『スイングジャーナル』の特集「本音で語ろうジャズ評論/覆面座談会PART2 評論家篇」を読んだ動画をアップしました。
コメント
高松貞治さんからのコメント。
貶そうと思って、新大河ドラマ見たんですが、最初の人物紹介のエピローグで、三石琴乃って、三石琴乃⁉️なぜ!どうして出演してるのか?三石琴乃がいつ出てくるのかそればかり気になって、大河ドラマの内容が入ってきませんでした😅さすが大声優、叱る声だけでも貫禄がある!
月にかわっておしおきよ😝
人力飛行機さんからのコメント。
jazz評論について再度の覆面座談会ですけど。他の音楽評論てあります。ロックとか。その分野のファンもいて。しかし、jazzの分野での特徴もある。例えば、海外の、そのプレイヤーの本国での評価がそのまま日本に輸入されて、鵜呑みにされるんじゃないか。つまり、海外で高評価なプレイヤーはそのまま日本にまで高評価まで輸入されて、まさしく、「これが分からなければ駄目」の基準にされてしまう。これって日本におけるjazz受容の歴史的に例外ってないんじゃないか。海外で高評価だが日本では低評価ってあったのか。私は知らないんだけど。ないんじゃないか。それってそのまんま、日本におけるjazz受容の、評論からただのリスナーまで。通ずる特徴であり弱点。なように思うんですよね。これをもっと言えば、海外で高評価。しかし日本では低評価のプレイヤーっていたのか。実は一人もいなかった。というのは、海外で高評価なら、今度は「これを分からなければ耳が悪い」となるから。で、今度はまた、海外では低評価。しかし日本では高評価。そんなプレイヤーがいたのか。これも居なさそうだ。
これが日本におけるjazzの受容の実態である。すなわち、自分の基準を、耳を、アンテナを備えているjazz評論家は、実は一人もいなかったし、実は今現在もいない。それが日本におけるjazz受容の現実である。
で、これがたとえばロックの分野ならどうかといえば、あるんですよ。典型的なのがクィーン。クィーンは本国イギリスでは人気は無かった。しかし、日本の女子が見逃さなかった。聴き逃さなかった。なのでクィーンが日本に公演で初来日した際、メンバーが驚いていた。なんで日本ではこんなに僕たちは歓迎されてるんだろう。こんなのは初めてだ。それくらい、メンバーでさえが呆然としていた。実際には、当時の日本のロック雑誌Music Lifeがクィーンを登場時から注目して追っかけていた。今から思えば、そのMusic Life編集者の耳が凄かった。アンテナが良かった。これはヒットする。って直感していたわけでしょう。
じゃあ、クィーンを、本国でさえ評価されていない時代のクィーンを取り上げたほどの、情熱とセンスのあるjazz評論家って、日本に今までいたのか?が問題になると思う。で、日本のjazz評論の現実とは、そのレベルのままなのである。ということが、実は言えるんじゃないか。というのが私などの感想ですね。
※補足として言うと。私は門外漢なので、あくまで、門外漢からの視線として読んでくれたら有難い。「いや、私は違うけどね。〇〇さんはそうだけど。彼みたいなのは困ったもんだ」みたいな(笑)感想もあると思うので。しかしいったん評価が決まってる盤やプレイヤーへの評価を覆すことは難しいということは言えるのではないか。古今東西ふくめて。それが高評価であれ低評価であれですね。私とか、逆にそういう定説&評価というのは、リスナーが安心するからjazzの分野では。安心を求めて、でますます強固なステレオタイプになり易い。すると逆にこちらみたいなのが空隙に附けこむというか。附け入り易くなるということもありますよね。
『クール・ストラッティン』というアルバムや、そのリーダーのピアニスト、ソニー・クラークの評価、というか知名度そのものがアメリカでは無いのですが(最近は「逆輸入」で知られるようになっているようですが)、日本ではジャズ喫茶やそのお客さんからは評価が高いということがありますね。
過去の動画で「粟村政昭氏はこのアルバムをどう評したか」に関してを取り上げましたが、必ずしも手放しで絶賛していた評論家ばかりではなかったようですが、ジャズ喫茶やジャズ喫茶の客といった、「現場」や「現場に集う人たちの耳」によって高評価が築かれたアルバムが『クール・ストラッティン』でした。
先日、小川隆夫氏の『ジャズクラブ黄金時代』を読みましたが、それによると、80年代初頭、ニューヨークに留学していた小川さんがジャズクラブでソニー・クラークの話をかつての共演者に話したところ、「アメリカではほとんどの人が彼のことを知らないんじゃないかな?」という反応。で、そこにピアニストのローランド・ハナ(たしか)がやってきて、「ソニー・クラークって知ってるか?」と尋ねたら、「誰?」という反応だったそうです。
また、ブルーノートの創業者でありプロデューサーだったアルフレッド・ライオンが晩年に来日した際、ブルーノート祭でソニー・クラークの《クール・ストラッティン》が演奏された際、最初の数音で観客たちが「うおぉぉ!」と歓喜の声でどよめいた。このシーンを見て、「本国と違って日本では評価されていることは聞いていたけれど、これほどまで愛されているとは」と心底驚いたそうです。
探せばまだそういう人(日本⇒有名・評価高い/本国⇒無名)はいるかもしれませんが、ソニー・クラークは、ジャズ版クイーンなのかもしれないですね。
個人的には、『クール・ストラッティン』というアルバムは、困ったことに(?)色々なジャズを聴けば聴くほど相対的に評価がどんどん上がっていく作品なんですね。
人力飛行機さんからの返信。
応答ありがとうございます。ジャズについてはほぼ門外漢なのでお任せするとして(笑)
J-POPではいまだに自然発生みたいに、批評家とリスナー双方の相乗効果だと思うけど、人気なかったのに徐々に登場時よりも脚光を浴びてくる、みたいな人っていますね。やっと耳が追い付いてきた感性が追い付いてきたみたいに。高田渡、三上寛とか。三上寛って2000年の前は彼がメインの歌手の前座で演奏しだすと会場の女性が外に出てった(笑)しかし2010過ぎに不思議な現象で、若い女性が注目しだした。女子大が三上寛を呼んでコンサート開くとか。当の三上寛が、「俺の唄って女子の前で歌えないのがあるから」と当惑してた。そういうのって、女子リスナーの感性がーまあ女子の中でもコアなリスナーであるとしてもー、追いついてきた。今は研ぎ澄まされてきた。女子が三上寛を敬遠する、が克服されて、アレが凄いとということが女子でも聴き分けられるようになってきた。女子大が呼んでるって知って私も驚いたクチですけど。
高田渡にしても、1969年からレコード出してる。でも徐々にマニアックなリスナーしかいなくなり細々と。90年代からでしょう。やっと脚光を浴びだして「あれはイイ」ってことになって。若いファンが増えだして。そのさなか2005年逝去。
あとは森田童子にしても活動は1975-1984?その後引退。1992年ドラマ主題歌でリバイバルになったんだけどその後も根強く聴き継がれ、活動再開しないまま2018年病気で逝去と報道。昨年2023年、FM東京出演スタジオライブ音源迄公式CD化・・・。私は森田童子はライブ迄行ったことがある。例の名古屋時代(笑)。1980年だった。大きい場所ではなかった。でも混んでましたけどね。意外に若いサラリーマンやOLに人気があると分かりまた意外。しかし聴かなくなり、また名前がメディアに出始めたときは新鮮ではあった。いまだにアルバムremaster。2016年に最新デジタルSHM-CD仕様で全アルバム再発。
RCサクセションがまだブレイク前。彼らの暗黒時代と言われる時代1976年にアルバム『シングル・マン』てあって「スロー・バラード」はこの盤が初出です。チャート70位くらいで結局廃盤。しかし1979年に音楽評論家の吉見佑子を中心に再発売実行委員会発足。再発。
色んな形態でリスナーや評論家の動きがあります。やっとその世界に追いついてきたみたいな。そういうのってやっぱりリスナーのアンテナが感度が上がってくるってことであろうし、大事だと思います。
「時代が追いついてきた」という作品は、音楽問わず色々な分野でありますよね。
アニメだと『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』だと思うのですが、これらの番組は再放送で火が点いてますから。
リアルタイムでの放送時は、視聴率が悪くて当初の予定よりも話数がカットされたりもして、でも、じわじわと若者たちの間の口コミなどで盛り上がり、再放送を機にブームに。これらは皆、映画化されてますし、ある意味その後のアニメ作品のテンプレートにもなっているところが随所にある。
やっぱり新しいこと、進んだことが受け入れられるには時差があるんだなと思います。
進んだ作品、埋もれた作品を「発見」したり「再評価」する層って、だいたい若者が多いですね。それか女性。やっぱり感性のアンテナが敏感なのかもしれません。
昔(今でも?)、「日経に取り上げられたらもう廃る(ブームは下り坂)」という言葉が業界内ではありましたが、ある種の権威(=新聞、そしてその新聞などのメディアが執筆や論評を依頼するセンセイ方)の目に留まり、彼らが重い腰を上げる頃には、もう「先進的」ではなく「一般的」になっているのでしょうね。
音楽に関しては、新しいムーヴメントや作品発掘に熱心なのはヒップホップの分野に多いように感じます。
なにしろ流行り廃りが速い。
また、トラックを作っている人は「ネタ探し」「音源探し」に余念がない。
あるラッパーが「この人おすすめです」と番組で紹介していたアーティストをYouTubeで探すと再生回数が一桁だったりすることもあったとのこと(ヒップホップ好きの息子の話によると)。
それほど、この世界には、まだまだ我々が知らない、気づかないだけのダイヤの原石がゴロゴロと転がっているんだなと思います。
人力飛行機さんからの返信。
ちょっと話が最初に私が提出した疑問からズレたので引き戻して。ジャズ批評における、プレイヤーについてまた盤について、定説ができやすい。一度定説ができてしまうと覆すのは難しい。歴代jazz批評のなかで高評価されてる演奏や盤を理解できるか否かがリスナーの順位。他の分野ではあまりない。他の分野ではわりあい皆好き勝手に聴いてる。しかしジャズでは。歴史のなかでの評価を理解できる。そういうことがジャズ批評家のリスナーの、採点・通知表を決めるのである・・・そういうのってある気がする。もっと言えば、この盤が高評価、この盤は低評価がもう決まってる。このプレイヤーはこういう人。がもう決まってる。
で、この「ジャズな話」の良いところとして、さもジャズの重鎮で分かってるみたいな粟村政昭を取り上げて、共感や感心もするがところどころ茶々も入れながら朗読。それでまた高野雲さんが遊んでる。そういうアプローチするところである。そういうことする人いなかっただろうから。昔なら「不謹慎」て言われたりして。でも等身大自然体でやっちゃうのがいいところだと思うんですよね。
そういう意味では私が前の動画
【雑誌読み】ジャズ評論家に物申す!!こうあってほしいジャズ評論①〜スイングジャーナルより
のコメント欄に提出した、エリック・ドルフィーへの感想も、イケてるのではないか(笑)あの人っていまだによく分からない。はぐらかすことばっかり。横に居たコルトレーンの演奏に茶々入れて「俺はそう思いませんけど」「あなたは考えすぎ」「もっと楽に生きたら?人生楽しいよ?苦しんでばかりな人生なんてやめようよ」「ホラホラ笑って笑って」って演奏でアドバイス(笑)フレーズも笑わせるフレーズしてたみたいな。でコルトレーンの方はドルフィーに言われても「いやいや!俺はそうじゃない!俺は俺の道を行く」とまた熱くなって引き戻す。そういう関係性だったんじゃない?だから対照的で違いが際立って良かったんじゃない?こんなこと言ってるジャズ批評ってあったか。いやない。ていうか高野雲さんの「ジャズの話」でないと言えない(笑)かもしれない。つまり私もまた実は「ジャズな話」らしいコメントなんですよね。無理矢理っぽい(笑)
歴史の「定説」でいうと、最近では「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」が、「いい箱(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっている話は有名ですよね。
つまり別の視点からの解釈(頼朝が征夷大将軍になった年ではなく、頼朝が諸国に守護・地頭を設置する権限の認可を後白河法皇に認めさせた年)が実質的に「鎌倉幕府成立」とみなすのが最近の定説になっている。
あと「薩長同盟」も、ある意味口約束みたいなものだから最近の歴史学者は「同盟」ではなく「盟約」が適切であろうと「薩長盟約」という言葉を使う風潮になってきているそうです。それとリンクするかのように、坂本龍馬への認識もだいぶ変わってきていて、現代にタイムスリップしてきた龍馬が「俺って結局何にもやってないじゃん(涙)」と嘆くドラマ(小河ドラマ 龍馬がくる)に、あの「龍馬命」の武田鉄矢もメインで参加していたりと(笑)、少しずつですが、歴史上の「定説」は、細かなところで、「実は今まで言われてきたことはちょっと違うんじゃないの?」という疑問と検証からアップデートされているような気がします。
「定説」といって良いかはわかりませんが、日本人の大部分が思い描く龍馬像って、ある意味「司馬史観」の産物でもあり、この「司馬史観」に関しても私が学生、いや高校生くらいの頃から佐高信や中村政則ら文化人が疑問を呈していた記憶があります。で、今では、わりと普通に「新聞に連載されていた小説はあくまで小説、史実は史実」という認識を持つ人が増えているような気がしています。
このように、少しずつですが、大きな定説という壁に、虫食い穴のように小さな穴を開ける人や風潮が少しずつ出てきて、気がつけば昔は金科玉条の如き定説も、いつのまにか、「いくつかの説のうちの一つ」にスケールダウンしていくのでしょう。
で、いうまでもなく、ちょっと前まで(といっても20〜30年前くらい前?)、ジャズの歴史や認識において、日本のジャズ評論やジャズファンのジャズ受容の際の強力なベースとなっていたのが「油井史観」だったと思います。おそらく、この動画の視聴者さんの多くがお年寄りだと思うので(苦笑)、多くの人が暗黙に「油井史観」的な視点と「スイング・ジャーナル」的なトレンド感が底流には流れていると思います。
しかし、今日ジャズを聴いている10〜30代、いや40代の人で油井正一の本を読んだ人、油井さんラジオの「アスペクト・イン・ジャズ」を聴いた人がどれくらいいるのかというと、多分それほどいないのではないかと(笑)。「誰ですか、その人?」みたいな感じで。
息子(20代前半)の友人でジャズ好きなちょっと尖った男子は、後藤さんの最近の新刊『現代ジャズ』をバイブルのように持ち歩いているとか(笑)。
時間の流れとともに、定説が「覆る」とまでは言いませんが、じょじょに効力が弱まっていくことは、分野や時代、陽の東西を問わず、ありがちな流れなのだと思います。「天動説」を唱える学者が減り、次第に「地動説」が主流になっていったように(理由⇒年寄りたちから順に死んでいったからw)
ちなみに、
>こんなこと言ってるジャズ批評ってあったか。
33年前の1991年に後藤さんが同じようなこと書いてます(笑)。
人力飛行機さんからのコメント。
ご教示ありがとうございます。(一礼)そうかあ。後藤さんが既に。ムー悔しい(笑)いやいや。俺と後藤さんは似た感性!だって私は今までそういうドルフィー観は知らなかったのに後藤さんと同じようなこと言ってた。既に言ってる。てそれ、感性が後藤さん並みだということ。ですよね♪そういうことにしときましょう❣❣やったあ!高野さん。感謝❣あ~りがとう❣(アリスの堀内孝雄みたいな調子で!)ってまあ単純な御人(笑)
油井正一の名前があったので、そういえば後藤雅洋さんの対談集『ジャズ解体新書』(JICC出版局 1992年発行)で後藤さんと喋ってたような気がして。確認したらやっぱり喋ってる。で、さぞや伝統主義的な発言繰り返してるんでは?と半分期待しながら(笑)つらつらその対談を読んでみたら。意外や意外。マイルスのことを後藤さんが振ったときに「『Bitches Brew』が出たとき、レコード会社からテープもらって聴いた。こりゃスゲエと思って」とか言ってる。おお、まだそういう段階であれの良さが分かったんだ、さすが。と思って。
あと、私。以前「ジャズな話」でBitches Brewの回があったとき、その回のコメントでヴードゥー教との関係をかなり突っ込んでるんですよね。↓あのころのサウンド作りでは怪物や異界や魑魅魍魎への嗜好がある。それだと従来のサウンドじゃなくって、やっぱりelectricな過激な音が要る、みたいな。エコーもそのeffectの一つだと。
【コメント返し】ビッチェズ・ブリューのトランペットのエコーで、後藤さんに振られて油井さんがBitches Brewについて喋ってるなかに、なんと油井さんがそのヴードゥー教との関係について、かなり喋ってたんですね。なんで彼がそこに着目するようになったかというと、当時新宿のジャズ喫茶でイベントがあって、文化人類学者の西江さんて方と評論家の平岡正明さんが対談した。そこでヴードゥー教の話が出た。そこから油井さんもヴードゥー教って何?と調べたんでしょう。
《その時の話がすごく面白かった。ヴードゥー教というのはリズムなんだ、と。森羅万象に神様がいて、それぞれの神がみな違うテーマ、リズムを持っている。だから八百万(やおよろず)の神を呼び寄せるときには凄まじいポリリズムになる。ということですね。僕は西江さんの話でそれがとても印象に残っていたんです。
で、Bitches Brewには、〈マイルス、ヴードゥーを追求する Miles runs the voodoo down〉という曲が入っていました。あれは明らかにマイルスがヴードゥーのポリリズムを意識したものなんですが、そのころジャスの世界でそんなことを考えていたミュージシャンは一人もいませんでした。》同書92-93頁まあ私とアプローチが同一ではなくて勿論油井さんは宗教だけじゃなくむしろサウンド的なところでのヴードゥー教を取り上げるんだけど、彼がそういうところに着目するっていうのはやはり感度が良かったんだと思うんですね。あのアルバムにそういう宗教的な色彩の匂いを嗅いでいた。ここは見直しました。さらに私も自分をまた見直したという(笑)
なんでその「アスペクト・イン・ジャズ」は聴いたことなかったし、やたら「巨人」とかの名称で塗りたくる表題?の元がこういう人だったのかもしれない。向こうのTVで「The Sound Of Jazz by CBS 1957」というのが、油井さんが出る日本のTVでは「ジャズの巨人たち」になる。↓
油井正一氏の解説による、ジャズの巨人たち「The Sound Of Jazz by CBS 1957」もう「巨人」が決まってる。しかし原題ではただの「ジャズの響き」ですよね。奉る感じはない。日本で輸入されると「本尊を拝む」「祭壇に祀る」が入ってる。それは間違いない。なのでこういうのが高野さんの言ってることなんだろうなと推察します。そういう時代だったわけですねかつてのジャズ受容が。
あと、jazz批評のことで、先のコメントで引用した本。後藤雅洋さんの対談集『ジャズ解体新書』における、油井正一さんと後藤さんの対談のなかで、後半に2人でこういうやり取りしてるんですよね。印象的なのでそこも引用したいんです。↓
後藤 時間が迫っていますが、最後に若いジャズの書き手に何かおっしゃりたいことはありますか?もっと古いジャズをちゃんと聴かなくてはダメだ、とか。
油井 いやいや、そういうことはありません。みなさんいいように語ってくれ、と(笑)。ジャズは自由な音楽なんですから自由に言えばいいのです。若い方には活発に議論を闘わせていただきたいですね。
後藤 僕も、もっと下の世代の人たちの思い切った発言を期待しています。さて、最後になりましたが、ジャズの未来はどうですか? (同書103頁)こういう箇所をみるにつけ、私が抱いたような危惧が、このお二人にもあったようにも見えるし、ただ好きなように好きな音楽を自由に演奏しただけの向こうの演奏家を輸入した際に「巨人」にした、御本尊にした、自己の功罪を、この頃にはやや考えていたかもしれないとも想像しますね。
じゃあ私みたいな門外漢の勝手な発言もこのお二人なら歓迎してくれたかもしれないなあと(笑)。
mingusさんからのコメント。
この記事昔読みました😃 穴蔵とか言ってましたねww ジャズ喫茶のマスター本、読みましたよ〜 寺島さんと後藤さんね 面白かった😊
「穴蔵」は言い得て妙、なんていうと、怒られそうですね、ジャズ喫茶のマスターから😅
EnjoyableJazzForOldAgeさんからのコメント。
柳沢てつやさんは、どこかの会社のディレクターの変名でしたっけ?
30年以上前でもう時効でしょうから、本名若しくは所属社の答えを明かせませんでしょうか?
うーん、分からないです…。
adlibjapanさんからのコメント。
30年前の記事だったんですね。こういう忌憚のない意見を述べ合う特集ってあまり見ないですからまたやってほしいです。