アルバート・アイラーこそ革新者だ。コルトレーンなんて歌謡曲なんだ。高柳昌行『汎音楽論集』より。

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高柳昌行『汎音楽論集』(月曜社)に転載されている『JAZZ LIFE』1983年11月号の記事「アルバート・アイラーこそ革新者だ。コルトレーンなんて歌謡曲なんだ」を紹介しています。

コメント

長谷川孝二さんからのコメント。

なんだか色々言ってますね高柳さん(笑)。
この人は少なくとも深く洞察出来る人ということはわかります。
しかし、音楽は聴く人間が良いと思うかつまらないと思うかなので、人の聴き方や感じ方を見下すみたいな言い方に傲慢さを感じますね。
高柳さんの演奏を尊敬してる人はともかく、演奏を良いと思わない人からは「自分はどうなんだ?」って言われると思う。
「歌謡曲」を連呼していますが、「歌謡曲好き」を馬鹿にしていますね。
みんなが高柳さんが納得するタイプのミュージシャンしかいなかったら、堅苦しいつまらない世界になると思いますね。

自分に厳しい人は、人には3倍厳しい
……って誰かが言ってました(笑)。

長谷川孝二さんからの返信。

それって日本語として変です(笑)。

人に3倍厳しい=人に対して自分には3分の1厳しい。
つまり
自分に3分のI厳しい=自分に甘いってことですよ(笑)

つまりは、そういうことです(笑)。
>自分に甘いってことですよ(笑)

一見、「オレは自分に厳しいんだ!」という態度や自己申告しているような人ほど、実際は自分に甘く、人にはやたら厳しいんですよ~ということを言いたかったんですね。

長谷川孝二さんからの返信。

なるほど(笑)。
遠回しで粋な言い方ですね(爆)。

ありがとうございます♪

高松貞治さんからのコメント。

あー😭高柳昌行の本、汎音楽論集、アマゾンでとうとう、25000円になってる!誰だよ、本買った奴は😭どう考えてもこの高野雲さんの動画見たやつだろー😭

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今度、実験的に20円ぐらいで出品されている本(あるのかな?)を、大々的に持ち上げる動画を作って、価格の動きをみてみましょうか?!(笑)

くまが集う喫茶店さんからのコメント。

この感覚ってロックに例えると
最初はビートルズやストーンズ
ジミヘンが好きだったけど
後に出て来たハードロックや
パンク、オルタナロックを
聴いて

『こっちの方がキテるわ!』

とハマってしまい
以前好きだったロックでは

『もうかったるい、物足りない』

のに似てますねw
(^o^;

刺激を求めてしまい
味覚がどんどん激辛寄りに
なってしまうと言う
僕もこう言う傾向があるので
(^o^;(笑)

高柳さんのこの心情が判ります
(^^ゞ

私も刺激求める激辛野郎なので、自分が面白いと思ったことをニコニコと追求していたら、いつのまにか変態度が増してきており(自分ではそれに気付かない)、ふと我に返ると周りに人は誰もいなくなっていた……、みたいなことあります(笑)。

イヤダローさんからのコメント。

コルトレーンは歌謡曲(笑)。挑発的なタイトルですね。

アイラーの支持者は、中上先生もそうですが、全共闘世代の熱い方が多いのでしょうか。

アイラーも早逝ですよね。悲惨な死に方をしています。

>全共闘世代の熱い方が多いのでしょうか。
世代的にそうなのかもしれません。
よくわからないけど……。

TAKESI0506さんからのコメント。

この高柳昌行という人は、私がスイングジャーナルを読み始めた頃には既にディスクレビュー欄を担当していて、鍵谷さん同様“なんとまた難解な文章を書く人やなあ”と感じたのを覚えてます。ただ、鍵谷さんの文章よりもっと難解で、意味がわからない部分が多かったようです。
 歌謡曲や漫才を引き合いに出すのは軽蔑の対象としているのでしょうが、私は歌謡曲も聴くし、お笑いは大好きですが、これらがジャズより低級などと感じたことはありません。

『汎音楽論集』の中に入っていれば僭越ですが、70年代初頭のスイングジャーナルに載ったマイルスの『ライヴ・イブル』のレコード評を載せておきます。評点は2星でした。

 音楽の根源的なるものに対するデヴィスの問い掛けは、めくるめくその変貌と共に、聴く者の胸に力強いプレイを通して楔を打ち込んだ。ロック・ビートを中心とし、しかも従来のそれとは全く異った発想からなる、極度の精神的・肉体的緊迫感は、ともすれば確信のなさから一人よがりに走りがちな前衛を気取るプレイヤーを片隅へ追いやり、高らかにそのテーマを謳歌する。第1枚A面の<リトル・チャーチ>、B面の<ネム・ウム・タルヴェス>、第2枚A面の<セリム>など、東洋的な雰囲気に深遠なる東洋哲学を示唆し、幻想的な東洋と一変したパワフルな、爆発的なエネルギーが聴かせどころの曲との対比が見事である――などと聴く向きもあろう。が、知名度、解説を離れ自分自身の耳と感性を以って触れた場合、極彩色ケンランたる造花の、埃にまみれた態を目のあたりに見るごとく、ものの憐れを感じさせるに充分である。ハッピーな、あるいは冷酷なライトの中に、自然の光りを置き忘れ、あっけらかんと失ってしまったものへの名残りも見せず、そんな自分をなおも売場にさらしている手を触れるまでもなく、香りを確かめるまでもない。巧妙になればそれだけ、生命のない空しさがあらわになるのは被うべくもない事実である。必要なのは穿き違えた力強さではなく、単調さのみに求め近づこうとする自然ではない。虚飾を追うため葬り去った自分自身の内部の自然であったのだ。変貌するが身上と変り身の速さを誇るも良いが、じっくりと成長し、始めて本来の姿となる小さな一匹の虫の生涯がいかに自然そのものであるかを考えてしかるべきである。大地から足が離れたとき、芸術を目ざした者の転落が始まる。彼もまた、立派にその一人である。その音から語りかけるものがあるか? 彼の叫びが聴く者の聴覚を通してしみ込んで来るだろうか? 皆無である。お定りの、貧乏ゆすり、首振り、手拍子でリズムをとるファンに対する媚態だけが生々しく感じられるのは、音に対する真剣さを失った証拠である。詩の朗読にせよ、彼の欲する新らしさはない。その言葉通り明日を愛するなら、今日を真摯に生きるべきであり、“音楽”を考えるべきである。富める大国の心の歌を忘れた大プレイヤー・デヴィス万才!! 死臭を放ち、破滅へとひた走る文明国に最敬礼!!

ありがとうございます!
ただ、すれ違いだったみたいですね(笑)。
次の動画で、この『Live Evil』評読んでましたから。
まさに、TAKESI0506さんがコメントをアップしたぐらいに、私はせっせとこの内容を紹介した動画を作ってました。

しかし!

『汎音楽論集』には、評点が記されてなかったんですよ。
なので、2つ星だったとは知りませんでした。
教えてくださり、ありがとうございます!

エデルまさおさんからのコメント。

アイラーの「ghusts」持ってますが、最初は全く理解できなく、吹部の練習みたいに聞こえましたが、聴こうとおもって聴くと、アイラー以外のメンバーは意図的なきがしますが、やはり本人は真面目にこのスタイルを維持してるんだと思えて、そこからスタイルを受け入れられるようになりました。自分の心がさらに広がったような気がします。

私も最初はまったく同じ感想でした。
なんだ、滅茶苦茶じゃん、オレにも出来そうじゃん、って。
で、周囲にはドラマーもいるし、サックス吹きもいる。
おお、いっちょやってみようじゃん!となるわけです。滅茶苦茶を。
そこで気付く。
なんだ、滅茶苦茶でも、カッコいい滅茶苦茶と、センスの悪い滅茶苦茶があるんじゃん、って(笑)。
そして、素人が滅茶苦茶やっても、だいたい3分か5分でネタ切れになって、あとは同じことばかり繰り返していることにも気が付く。
しかも、滅茶苦茶やるぞー!と気合が入っているので、力いっぱい演奏する。
⇒すぐに疲れる(涙)

なので、疲れないように、あとネタが切れないように、演奏の中に「盛り上がり」と「盛り下がり」の箇所を入れたり、「誰かが休む場所」を作ったりするようになってきます。
あと、楽器を「雑奏」している自分達自身が飽きないように、演奏の中に「構成」や「ストーリー性」を持ち込む工夫もしてみる。

そこまでやって、滅茶苦茶する必要ある?
構成とかストーリー性なんて持ち込んだら、既にフリーじゃなくね?

今度は、そんな疑問も芽生えてきます。

でも、まあいいや、とにもかくにも、「メリハリつけた滅茶苦茶」をやってみよう!ということで、学生時代に試み、カセットテープに録音したのが以下の音です(笑)。

先もまったく見えない状態で、手探りで滅茶苦茶やるのって、身体も疲れますが、けっこう心も疲れます(笑)。

だから、こういうことやると「なんだ、滅茶苦茶ってすげー!」と思うわけです。
だったら、ちゃんとした曲をちゃんと演奏できる練習するほうがラクじゃん、とも思えてくる(笑)。

あっ、もちろん『スピリチュアル・ユニティ』は滅茶苦茶だとは思ってませんよ。
ただ、滅茶苦茶と紙一重に感じちゃうじゃないですか、特に最初の頃は。

逆に、そう感じさせて、なおかつ演奏のテンション、ボルテージがまったく下がることなく、最後まで聞かせちゃうってところが、やっぱりスゴいなぁと思うわけなんですよ。

エデルまさおさんからの返信

返信ありがとうございます。
アイラーの音に近づきにくい一因に変死等のその人の人生的なものも関わっているのでしょうが、一般人気、でてほしいですね!

それこそ「破壊」とか「難解」とか「変死体」とか、そういった枕詞なしにね。

mm00m さんからのコメント。

ビリーホリデイ ジャンゴラインハルト ウエスモンゴメリー なんかも酷評してましたね。それぞれトップレベルの表現者だと思いますけど

ビリー・ホリデイも酷評していましたっけ?!(驚)。
あとでその箇所探してみます。

永井勉さんからのコメント。

相変わらずモンク脳の永井です・・・m(__)m
高柳昌行・・・頭がおかしいんじゃないですか・・・m(__)m
私からしたら単純にコルトレーンチェンジを出来た
うえでの発言だったら解ります・・・
その画期的なコード進行が理解出来ない人の発言としか思えません
コルトレーンチェンジという複雑なコード進行を
歌謡曲だという高柳昌行・・・・バカです・・・
同じ事が出来てから言えと思います・・・m(__)m
理屈だけ言ってフリージャズに逃げたと感じます・・・m(__)m

たぶん、音楽のメカニズムの話ではなく、大衆の受け入れられ方が「歌謡曲的」だと言っているんだと思います。

Kawai Andyさんからのコメント。

刺激的な言い回しではありますが、よく判ります。クリエイターの矜持として何をどう判別するかは大事な問題で、そのため、自身の立ち位置からの見識は、専門家として厳しいものになるのでしょう。いつの時代にも流行はありますが偉大なものは流行を超えてその価値は必ず見出されるものではないでしょうか、歌謡曲はみんなにとって解り易いものと云う意味なんでしょう。アイラーやドルフィーに不可知の面白さを感じることは大いに頷きました、長生きしてますがショーターも加えてほしかった。(笑)WW

COOL JOJOメチャメチャカッコいい!

「くーるじょじょ」という語感が、すごくカッコいいと思います。それこそクール!(笑)

私もショーターには得も言われぬ不可思議さを感じるのですが、バンド活動(ウェザー)にシフトしちゃったところが「個人の音楽性」への関心から外れちゃったんでしょうかね。

香取茂夫さんからのコメント。

批評家ってなんとでもいいますね。日本で一流になった人は何を言っても一流の批評家と見られるが、余り言わない方がいいのかなと思う。
 いやー、コルトレーンは批判できないな、、この評論は否定的にしか聞こえないな。
 高柳さんの個人的なわたの評価はちょっとさがるな。
 ちょっと齧ると好きな様にいう評論家は気をつけないと炎上することを覚悟して発言しないといけませんね。
 雲さんは大丈夫。

>雲さんは大丈夫。
ありがとうございます😅

FX3号さんからのコメント。

コルトレーンの晩年の演奏はアイラーよりもアイラーっぽくやってるよ。

富成千之さんからのコメント。

高柳さんは音楽を「過去→現在→未来」という時間軸の中で「進歩」「発展」しているものだと考えてますね。そして、個人としていうとそれは「模倣」から「個性」への進化として捉える。だからドルフィーやアイラーのように「未完」のままで終わったミュージシャンの「あったはずの未来」の方を「存在する過去」としてのコルトレーンなどよりも尊重する。でも、僕はそういう「進歩史観」的に捉えているとアイラーの音楽の意味もコルトレーンのやっていることもわからなくなると思ってます。
アイラーのやっていることは「複雑な西洋和声とドッキングする前のジャズ」あるいは「黒人音楽一般」への回帰です。たとえば『New Glass』はほとんどR&Bですよね。でもたとえばこのアルバムで弾かれているエレクトリックベースは1970年代のネオソウルやあるいはジャコパストリアスにも通ずる素晴らしいものです。アイラーはいわば「伝統回帰」を通じて閉塞してしまった「ビバップ以降のモダンジャズ」に変わるものを作ろうとした。この流れは「モード」によって複雑なコード進行からアドリプを解放したマイルスの試みとも一部で共通していますし、もちろんコルトレーンとも共通します。あるいはコルトレーン死後のファラオサンダースの一連の作品にも共通点がありますし、もっと言えばスライ&ファミリーストーンやマービンゲイ、EW&Fなどのネオソウルに引き継がれていると思います。アイラーのテナーはたとえて言えばジェームスブラウンです。コルトレーンやファラオのサウンドにマイルスの『オンザコーナー」を足したのがEW&Fです。それがRap とHipHopとなって今に至っている。ある意味底流に流れている音楽的伝統は何も変わってません。
ですから、もし仮にアイラーが後10年生きていたとしたら、多分高柳さんも「アイラーもやっぱり歌謡曲になっちゃったね」というと思います。なぜなら、高柳さんがコルトレーンを批判してアイラーを評価する理由って、「どこにもない音楽をやりそう」ということでしょう。でもそんなつもりアイラーにはないんです。彼は今あるようなジャズではない黒人音楽の伝統を復活させたい「だけ」なんです。ですから当然それはR&Bに似てきます。そして彼自身も「特異な個性を持つアーティスト」であるよりも「伝統を再構成する普遍的なアーティスト」=「伝導者」になりたかったのだと思います。
ほぼ彼の遺作である曲に「Music is the healing for universe」というのがありますよね。こういう言葉、モーリスホワイトあたりもよく使いますし、マイケルジャクソンにも同じ趣旨の歌があります。これらはみんな「新しいゴスペル」です。
高柳さんの年代、あるいは生きた時代にはこんな見方は誰もしないから無理ないですけど、結局は勘違いだと思います。高柳さんが望んでたものはおそらくは欧米の「現代音楽」の閉塞性を破るような「新しいフリージャズ」だったと思いますけど、過去よりは今、そして今よりは未来に向かって「新しさ(未聴感)」と「個性」を求め続ける姿勢そのものがあらゆる「現代芸術」の閉塞を産んでいることにもっと自覚的であらねばと思います。
50年前のフリージャズフリークなのでつい熱くなりました。長文失礼しました。

ありがとうございます。
興味深く拝読しました。

たしかに「前進・進歩良し」な価値観前提で論が展開されていると感じます。
もちろん、理論、技法の進歩や、その探究は大切なことだと思います。
だけど、それだけではなく、「そもそも」のブラックミュージックとしての息遣いやニュアンス、譜面化や体系化できない「何か」を探ったり、取り入れたりすること(それが時には先祖返りになることもある)も忘れてはいけない大事なことだと思います。
まあ興味のベクトルはミュージシャンそれぞれだと思うのですが…。

富成千之さんからの返信。

返信コメントありがとうございます。とても嬉しいです。
50数年まえの「フリージャズシーン」を今振り返ると、日本やヨーロッパとUSA本国ーー特にその「担い手」との間には意識のズレがあったのだと思います。日本やヨーロッパで「フリージャズ」を信奉している人たちをつなげるキーワードは「怒り」と「不満」だと思います。中上さんにしろ高柳さんにしろ、当時の日本の現状についての「怒り」と「不満」があり、それが音楽の評価に直結していた。『破壊せよとアイラーは言った』という中上さんのエッセイ集の表題が典型です。アイラーは別に「破壊せよ」なんて一言も言ってませんw 中上さんの思い込みです。高柳さんもそうで、既存の音楽的秩序、それを求める社会の秩序、それに「怒り」破壊するのが「ジャズ」だった。でもマイルスにせよコルトレーンにせよそうではないから「歌謡曲」になる。これはヨーロッパのミュージシャンも似ていて、去年亡くなったペーターブロッツマンも最後まで「怒りの人」だったと思います。
壊そうとしたのは「既存の文化的価値」音楽で言えば「西洋クラシック由来の伝統的な美意識」です。単に理論だけでなく、制度化されてしまった人々の「美意識」や「感覚」そのものに異議を申し立てる。そこまでしないと「新しいもの」は生まれないと思っていたのでしょう。だから言い回しは過激になる。なぜなら高柳さんたちにとって「普通の人」は「制度化された感覚」によって洗脳されたようなものなのです。マイルスやコルトレーンがいいという「お前たちの感覚が間違っている」ことになる。もちろん、そんな発想で「新しいもの」が生まれてくること、これまで見過ごされてきた文化に注目が集まることはあると思います。でも、そうやって破壊を続けていけば、必ず行き詰まります。なぜならその行き着く先は「自分ただ一人」にしかなりません。自分にしかできず、同時に「自分しか感動できないもの」だけが価値になる。
高柳さんの弟子である大友良英さんやジョンゾーンのやっていることは、そのような「その人にしかわからない音楽」をショーケースに入れたり、あるいは「猛獣」を檻に入れるようにして「陳列」することだと思います。その人の音楽の中身そのものはその人の自由である。しかし「陳列方法」には従ってもらう、音楽の中身がどれほど無秩序であろうが人にわからなからろうが、そこにはタッチしない。「秩序」はあくまでも外形的なところだけにとどめる。僕に言わせるとあれは「お化け屋敷」です。ただし、いるのは本物の「お化け」です。それが「人に見せられる」ように「陳列」されている。
そういうやり方もあるのでしょうけど、マイルスもコルトレーンもアルバートアイラーも、あるいはセシルテイラーとかアンソニーブラクストンあたりも、求めているのは「自分だけの表現」ではなくて「われわれ黒人の音楽」の再興です。「破壊」するのはそのためであって「破壊」が目的ではない。別のコメント欄で高柳さんの『Live Evil』評読みましたが、あそこまでいうのなら、少なくとも一旦「ジャズ」そのものから離脱して「日本の伝統音楽」特に「土着音楽」の世界にどっぷり浸かるべきです。なぜなら「大地から離れない音楽」ってそういうことでしょう。「暗黒舞踏」などはそういう発想でした。でもそれはできない。高柳さんも結局は本当に意味で「大地に根差し」てはいない「青白きインテリ」(死語ですが)なんだと思います。またしても長文失礼します。

日頃、漠然と考えているたくさんの点が一つにつながった思いです。
うまく整理してくださった、というか。
ありがとうございます。