MJQの『ブルース・オン・バッハ』を辛口(トンデモ)評論家はどう評したか?

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辛口評論で当時は様々なアルバム、ジャズマンを斬りまくっていた評論家・鍵谷幸信先生は、モダン・ジャズ・カルテットのアルバムをどう評したのか?

先日アップした動画「マッコイ・タイナーを褒めたり貶したりの評論家への質問状~1976年の『スイングジャーナル』12月号」(⇒こちら)にいただいたコメントを紹介する動画をアップしました。

今回動画で取り上げた鍵谷先生がレビューしたアルバムは、モダン・ジャズ・カルテットの『ブルース・オン・バッハ』です。

まあ題材はクラシックですが、たまたま題材がバッハなだけで、わりと変わらず「いつものMJQ」を楽しめるアルバムだと私は感じているのですが、さて鍵谷先生はどう評したのでしょう?

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コメント

高松貞治さんからのコメント。

鍵谷幸信は、私にはなにを言っているのか、自分にはさっぱりわかりません。難しすぎます、というかメッチャクチャです😭

😅

2019 enchanさんからのコメント。

動画配信ありがとうございます。鎌倉オフ会で何を話そうか腐心している毎日です・・・・。前動画と合わせての感想ですが、’70年代から’80年代にかけてジャズ評論以外にもニューアカデミズムとかで、本質ではなく言葉の遊びというか知識転がしみたいなスクリプトが至る所で横行していた気がします。今になって思うとこれらの活字表現は我々にとって何のレガシーにもなっていないですね・・・(ちょっとキツい言い方でスミマセン💦)。後藤さんや寺島さんのように、どんな音楽を聴いてそれらの良い点と楽しみ方について素直に書いていただいた方が、よっぽど為になると思います。

デリダにドゥルーズ、それにフーコーでしたっけ😅
あと『構造と力』に『逃走論』😱

こんな難しいことばっか読んだり考えたりするくらいなら、ベースふりまわしてステージでぴょんぴょん飛び跳ねているほうがマシだぜ!と私を一時期パンクに走らせるに十分なご時世でしたよ、まったく😅

藤田修さんからのコメント。

ジャズ評論家という輩はどうでもいいようなことをさも大事なことのように駄文を書き、横文字を並べて人を煙に巻く輩だということがわかる良い番組でした。
音楽は好きか嫌いで判断すればいいのであってそれ以外は余計なこと。ジャズ評論家ほどジャズファンに邪魔な人間はいない。

まあ異例中の異例中の「困ったちゃん」を今回は取り上げているので、中には非常に良識があり、啓蒙に尽力されている(いた)評論家もたくさんいます(した)よ、と一応はフォローさせておいてください。

Tetsuo Nambaさんからのコメント。

これはバロック音楽ファンの間では有名な話ですが、J. S. Bach はシ♭,ラ,ド,シ(ドイツ式表記で B,A,C,H)のメロディーをもとに曲を作ったことがあります。MJQのブルース曲のキー(調)の選択はこのオマージュだと思います。John Lewis がこれを知らない筈はないですからね。鍵谷さんも批評家ならきちんとリサーチしてから書いて欲しかったです。
肝心の演奏ですが、チェンバロと絡む時のヴァイブラフォンのウオン・ウオンが曲調に合わなくて、やや下品に聞こえました。楽器のモーターを止めて、ビブラートのないクールな音にすればよかったのにと思います。

なるほど、そこはクラシックを知らないとわからないところだったんですね。

Ken Konishiさんからのコメント。

はぁ~っ。今、氏の文章を改めて聞くと、はちゃめちゃですね。変わった方だとは思いますが、評論家ですからもう少しちゃんとしないとね。ある意味鍵谷先生も全くブレていませんね。

ご指摘のとおり、はちゃめちゃという点においては全くブレてませんね(笑)。

早春さんからのコメント。

アイロニーの効いたお話、お見事でした(笑)。ミュージシャンにはブレるなと言いながら、その当の本人が一番ぶれているような…、ジャズには変われと言いながら当の本人が一番変わってないような…気がします。私はブレずに筋を通している方も、それはそれでなかなかできることではないので素晴らしいと思いますが、流動的に変化していくのもそれはそれでいいと思います。人間なのだから変化するのは当たり前だと思いますし、何年もジャズを聴いていてその基準や価値観が変化しないのもそれはそれでつまらないことだと思います。まだ若いからというのも大いにあるとは思いますが、私はジャズを聴く中でその基準は大きく変化してきました。リー・モーガンにカッコよさの定義を学び、ソニー・クラークに皆さんのようなマニアックな味わい方を学び、パーランにアーシーさとは何たるかを学び、ジョン・ルイスやコールマン、ドルフィーにジャズ的スノビズムとエロティシズムを学び、ドン・バイアスやゴードンにその気品を学び、パーカーやバドにジャズの疾走する狂気を学び、モンクやマリー・ルーにその奥深さを学び、ジョー・ヘンダーソンやエリクセンにその虚しさを学びました。価値基準は勿論、好みや音楽に限らないもっと広い意味での価値観も変わりました。具体的に言えばより珍味なものに惹かれるようになったというところでしょうか(笑)。鍵谷先生の文章を読んでいると、好みで判断しているのに他のミュージシャンを巻き添えにしているところに反感を覚えます。私も6〜7割くらいは好き嫌いで評価していると思いますが、他のミュージシャンについて言及してもこき下ろすようなことはしていないと思います。言及するにしても、A氏のXというところはB氏のYというところとは違って、むしろC氏のZというところとに近いと思う、というような言い回しをしているつもりです。好き嫌いではない、もう少し歴史的・時代的な視座から物を言う場合はこれに限りませんが、大方このやり方に収まらせているつもりです。好き嫌いはそれ自体が資本主義によって商品化される、すなわち評論(というよりは感想か?)としてジャケ裏や書物に載って体を成すことはあっても、あくまで非常に個人的なもの、個人が勝手に抱くものなのでそれによって他人を貶すのはいささかナンセンスなことだと思います。しかし一周回って考えれば、評論家といえども一人の人間なので、変なことを言ってるな〜と思えば馬耳東風然として忘れてしまえばいいかな、と思いました(笑)。長々とすみません。

>より珍味なものに惹かれるようになった
正しく酒飲み(あるいは変人)の道を歩まれているようで頼もしいと思います!(笑)
将来は、共に山海の珍味などをつまみながら酒を酌み交わしたいですね。

TAKESI0506さんからのコメント。

またまた、取り上げていただき感謝します。
 今までコメント欄に載せた鍵谷さんの文章は、全て以前にデジタル化してあったものをコピペしたものですが、電子化するには雑誌をスキャンしてOCRソフトにかけて間違いを手直しするということが必要で、そのような面倒な手順を踏んでまで鍵谷さんの文章を電子化するということは、鍵谷さんの文章には、その内容はともかく、何か人を引き付けるものがあるのではないかなどと思っています。
 これは寺島靖国さんも「辛口ジャズノート」の中で指摘してます。

 鍵谷さんは「スイング・ジャーナル」を皮きりに、ほうぼうのジャズ雑誌や文芸誌附独特のジャズ論を書きなぐり、ぼくはそれがけっこう好きだったのだ。才気煥発、いかにも行間からジャズが聴こえてくるような錯覚をおぼえた。
 だが、評論するには、鍵谷氏はあまりにジャズを知らなすぎた。知らないというよりわからなかった。ビートで身体が自然に揺れ動く、ジャズ・ファンなら誰しもおぼえのある、あのスイング体験とは無縁であった。
 しかし、エセ評論家にせよ、氏の文才については、どんな評論家も敬意をはらわざるを得なかった。わからないはずのジャズについて、よくもまあ、あれだけの量の文章をこなせるものだといって感心した。氏は、人をはじく力も強かったが、人を寄せる力も強大だった。ジャズ界が、この吸引力を利用しない手はなかった。日本のジャズ界は、惜しい役者を失った。

 話はかわりますが、MJQの「バッハとブルースを基に(ブルース・オン・バッハ)」は、スイングジャーナルの「話題の新譜四つの意見」にも取り上げられて、野口久光、中野宏昭、増田一郎さんは鍵谷さんと同様絶賛してますが、クラシック音楽評論家の黒田恭一さんのみは苦言を呈してました。

この青白い繊細さがぼくをいら立たせる
 フンンチ・ドレッシングでさえ、オリーブ油と酢とを、よくかきまぜなければならない。バッハのふしをつかったナンバーとブルース風なナンバーとがならんでいるだけのことだった。その両者、ただ並んでおかれているだけで、相互の音楽的な呼応は、ついにきくことができなかった。なにがなにやらさっぱりわからなかった。きいてどうだった? ときかれれば、つまらなかったと答えるより他に手がない。しかもここでの「バッハを基に」したナンバーで聴かれた衰弱した気配に、目をつむることはできない。かつてのジョン・ルイスたちが、バッハ(や、パーセル)をおのれの世界にひきこむにあたって示した力強さは、ここにない。バッハに対してひどくおよび腰だ。そのために、音楽をたのしむ前に理屈がみえてしまう。音楽における理屈は、能ある鷹が隠すべき爪ではないのか。「バッハを基に」したナンバーが、B, A, C, Hのブルースをサンドウィッチにしている構成を、なるほど高踏的だと感心できるほど、こっちは素朴じゃない。ことさら目あたらしくもないことを、それこそいきがってこれみよがしにぬけぬけと行っているのだから、きいていてしらけざるをえない。しかも、かつてのスイングル・シンガースと共演しての「ヴァンドーム」に聴けたような、音楽的な確実さもないとなれば、聴者はさて、どこでこのレコードからきこえる音楽をたのしむべきか。つまり、きき方に困る。高踏的ムード音楽と思うには、理屈が目ざわりだ。個々の瞬間ではたとえば〈Aマイナーのブルース〉などでは、きいていてどきっとすることもなくはない。しかし残念ながら部分での充足は部分での充足にとどまり、全体に対していっこうに奉仕しない。そして全体をきき通しての印象は、白魚のごとき指先で、おっかなびっくりくみたてられたガラスの城を見たときのそれに似る。このあおじろい繊細さは、ぼくをひどくつかれさせた。自閉症のむなしさといってもいい。

いつもいつも旬な(?)ネタを投下してくださってありがとうございます。

私のこのアルバムの感想は動画で述べたとおり「いつも通りのMJQのサウンドやな~」程度のもので、《朝日のように爽やかに》というテーマをアレンジして取り組んだのと同様、今回は、たまたまテーマがバッハだったのね、くらいの認識で聴いていました。

つまり、MJQありきのバッハで聴きましたし、きいています。
MJQがたまたま選んだ素材がバッハというか。

聞いているときのモードは完全に、

MJQ>バッハ

でした。

しかし、クラシックの専門家となるとそうはいかなくなるんでしょうかね。
完全に、バッハありきの演奏者、バッハありきのMJQ批評となっていますもんね。

バッハ>MJQ

もちろん自分の知識や、これまでの鑑賞経験が批評の軸(ベースト・オン・自分)になるのは当然のことなんですが、重たい知識に鎧われた結果、MJQ独自のサウンドを楽しめないのであれば、そんな知識はなくてもいいやと思いました。

いや、それどころか、(言い方失礼ですが)たかだかアトランティック・レーベルお抱えのグループが発表した企画モノ1枚を前に、
「きき方に困る」
「どこでこのレコードからきこえる音楽をたのしむべきか」
「ぼくをひどくつかれさせた」
などとボヤいているようでは、
いったいこの人は、どんだけ繊細やねん、どんだけ深窓の令坊っちゃんやねんと思いますね(笑)。

穿った読み方をすると、自分の知識の答え合わせ(とアピール)の材料にMJQのアルバムが利用されているようにも感じます。
「俺だってこれくらい知っとるわ、クラシックでは常識だよ、ジョン・ルイスさんよ、あんたも浅いのぉ」と揶揄をするスタイルで蘊蓄たれとるじゃないですか(苦笑)。

こっちのほうが「リアクションに困る」し、「ひどくつかれ」るわ~な論評でした。

永井勉さんからのコメント。

モンクからジャズに入った私はMJQは何か苦手でした・・・
完璧なアレンジと毒っ気のないその演奏は
ジャズという括りではなくイージーリスニングという
音楽だと勝手に思ってました・・・m(__)m
しかし今日 MJQのDjangoと ジョーパスのDjangoを聴きました・・・ 凄い名曲じゃないですか・・・m(__)m
MJQをなめていました・・・m(__)m
アドリブで音楽を構築するのもジャズの楽しみでありますが
エリントンとかMJQのように完璧な楽曲のアレンジを聴く
という楽しみ方もありだと思います・・・m(__)m

博 橋本さん⇒永井勉さん

永井さんこんにちは。
こんなミルト・ジャクソンが大好きです。試しに観て下さい。
ペデルセンも結構親父になってます😃

永井勉 さん⇒博 橋本さん

動画紹介ありがとうございます・・・W
ミルト・ジャクソンの動画は初めて
だったんですがあの柔らかな音色からは想像もつかない
くらいの強い打撃なんですね・・・m(__)m
カチン!という打撃音の後にふわ~っと音が浮かび上がる
感じなんですね・・・m(__)m
気をつけてミルト・ジャクソンの音源を聴いてみます・・・m(__)m

博 橋本さん⇒永井勉 さん

MJQのメンバーとして極めて静謐な演奏をするとしても、その演奏の裏付けにあのマレット捌きがある事を思うと、ちょっと感激です。
もうお聴きかも知れませんが『MJQ ヨーロピアン・コンサート vol.1, vol.2』
1960年のストックホルムでのライヴ集です。
名曲の名演揃いだと思います。

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