影響を受けた5人のジャズ評論家

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私の「ジャズ観」を形成する上で、強烈なインパクトを与えてくれた5名のジャズ評論家についてお話しした動画をアップしました。

後藤雅洋氏、中山康樹氏、村井康司氏、油井正一氏、市岡仁氏の5名の評論家です。
番外編として寺島靖国氏についても語っています♪

EnjoyableJazzForOldAgeさんからのコメント。

私も油井先生にジャズ人生を決定づけられました。
油井先生にお会いしたくて大学を選びました。
油井先生に連れられてホットクラブオブジャパンに通ううち、市岡仁さんと知り合いました。
市岡仁さんは、あれだけジャズを研究されていながら本業の鳶職を捨てずにいらした稀有な方でした。
ジェリー・コーカーと文通され、自らクラリネットもご吹奏されていました。
小田急線の駅で偶然ご挨拶した数日後に急逝されたのには本当に驚きました。
御父君は書道の大家でした。

人力飛行機さんからのコメント。

はあ。後藤さん。「100枚聴くまでは好きだの嫌いだの言うのではない」はまあ意図はわかるんですが。なにぶん忙しい(笑)色んな本も読みたい。他分野の曲も聴きたい。映画も視たい。動画もチェックしたい。でジャズだけ聴いてるわけにはいかない。ジャズだけ聴いてるわけにはいかない人はどうすればいいのか。私は勝手にするしかない。後藤さんの店には顔は出さない、で良いのではないか。と思っています。ちなみに私も後藤さんの対談集『ジャズ解体新書』昔読んで、楽しかったんですが、後藤さんの発言でこれは違うな、と感じる個所もありました。最後の加藤さんとの対談のなかで。なので私はまあ弟子にはなれないということで。

『ジャズ解体新書』は面白かったですね。

で、加藤総夫さん。
鋭いですからね。理論も知識も豊富。理路整然と話され、とても分かりやすい。
講談社のセロニアス・モンク特集の本の中での対談でも、後藤さん、押されている感がありましたから(あくまで私の感想ですけど、バイトでその現場にいた私としては、遠巻きに聞いていただけですが、その時の空気は、なんか後藤さん、けっこうムキになっているように感じました)。
まあ対談はバトルではないので勝ち負けでは判断してませんが、考察の深さの違いが如実にあらわれたカタチとなった感はありましたね。

人力飛行機さんからの返信。

お返事ありがとうございます♬ええ?後藤さんと加藤さんの対談の席上に立ち会ったことがある・・・うらやましいような。ちょっぴり遠慮していたいような・・・おっかない(笑)あの本。最後の加藤さんとの対談が一番緊張感があって、読むほうもがんばって考えながら読むような、感じがありました。あとの対談はでも読んでて楽しい対談ばかりでしたねー最初の対談で村上寛さんて方がいて。村上さんはご自分でジャズのCDを制作もしてるとか喋ってて。片山弘明というサックスの人のCDを作ったことがある。で、それが海外のジャズ雑誌の年間ランキングに入ったことがあるとか。片山弘明て方。どっかで名前聞いたことがあると思ったら、かつて1980年代にRCサクセションのバックで梅津和時と一緒にホーン・セクションやってた人なんですよねーRCのライブ盤にも参加してRCのTV出演も同行して。まさかそういうソロCDも出してた人だったとは・・・昔初めて読んだときは気づかなくて最近読み返したときに気づきました。

立ち会ったというより、その日のシフトはフロアだったので、オーダー取りにいったり、飲み物や食べ物を運んだだけでしたけどね……。
まあ空気はピリピリしていましたよ。

ちなみに、あの本でいえば細川周平氏の「ジャズは鼻垂れる…(いや失礼)放たれるか」の対談の時も店にいました。この時もフロアで、細川氏が後期コルトレーンが良いといったあたりから(たしか『インターステラースペース』だったかな?)空気がおかしく(?)なりはじめて、コルトレーン批判、というよりコルトレーン好き人間批判に話題が流れていったような気がします。

最近はコルトレーンやコルトレーン好きに対しては寛容な後藤さんではありますが、当時(出版デビューしたての頃、具体的には『ジャズ・オブ・パラダイス』『ジャズの名演・名盤』『ジャイアンツ・オブ・ジャズ』の頃)は、かなり尖っていましたし、自らの立脚点を「俺はパーカー(⇒スマート、開放的)、コルトレーンあるいはコルトレーン好き(⇒野暮、閉鎖的)」という軸足で評論を展開させていましたからね。だから、細川さんがコルトレーン、それも後期コルトレーンが好きといったところでスイッチが入っちゃったんでしょうね(笑)。「わっ、地雷踏んじゃったな」ということは、店の空気がDm7からE♭m7に変化したことは明らかに感じました(《ソー・ホワット》かいw)。

でも、後に出版された本を読むと、その時の空気感とは異なり、細川さんは鮮やかに切り返しているなと感じ、興味深かったです。
たとえば、うろ覚えですいませんが、要約するとこんな感じ。
「(ビ・バップとフリージャズを比較して)ファン同士は論争するのは構わないし、SP片面3分でかたをつけなくちゃならないビ・バップと、何時間もグダグダと演奏するフリー・ジャズでは、ビ・バップのほうが粋だってことぐらいわかっているよ、でも、本質的には粋か野暮かって問題じゃないよね? 自分は興味がない。3分で完結する表現もあれば、何時間も要するものもある。そっちのほうが重要だと思う」
このあたりのところですね。
パーカーという印籠を掲げて、粋か野暮かに拘泥する後藤さんの姿勢のほうが、かえって野暮なんじゃない?という皮肉がこめられた軽やかなカウンターパンチが何発か鼻垂れ…(いや失礼)放たれていて、これを読んだ時は痛快に感じましたね。
と同時に、リアルタイムで交わされていた対談の空気と、編集され活字となったものを読むと、まったく印象が違うことにも新鮮な驚きを感じました。ライヴとライヴ盤の違い、みたいな?
このあたりからですかね、私が編集に対して本格的に興味を持ち始めたのは。ちなみに『解体新書』の編集者は、私が書いた本の編集者でもあります(笑)。
やっぱり出来上がった本を改めて読むと、自分が執筆していた時のテンションとは微妙に違っていて(良い意味で)、具体的にはどこがどうとは言えないのですが、その編集者のテイストがごくごく微量にブレンドされているように感じました。やっぱり敏腕編集者は違うなぁなどと思ったりもしました。ジャズでいうと、名プロデューサーの手にかかると、発売されるお皿には、そのプロデューサーのテイストも宿っているのと同じようなものなのだろうと思いましたね。

人力飛行機さんからの返信。

はい。うーむ面白いですねーお話読んでて色々考えさせられました。たしかに言われてみて読み返すと、細川さんとの対談では「俺はパーカー派。あなたはコルトレーン派。パーカーは純粋に音を発する。コルトレーンはそこに信仰、思い込み、を入れる。パーカーの方が純粋だ。また、俺の方が正しいジャズの聴き方」というのが来てますねー(笑)細川さんは「わかるけど、私は私で好みがあるんです。神がかってるのを感じさせるのが好きなんです」みたいな。で、私とかが今俯瞰すると、どっちもありでいいじゃない、と(笑)リスナーの好みだし。それに細川さんも、「どっちもありです」て言ってるし。ジャズに限らず、メッセージがこもってる音、あんまりない音。結局どっちも聴いてるし、なんですよねーどっちも肯定したい。まさしくどっちも聴いてます!でもメッセージありなしに関わらず、これかなり好きかもリピートするかも、これは普通かなあーあってもいいけど2度は聴かないかも、これはもうわかった、とかもあるんですよねー不思議なことに。でもだからこそリスナー!という。先の細川さん対談に戻ると、後藤さんのほうが相手の趣味を認めない分、狭量にみえますねーその意味では。細川さんのほうが寛容。この『ジャズ解体新書』て本の今開いてチラチラ感じる狭量さがある。あの後藤さんの姿勢では、「思想がなきゃいけない」と排他的に成るのと似て非なる、逆の排他性が出てきてしまう。その意味ではこの本もまた日本ジャズ批評の歴史的な1冊ではある。気はしますねえ。「最近はコルトレーンやコルトレーン好きに対しては寛容な後藤さん」ということで、よかったと思います(笑)

書籍デビュー以来、基本的には一貫して筋が通り続けている後藤さんだと私は思ってますし、だからこそ私は後藤評論が好きですしアルバイトまでさせていただいたくらいなんですが、その太い一貫性は保ちながらも、各論というか細かなところでは、年月の経過とともに変化も感じられます。

ま、一言で言うと「丸くなった」。
それも良い意味で。
つまり、丸くなったというのは店でおこなれる講演会で様々なジャンルのイベントを重ねていくうちに視野が広がり価値の多様性をいままで以上に認める感性になってきたんだと私は感じています。
なんだかエラそうですが……(苦笑)。

根は頑固おやじだと思ってますが、気質は変わらずとも、守備範囲の頑固の領域は年齢とともに拡がっているように感じます。

それと、たくさんのテナーサックスの新人があらわれ、皆テクニックはあるし、手法も進化もしているのかもしれないけれども、結局コルトレーンほど強烈な「個性」を持つテナーサックス奏者ってそんなに現れていないよねという思いから(最近はカマシ・ワシントンをとても評価していますが)、相対評価でコルトレーンの位置づけが上がってきているんじゃないかとも感じています。

人力飛行機さんからの返信。

了解しました(笑)しかし、後藤さんの変遷について間近にいた目線から伺っていて。ジャズってimprovizationが聴きものの分野で、ジャズ評論はその分野を論じるんだからかなり自由だと思いきや、あにはからんや、とでもいおうか(笑)けっこう不自由でもあるんですよねー後藤さんがあの対談集が出た1992年まであの聴き方であった、で。でもその後、徐々に変わっていかれたのだと。傍にいらした方が回想なさってる。彼は1947年生まれ。あの対談集のときには44か45歳。それであの偏屈さを維持されていた、てそりゃ敬遠する人いたでしょういても仕方ない。大御所でしかも偏屈ときたら近寄る方が御人好しでしょうという。わざわざ釣られに来るお魚と一緒ですもの。食われるのわかってるし。それでお店がでもずっーとあったというのも凄いですよねー考えてみれば(笑)それだけ信頼もされていたことの証だろうけど。まさに高野さんがその張本人。どういうふうにずっと視ていたか。いやあ面白い。あと私、チャーリー・パーカーってよく知らなかったんだけど。さっきYouTubeで検索して聴いたら、1曲短いねえ(笑)3-5分が多い。Charlie Parker on dialとか。すごい助かります。私は根気ないんで。これは聴きやすい。気に入った(笑)ジャズってとにかく1曲長いという先入観あったから。これは後藤さんが好きな理由とは違うかもしれないけど。青春時代のマイルスも沢山共演してるし。パーカー気に入りました!

>ジャズ評論はその分野を論じるんだからかなり自由だと思いきや、あにはからんや、とでもいおうか(笑)けっこう不自由でもあるんですよねー

まあそれは仰るとおりかもしれません。
これは評論側もそうだし、読み手(聴き手)にもそのような「暗黙の了解」的な空気があったような気がします。

それは誤解を恐れずに一言でいえば「勉強してからモノを言え」「勉強せん奴はモノ言うな」。
学歴社会からくる受験競争社会がもたらした弊害というか、「テスト社会ニッポン」の申し子的な考え方が「あの人はジャズを“わかって”いる」「あいつはジャズを“わかって”おらん」という言葉に代表されるように、ジャズファンを区分けし、値踏みする目線を形成したんじゃないかと。もちろん、これは私の推測ですが……。

だからこそ、粟村政昭氏のような医師であり博学でありながらも偏屈頑固几帳面な評論家の「信者」さんは現在も一定数おられますし、書いていることが自分でも分からないんじゃないかと思うほど難解な用語を縦横無尽に振り回していた大学教授(助教授?)の鍵谷幸信さんも一時期「ジャズ論壇」上を賑わせていたようです。

「朝まで生テレビ」が如く『スイングジャーナル』誌上で行われていた評論家同士の「デスマッチ」が人気を博したのも「ジャズを学ぼう」という気持ちよりも、読者にとっての興味は「どっちが頭良いか」「どっちが議論に強いか」だったからでは?と睨んでいます。

良きにつけ悪しきにつけ、70年代のジャズ評論の世界と読者との関係は「暗記至上主義が生み出した知識コンプレックス」が根底にあったのではないかと思います。
窮屈な人は窮屈だったと思いますよ。
だから、やがて風穴が開いた。寺島靖国氏の『辛口ジャズノート』で(笑)。
この本が出たのは1987年。
その少し前は、浅田彰をはじめとした「ニューアカ(デミズム)ブーム」だったので、まだ「知的な感じ」がファッションであり、カッコつけのアイテムでした(笑)。
ようやく、それが収まりかけたところに、「バカを装った快刀乱麻」のごとき、無邪気かつ傍若無人なジャズエッセイに、窮屈していた多くのジャズファンの心に風穴が開いた。なーんだ、蕎麦は汁をたっぷりつけて食ってもいいんだって(笑)。だから、ベストセラーとなった。いまだ、あの本を超える部数の「ジャズ本」は出ていないようです。

で、私がジャズを聴き始めるようになったのは、その後の出来事なんですね。
妙な勉強カースト制度が崩壊しつつある時代に、私はジャズに興味を持つようになった。だから、浪人時代、学生時代はいろいろなジャズ喫茶に通ったものですが、ずいぶん明るく開放感がありましたよ。話に聞くような「客同士の喧嘩」「客に説教するマスター」みたいな光景は見たことありませんでした。
「学生運動してて、ヘルメットかぶって火炎瓶を投げる人たちが集うジャズが流れる浅間山荘」という私が勝手に抱いていたイメージとは180度異なるアッケラカンとした空間でした。

学生時代の私は、そのような健全かつフラットな空間(70年代に比べれば)でジャズに入門し、ジャズを覚えていったのかもしれません。大きなトラブルやトラウマになるような出来事もなく、クセのあるヘンな人との出会いもなく、平穏無事かつ雲行雨施でありながらも、逆に言えば刺激のない退屈なジャズ入門時代だったのかもしれません。

しかし、そういった学歴偏重主義、あるいは知識コンプレックスが根底にあるジャズ帝国主義者たちが絶滅したというわけではなかったのですね。
「残党」がいたのです。
90年代には息をひそめていましたが、2000年代に息を吹き返し、各拠点への攻撃を開始した!(笑)

~つづく(気が向けばw)

それは良かったです😊
>パーカー気に入りました!

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人力飛行機さんからの返信。

丁寧なご説明ありがとうございます(一礼)。しかし伺ってて、私一人が読んでいるのも惜しい感が漂ってきたというか、この話。高野さんによる、いわば“私的ジャズ史~1987年にはじまる”みたいなテーマで、1冊書いていただいたら面白い本になりそうに思います。それこそ宝島社かジャズ批評(笑)ひょっとしたらもう書いているとか・・・不勉強ですいません。その、ニュー・アカ時代が経過した後にジャズを聴き始めた世代によるジャズ史。てあまり読んだことないし。ジャズ批評旧世代をどう見ていたか、どう関わっていたか。今度は2000年代に入って新たに出てきた世代とはどういう世代だったか。2000年以後の世代とのかかわりはどうなっていったか。菊地 成孔さんとかですよねきっと。あるいは柳樂光隆さん。高野さん世代とその後の世代の共通点とか、菊池さん柳楽世代について、どう見えているとか、きっとそういったことって、日本ジャズ史でも書かれたことないように思うし、それこそ後藤さんや村井さんの世代も明確には知らないだろうし。面白いと思いますけど。とにかくとても興味深い話ありがとうございます。

熱かった時期をリアルタイムで体験(体感)していない、いわゆる「メタ化目線世代」なんですよね、我々は。
だから、小頭良く(小ズルく?)総括は出来るけど、どこか迫力無く線が細い。……ような感じがします。
リアルタイム体験世代が持つ特有の「野暮ったい不器用さ」みたいなものがなく、まあそれは世代の違いだから仕方ないのですが、「野暮ったくなんだか不器用」な感じは、愛すべき鬱陶しさでもあり(笑)、やっぱりそういう人たちが発する言葉の迫力にはかなわないだろうなぁという思いは常にあります。
「かなわない」と書くと、勝負しているような感じになっちゃいますが、張り合うとか、そういう気持ちは全然ありませんけど(笑)。

人力飛行機さんからの返信。

>小頭良く(小ズルく?)総括は出来るけど、どこか迫力無く線が細い
と聞くと、またまた上原ひろみのことを思い出すんですよねえ(笑) 何でもできる、大御所からも認められている、人柄もいい、可愛い、て非の打ち所がない。非がないのが逆に不満を感じる(笑)。健康的でバランスとれてる。偏ってて時々精神のバランスを崩してるほうが親しみが持てる。ていうのはありますよねえ。あーゆー感じだとなあんか悪口言いたくなる(笑) 高野さん的な“私的ジャズ史~1987年にはじまる”だと、上原ひろみの擁護者、というポジションが似合うようにも感じるんだけど、実はあんまり興味はないようで(笑)意外なんですが。先の呑み会でもあんまり皆興味がない。それは思うに皆、年齢が高いせいだと思いますけど。60歳前後の人が多くて、1970年代からジャズ聴いてる人が多そうだったでしょう。若い世代もいたけどあんまり主張してなかったように感じるんですけどね。若い世代が「上原ひろみ素晴らしい」とか言ってたら面白かったですけど。
世代的にいえば、しかし高野さん世代というのは家庭内暴力とか、あるし今でも続いてる。その後になると、引きこもりが増加してて高年齢化してる、親が家庭内暴力で手が付けられない子を殺す、佐世保で小学生が同級生を学校でカッターで惨殺、イジメも自殺まで追い込む、神戸の中学生が幼児を殺す、守護神を信仰してそれへ生け贄だったとわかる、教師はワイセツ行為で捕まる、障碍者いじめで有名な(笑)小山田圭吾が1969年生まれで高野さんと同世代だし、荒れてないわけではないんですよね。後藤さんたちの時代はまだそういうのはなかったからまだ良い時代といえば言えた。ただ今は荒れ方が内向してる。内向してて噴出するときは歯止めがかからなくて逆に陰惨。内面が陰惨なところで表現も陰惨なシーンとか出てくるかと言えば、2000年以降の生まれの人とか、まだ出てない様に感じる。まああっても倫理委員会で引っかかって出せないのかもしれません。
で、マイルスが今でも人気がある。それは実はマイルスには血の匂いがあるから、というのが私の持論なんですけど。血の匂いというのは具体的に、ジャケットに血が飛び散ってるように見えるジャケットもある。Bitches Brewの裏ジャケットには血が飛び散ってるんです。

 

人の顔に、明らかに赤い飛沫が飛んでる。これは生き物の血にしか見えない。何か人か動物を殺した跡にしか見えない。で、あのアルバムにはMiles runs the voodoo downという曲がある。直訳すると「マイルスはヴードゥを追究する」という意味なんですね。でヴードゥというのはアメリカ・インディアンの土俗宗教で、狂熱的な演奏のなかで踊り狂うそして動物の生け贄を神に捧げる。そういう儀式がある。あのアルバムにはPharaoh’s Danceという曲もある。Sanctuaryというのは聖域すなわち侵してはならない踏み入れてはならない場所のこと。これも宗教的な言葉です。古代エジプトでは王(Pharaoh)が死ぬと、一緒に召使も自殺もしくは殺されて棺に入る、とwikipedia にある。またジミヘンの曲にもVoodoo Childて曲があって、コンサートの後半で必ず演奏された。ジミヘンとマイルスは未開宗教への関心というところで共通してたんですね。Bitches Brewには未開宗教というのが重要なモチーフとして入ってるのは間違いない。あるいは生け贄の儀式ですね。そこで音楽が大きな意味を持っていたことがそのまま引き継がれてる。そういうところもマイルスが今的である理由の1つに思えるんです。
神が宿ってるみたいな演奏はありますけど、マイルスやジミヘンの神は、生け贄を求める神。だと思いますね。

上原ひろみには、まったくといっていいほど興味がないですね。
何度か「可愛い」というフレーズが出てきているけど、まったく可愛いとは思わない(ま、これは好みの問題ですが)。

とても上手だと思うし、オリジナリティも感じるんですが、正直、あんまり刺さる要素がないんですよ。ま、これも好みの問題なんですけど。

とはいえ、一時期、私より10歳近く年上の友人が上原ひろみの大ファンだったので、当時発表されていたアルバムすべてを買い、しばらくの間集中聴きをして、ラジオ番組にもその人をゲストに呼んで上原ひろみの魅力を語ってもらったことはあります(何しゃべったか、まったく覚えてない・汗)

その時の音源は残っているので、著作権の関係で音楽の部分は抜いて再編集したものをメンバーシップ動画にアップしてみようかなと考えているところです。

仰る通り、表面化していないことは沈静化しているとは限らず、むしろアンダーグラウンド化していることが多いですね。エネルギーが向く方向が変わっただけで。