、とか。(全員ウエスト系の白人でとにかく「上手い」のが共通点)
変わり続ける人、変わらない人で言えば最初から多面体で見る角度で違って見える人というのもあります。「うーん」と頭抱える事もありますが、好き嫌いとは違う、いつまでも「謎」として気になるという感じです。

料理人は、ひとつの料理にも何通りもの味付け(調理)をすることが出来るそうですが、プロの楽器演奏者も同様だと思います。もちろん例外もたくさんいるでしょうが、たとえば阿部薫にヘレン・メリルの歌伴を頼んでも無理だったとは思いますがw

ただ少なくとも、今回取り上げられたサージやマリアーノのようなウェスト・コースト系の人は、まず譜面が読めなければ仕事にありつけないので、水準以上の読譜力と演奏力があるわけですよね。これがあれば、とりあえず普段と異なる切り口の音楽でも、俳優が刑事を演じたり犯人を演じたりすることが出来るように、リーダーやプロデューサーが求める音を「演じる」ことは出来るわけです。

あのハンク・ジョーンズだって、楽屋ではポータブルキーボードでマッコイ風に弾いたり、ハンコック風に弾いたりして取材者を笑わせていたようですが、ひとたびステージにあがればお客さんが求めているピアノは、「タイナー風」でも「ハービー風」でもなく、まぎれもなく「ハンク風」のピアノですから、どこまで意識的か無意識的かは分かりませんが、おそらくは今晩のお客さんが求めているであろう「ハンク・ジョーンズ」のピアノを「演」奏するわけです。
このように、日々演奏活動をすることで収入を得ている多くのプロミュージシャンは、演奏のアプローチのストック、バリエーションは何種類も持っているのが普通だと思います(もちろん自分にとって不本意な表現が受けたり、本音の表現が不評だったりという不一致はあるとは思いますが)。

マッコイとて同様で、彼の場合は「ニューポート」のライヴで弾いたような、《マイ・ファニー・ヴァレンタイン》のような演奏だって出来る人なんですね。
ただ、おそらく日本の多くの聴衆が求めている「マッコイ像」は、日本でも「レジェンド」となっているジョン・コルトレーンという人が率いていた「黄金のカルテットのメンバーだった人のピアノ」だと感じたのでしょう。だから、その期待に応えるために30センチも離れたところから鍵盤に手を振り下ろしてガンガン弾いたのかもしれない。ある意味パフォーマンスですよね。コルトレーンが好きな日本人には受けるでしょう。これが、鍵谷先生が激賞した73年の銀座のライブ。
もしかしたら鍵谷先生は、自分が求めているコルトレーン像をマッコイに投影して鑑賞したら、見事にマッコイの「パフォーマンス」がツボにはまっただけなのではないか? 音楽にではなくて。なんてことを邪推しています(性格悪いですねw)。

しかし、この「パフォーマンス・マッコイ」も、マッコイ・タイナーというピアニストの一側面でしかありません。
なので、3年後の日本公演ではどのような演奏をしたのか分かりませんが、もしかしたら違うアプローチで演奏したのかもしれませんね。だから失望した(だとしたら単純やな~)。そして、件の罵詈雑言に近い「ごとき」発言や、「知能指数」発言につながったのではないかと思います(だとしたら単純やな~)。

小説家だって、ライターだって媒体によって文体を使い分けるように、先述した料理人やハンク・ジョーンズもそうですが、本質は変えないにしても、シチュエーションに応じて表現の味付けを変えることだってあるわけです。
きっと、76年のマッコイの演奏は、先生にとっての「3年前にボクが恋したタイナーちゃん」とは違ったのでしょう。セーラー服姿に惚れたのに、ナチュラルメイクのリクルートスーツに変わっていたのでしょう。同一人物であるにもかかわらず、好みの「プレイ」をしてくれないから裏切られたと感じたのでしょう。こんなのタイナーちゃんじゃない!と思ったのでしょう。本当は好きだったのでしょう。しかし裏切られたという気持ちが大きかった。だから「可愛さ余って憎さが百倍」発言につながったのかもしれません(だとしたら純朴やな~)。

もし先生がアイドルファンだったら、「アイドルは恋はしない、トイレに行かない」という幻想を頑なに信じて、お目当てのアイドルの交際が発覚したり、婚約報道があればブチ切れるガチ恋・キモオタな追っかけになっていたのかもしれません(笑)。

Hiromi Hasegawaさんからの返信。

見事に言語化されていてぐうの音も出ないくらい納得しました。入念にスコアを書いてメンバーを厳選、万全の体制で臨むレコーディングもあれば、限られた時間で上げなければならない、尺が足らなくてその場で曲を作る場合もあった、(以前仰っていましたが)当然ヘンな自己主張をしない「堅実」なプレイヤーが求められたんでしょうね。
>(性格悪いですねw)
いやいや、聴者は自分のイメージを奏者に勝手に投影して奏者の「ポリシー」だと勘違いする、胸に手を当てると覚えがあります。(苦笑)「生きている人間は何をしでかすかわからない」その人間がやるのがジャズですから自分の思いどうりになるわけがない。鍵谷さんは奏者へのリスペクト、あえて言うなら愛がない。誰のセリフか忘れましたが(渥美清?)「別れたとはいえ、一度は惚れて一緒になった女の悪口をいう男は自分に向かって言っているのと同じ」でカッコ悪いですね。

お返事ありがとうございました。

「別れたとはいえ、一度は惚れて一緒になった女の悪口をいう男は自分に向かって言っているのと同じ」

いいですねぇ、寅さんが言いそうなセリフです。
ちょっとジーンときました。

「一度は惚れて一緒になった女の悪口」で思い出したのですが、そういえば以前TAKESI0506さんから興味深い資料をいただいていました(さすがTAKESI0506さん!)

これは、ジャズ喫茶「いーぐる」の店主・後藤雅洋さんが、鍵谷さんに対しての反論文章で、タイトルは「ジャズを現代音楽を比較する愚~鍵谷幸信氏を批判する。」で、出典は『ジャズ批評 No.51』の「これがジャズギターだ」特集の「マイ・オピニオン」というコーナーです。

ちょっと長いけれども引用してみますね。

私は氏の文章からは、ジャズに対する愛情、愛着と言うものがまったく感じられない。言い様は悪いかもしれないが、
「昔、ジャズという悪い女に血迷ったことがあったが、今になってみればなんであんなあばずれに入れ上げたのか、僕にはちゃんと現代音楽という氏育ちの良い深窓の令嬢がいるのに」
と言ってるようなもので、我々のように、そのあばずれに身も心も奪われている人間から言わせれば、
「大きなお世話だ、ほっといてもらおうか」
と言うことになる。

これは、『図書新聞』に鍵谷先生が寄稿した「ジャズ界よ、震撼(スイング)せよ!~ジャズ・ジャーナリズムに苦言を呈す」というタイトルのエッセイに対する反論文の一部抜粋です。

TAKESI0506さんの説明によると、「鍵谷さんは80年代に入ってからは、私の知る限りジャズ関係の文章は書いてないので、5年以上もの空白期間をおいて何故あのような檄文を出したのか、理解に苦しむところですが……」とのこと。

つまり、ジャズ(あばずれ女)から足を洗ってしばらくすると、「一度は惚れて一緒になった女の悪口(?)」を書いているようで。

女性と色恋沙汰に代入して考えると、難解な言葉に翻弄されず、スッキリとした見通しになりますね(笑)。

早春さんからのコメント。

私は動画でちょこちょこ登場する評論家諸氏や読者のお話を聞いていると、どうも自分たちがその世界を代表している気になっていたり、普遍的価値観のようなものがあるのを前提として話しているような気がしてしまいます。時代を知るという意味で面白いなァ、と笑いながら読ませていただいていますが、私はどうもそのような批評家諸氏はあまり好きにはなれません(苦笑)。

ところでMcCoy論争といえば、私も最近まで彼の音楽の評価が定まっていませんでした。Real McCoyなどの作品の、つぶだった立ち上がりの良い音の、画面上でカラフルな小さなたくさんのライトが代わる代わる点滅するようなタッチはあまり好きではないです。ダイナミックな演奏だとも思うのですが、これらの印象を抱くと同時に多少浅くも感じられます。
今でもこれらの点は好きではないのですが、数日前にPage Oneを聴いて彼の評価が少々変わりました。車窓からうっすら曇った夕焼けを見ながらPage Oneを聴いていると、McCoyの抑えたピアノがとても美しく聞こえました。特にLa Meshaのイントロが美しい。少し湿った、また少し鬱々とした、また同時に覚めたような空気感がとても心地よく心が落ち着きました。このような、La MeshaやNight DreamerやTwilight Mist(Morgan, Tom Cat)などの控えめの、抑制したサイドメンでの演奏は非常に素晴らしいと思います。このような演奏が他にもあれば、是非聴いてみたく思います。

21世紀の10代の方には、70年代の評論家先生がどう映るのかが興味津々でしたが、やっぱりそうでしたか(苦笑)。

Hiromi Hasegawaさんへの返信にも書いたので、多くは繰り返しませんが、マッコイ・タイナーといえども、いくつかの切り口は持っており、大別すると、
「マッコイ慕情」と「ガンガンタイナー」に分けられると思います。

早春さんは、奥飛騨…、じゃなくて、らめっしゃ慕情のタイナーが好きなんですね。
『ライヴ・アット・ニューポート』のマッコイもなかなかですよ♪

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讃岐うどんさんからのコメント。

「美味しんぼ」のエピソードみたいですね。笑  
鍵谷さんなりの屈折した表現方法かもしれません。なんかキャラとしては鍵谷さん嫌いじゃないですが(こういう人はメッチャめんどくさいですが)。
詩人という表現者だったから鍵谷さん自身、詩人界で己の作品を同じ様にこき下ろされた経験があるんじゃないでしょうか?
前進していないのは自分自身だと薄々感じていてマッコイに自分を投影してるようにみえます。
今の時代でいうとSNSのインフルエンサーに執拗に絡んでくるアンチの心理(愛憎)と似ていますね。

今の世だったら、そうなっていたかもしれません(わからないけど)。

ちなみに、誹謗中傷系の匿名掲示板に書き込む人って、意外と若者よりも40~60代の年輩が多いという話を聞いたことがあります。

彼らの心理としては、揚げ足取りや嫉妬、足の引っ張りもあるのでしょうが、「説教(それも「愛」ゆえの)」があるのだそうです。
書かれた側としては、たまったもんじゃないかもしれませんが、書く方は、自分の知識や経験から「もっとこうした方がいいよ」という気持ちが根底にある「愛ゆえの行為」だと勘違いしているオッサンも少なくないらしいのです。

だとしたら、まさに讃岐うどんさんのご指摘どおりかもしれませんね(笑)。

御駄賃取郎さんからのコメント。

ウクライナの報道でロシアのラブロフ外相を見るたび「あれ?・・・鍵谷幸信先生?・・・(♪○んだはずだよ・お富さん)が頭のなかでうかんでしまう。。。あの雰囲気がクリソツ!におもえてなりません。(._.)v

寺島さんが本で「モードがジャズを殺した」のようなことを書いた時「座布団10枚!!」と快挙をさけんだものでした。モードはあくまでも「ミュージシャン都合」の理屈にすぎない。これにくらべたらまだフリーのほうがお手本となるクラシック(現代音楽)を手本みしたことは明白なので由緒は正しいと思います。。

それと私は買うべきジャズのレコードがない時には必ずピーターソンかエロール・ガーナーかジャンゴあるいはブラウニーを買い続けてきましたが、鍵谷幸信先生ののたまうお節は「ディベートとしてはおもしろいが説得力はゼロだよなあ。」と一切気にかけませんでした。
かえりみればそれもこれもあれも、すべてあの時代でこそなせる技だったような・・。

私のマッコイ・タイナー・ベスト3といいますと
1,エコーズ・オブ・フレンド  2、アトランティス  3,リーチング・フォース
となりますが、モード・ジャズって名盤・愛聴盤となるものが少ないなあ?とおもいませぬか?

「グラント・グリーンは演歌だ」というのは賛成。とくに「アイドルモーメンツ」なんざ「マヒナスターズ」の曲作りに多大な影響をあたえたと思っています。

ネットで画像検索しても、あまり先生のお顔は出てこないのですが、ラブロフ外相に似ているということは、真木和泉(攘夷派の志士)のようなゴッツい方だったんですか?

モードジャズは、コルトレーンのような熱いブローを長時間繰り広げる熱血野郎の汗を浴びるには最適なフォーマットだと思うのです。
演奏時間の違和感なき長尺化を可能にしていますから。
あのキャノンボール・アダレイも日本のライヴでは、モード奏法で長尺演奏を繰り広げています。
まあ、演奏時間を長くして、じっくりとアドリブに取り組めるゾというのは、「ミュージシャン都合の理屈」といわれれば、その通りかもしれません。
それがイヤだという人の気持ちもわかりますが、その一方で、短時間の演奏では味わえない演奏者の思考過程やストーリーテリングの妙味をトレースできるという楽しみもあります。
まあ、モード嫌いにはせっかちな人が多いですからね(苦笑)。

TAKESI0506さんからのコメント。

私の長い引用文を取り上げていただき感謝します。
 鍵谷さんがトミー・フラナガンについて語ったことは多分ないと思いますが、MJQの74年の新作「バッハとブルースを基に」のスイングジャーナルのレコード評は珍しくも鍵谷さんが書いてます。点数は4星でした。

 3月3日の雛祭りの夜、ぼくはMJQの新作「ベイスド・オン・バッハ&ザ・ブルース」を聴いた。そしてそれを聴く破目に少しもならなかったことをまず喜んだ。その日は大学の入学試験の雑務から解放された日でもあったので、聴く前から肉体的疲労は残っていたが、精神的にはホッとした気持でこのレコードにたち向った。両面合わせて42分、聴き終ったとき肉体的疲労の方もいくぶん和らいだような気がしたのは、やはりMJQの音楽のもつ大いなる功徳である。もちろんこのアルバムに新味や試行や賭けや冒険を期待しても無駄だろう。まさにas usual の4人が、ペースを少しも乱さずに実にきれいな音づくりをやっている。とかくジャズのファンは前作と新作とで、ミュージシャンに変化や進展がないと不満をもらす性急さがあるが、MJQはそのおどろくべき楽歴の長さばかりでなく、とにかく彼らの音楽内実はもう疑いなく円熟しきっているのであり、その点だけでもイデオロギーとかコンセプトとか音楽観とかジャズ理念を別にして、聴きこんでいって退屈することのないまれなグループといえるのである。他のミュージシャン達が変らないということと、MJQが変らないということのあいだには、どうやら峻別してかからなくてはならない音楽上の内面性がはっきりあるようだ。
 ぼくはどうやらニュー・ジャズ、フリー・ジャズの愛好者と思われている向きがあるが、実はそんな狭量な人間ではないつもりだ。このアルバムから今日のジャズのアクチュアリティやリアリティを汲みとろうとしても無駄かもしれないが、これはこれでとにかく楽しい演奏ぶり、音の美しさ、それに4人のアンサンブルはおどろくほどの完璧さをもっているといってよく、こうなると一種のVirtuosityが感じられて、ナンダカンダと文句をいったり、不平を述べてみたところで、しょせんはじまらず、こっちが野暮天野郎になるにきまっている。ブレイキーやピーターソンがいつも同じなのとMJQのそれとはおよそ異質なのだ。その音楽内容の充実、トーナリティのみごとさは、ジャズの主義、主張、流派、時代、状況、流行、美学をこえて、厳然と存在することの証しをこの新作レコードはよく示している。MJQはそうした変転の激しいジャズの世界で、もっともいい意味でエスタブリッシュしたグループだといえる。それも単に名声とか評判の仮象的側面ではなく、彼らのつくる音楽の実体が不動のものによって支えられている点を見逃すべきではない。
たいていのレコードには、収録した演奏曲によって、でき、ふできがめだつものだが、MJQの作品はいつも一枚のレコードのすべての演奏がみごとな均衡を示していて、一曲一曲が完成された演奏ぶりを発揮している。このレコードでも強いていうならA面の〈Aマイナーのブルース〉B面の〈Cマイナーのブルース〉が力演であり、そうといって他の曲の演奏が格別劣るというわけでは決してない。MJQの音楽がエモーションばかりでなく、理知的要素を多大にもっていることから、4人がそのときの気分やムードに支配されない確固たる方法意識をもって、よく協調し合っていることの結果といえるだろう。それといつも感心することだが、彼らのサウンドのもつフォルム感の安定ということである。あらゆる音楽家というものは、たとえ前衛派であっても、その心底に形態、形式、様式に対する志向とか信念というものがまちがいなくあって、フリーはフリーなりに独自のフォルムをめざしているものだ。その点このアルバムを一聴すればわかることだが、彼らが個々に楽器を奏して、それが無類のメロディーとハーモニーを醸成していくプロセスのなかから、MJQのまさに本命ともいえるゆるぎないフォルム感覚が生れてくるのがわかる。
 アルバム・タイトルからバッハを変に連想しない方がいい。そういうこともこのレコードの長所や美点をバッハという大樹の陰に置くことになりかねないから。ただしA面②④B面②④のBとAとCとHをつなぐとBachになるという洒落がタイトルに秘ませてあるあたりは、流石ソフィスティケーションとウィットを忘れないMJQらしい。
 とにかく演奏が終ると、心の安堵感と精神の安定をはっきりと自覚したのだから、74年3月3日の時点でぼくはMJQに大いに感謝したい気持になった。ぼくが入試疲れで体力、知力ともに弱っていたから、ほめたわけでは決してない。そして聴く前には横這い状態だった感覚が、確実にゆっくりと屹立してくるのがわかったのだった。

またまた貴重なテキスト、ありがとうございます!

興味深く読ませていただきましたが、感想は……、えーと、すいません、今日は脳味噌が疲れてきているようで、これ以上書いたり考えたりすると、血管が破裂してプシュー!となりそうなので、感想あるいは返信はまた後日ということにさせてください。すいません。
これから、疲れを取りに、階下の飲み屋で酒をかっくらってきます(笑)。

飛田野正人さんからのコメント。

複雑な心境で拝見しました。
JAZZ評論家というもののあるべき像って何なのかな?と疑問に思いました。
「自分が良いと思うJAZZの音楽の魅力を最大限に生かす」というのが仕事なのか、
「自分が良いと思うJAZZの音楽を聴きながら、そこからインスパイアされた秀逸な持論を表明」するのが仕事なのか。。。
前者は音楽論、後者は随筆。どちらもJAZZ評論家はやるべきだと言われてしまうかも知れませんが、
僕からするとそこが曖昧にされ過ぎだから、「矛盾があってもいいんだ」となる気がしてしまうのですが。
どうでしょうか?
ああ、何かでも、分からないなぁ。。。それだと窮屈かも知れませんね。

興味深いコメントをいただきありがとうございました。
早速動画のネタにさせていただきました。

回答になっているかどうかは自信はないのですが、よろしければ、御覧になってください。

永井勉さんからのコメント。

評論というものがいつから始まったものなのかよく解りませんが
私は単純にあんたがこのプレーが気に食わないなら
お前がやって見せろと言いたいです・・・
好きじゃなかったら聴かなくていいんです・・・

TAKESI0506さんからの声mんと。

「辛口ジャズノート」の鍵谷VSガトーの件はこのような記述でした。

 ある日ぼくは、渋谷のヤマハで、鍵谷幸信氏にお会いした。
 他校からもテンプラ学生が押しかけるという、慶大の名物教授、鍵谷氏は、そのころ「スイング・ジャーナル」誌に健筆をふるい、人気ナンバー・ワンの評論家だった。
 おそるおそるレコード・コンサートをお願いできないかというと、氏は快く引き受けてくださった。
 一回目はコルトレーンに決まり、氏はテーマを「求道者コルトレーン」とした。ちょうど七月で、コルトレーンの祥月だったのである。
 果たして入るかという心配をよそに、当日は時間前からお客がつめかけ、氏が到着したときには、クーラーをフル回転しても追いつかないほどの熱気に溢れた。
 満足げに解説する鍵谷氏。そしてコルトレーンのベストと氏が推薦する『セルフレスネス』の「マイ・フェバリット・シングス」にじっと聴きいる聴衆。素晴らしい雰囲気だ。ぼくはジャズ喫茶を開店してはじめての満足感を味わっていた。
 74年10月に異色作『アンダー・ファイアー』を発表、当時ひどく人気があったガトー・バルビエリの日も、客席はぎっしり埋った。立見客も何人かいた。
 その当時、ぼくはガトーにしびれていて、お客もガトー・ファンばかりだった。ところが鍵谷氏は大変なガトー嫌いだった。
 その日、氏は徹底的にガトーをこきおろした。『サード・ワールド』『フェニックス』『ボリビア』と続き、氏はうんざりした様子でレコード室のぼくにストップの合図をした。しかし、ぼくは乗っていたから、それを無視して、さらにボリュームを上げた。お客は喜び、氏は大勢のガトー・ファンにかこまれて、今日ばかりは生彩がなかった。
 レコードが終わり、「やっぱりどう聴いてもガトーは偽物です」と氏がいうと、一人の青年が「あなたには人間の淋しさがわからないのだ」と、くってかかった。「そうだ!」という声も聞こえた。
 痛快だった。
 コルトレーンにはじまり、ロリンズ、マイルス、ドルフィーと続き、ミンガスのころになると、コンサートはマンネリになっていた。
 ミンガスの日だったか、ぼくの勘違いで開始時間がずれたことがあった。レコード室に「都合により先生は遅れます」と書いて貼った。来店した氏は、それを見るなり顔色を変え、大勢のお客の前でビリッと引きはがした。氏の都合でコンサートが遅れたようなぼくの書き方に立腹したのである。
 青くなったぼくは、「先生、とにかくちょっと出ましょう」といって近所の喫茶店へ行き、ひら謝りに謝った。
 しかしぼくは謝りながら、「悪いのは確かにオレだ。でも、なにもお客や従業員の前で店主が立場を失くすようなことをしなくてもいいではないか。大学教授か知らないが、人の気持ちのわからない人だ。コンサートなんかやるんじゃなかった」と心のなかでつぶやき続けた。
 それ以来、ぼくと鍵谷氏の仲は、うまくいかなくなった。
 ある晩遅く氏から電話があり、「きみはコンサートの謝礼をいつもチラシに包んで渡すが、どういうことか」という。
 ハッと気がつき今度は素直に謝った。封筒に入れてお渡しするという社会常識が、ぼくにはなかったのだ。
 その後、何回かコンサートを行なったが、次第に熱のないものになり、いつの間にか自然消滅してしまった。
 いま考えると、「メグ」はコンサートをやめてから元気を失ったような気がする。

 聴衆や従業員の面前で恥をかかす鍵谷さんも、チラシに包んで謝礼を渡す寺島さんもどっちもどっちではないかと感じますね🥲

読みました、読みました。
懐かしい!

しかし、鍵谷先生のことを動画で何度か取り上げた後に改めて読むと、これまた新鮮な気分で読めますね。

うわぁ、鍵谷先生だったら人前で張り紙を破りそうだわぁと思いますし、寺島さんは寺島さんで、チラシに謝礼を包んでいたんだぁ、って(笑)。
で、こりゃまた怒りそうだわぁ、って(笑)。