『ジャズ・レコード・ブック』で、ジャズ評論家・粟村政昭氏が評したジャズマン数名(エロール・ガーナー、スタン・ゲッツ、ディジー・ガレスピー、ジミー・ジェフリー)を紹介しています。
【粟村本読み】エロール・ガーナー、スタン・ゲッツ、ディジー・ガレスピー、ジミー・ジェフリーとジャズ評論文体、スポーツ新聞文体
コメント
飛田野正人さんからのコメント。
ジャズ評論の限界というか、いや、それこそがジャズの妙味なんでしょうけど、その昔のヒットしなかったB級歌謡曲を発掘するという「名盤解放同盟」が成り立ち辛いというのはあると思います。
資本論のブルース / 大城晋
私はこの曲で「ヘーゲル・マルクス・エンゲルス」とはとどのつまり
「渋谷・新宿・池袋」の事だと教わりました。
「JAZZ名盤解放同盟」みたいな、ヘルメットにサングラスで布切れで顔を覆って公安に身元がバレないようにしているJAZZ評論家は
いましたか?
(おふざけが過ぎました。すんません)
へえぇ~、こういう曲があったんですね。
おもろ。
場末感たっぷりのギターの合いの手、無駄に(?)歌唱力があり、フルートのパンチ効いてますね😆
飛田野正人さんからの返信。
例えばコルトレーンの「chim chim cherree」を評するとどうなるのでしょう?「二匹目のドジョウを狙った駄作」とも「たからこその傑作」とも、ジャズ評論では捉えられる事が出来るかと思います。
一方今回例として上げた曲は駄作で下らなくて売れなかった、それを音楽評論家が集まって「名盤解放同盟」として発掘したという経緯があります。
「人間の営為とは、何と儚く惨めなのか」というのが、この評論家集団の基調にあると思います。僕はそれはJAZZ評論には許されないと思っています。
「chim〜」を「人間って、愚かだよな」と評したJAZZ評論家はいますか?それが許されない程のタフな言論フィールドだと思うのてすが(つまり傑作か駄作かをハッキリ決めるという意味で)、間違ってますかね?
>間違ってますかね?
どうなんでしょうか、よくわかりません。
飛田野正人さんからの返信。
「chim chim cherree」てすでにコルトレーンがやってたんですねえ。阿部薫でしか知らなかった。ここのチャンネルのありがたいのは色んな情報が入ってくるところですよね。「資本論ブルース」は当然面白いし、作者があの「フランシーヌの場合」の人だった、も興味深い。あっちはシリアス。こっちはコメディ。使い分けてる。
>阿部薫でしか知らなかった。
爆笑。
いや、笑ってすいません。
普通、逆のような(笑)。
あ、その「普通」という基準もよくわからないですけど(笑)。
人力飛行機さんからのコメント。
(笑)また・・・そんなものですよお「chim chim cherree」はさすがにたいていは知ってるでしょうが。NHK「みんなのうた」でもやってたような・・・いえやってなかったかなあ。CMではやってましたよね何かのCM。いやどうだったかな。コルトレーンがやってたことって知ってるのジャズ・ファンだけですよ。たぶん。
ちなみに私がなんでジャズに長い間アレルギーを持つようになったか。こういう人もいるという一事例てことで参考になるかと。10代でビートルズのアルバム聴くようになったころ、とにかくロック聴くのが面白かった。そのころ、私は雑誌『週刊FM』(音楽之友社)『FMレコパル』(小学館)『fmファン』(共同通信社)買って、あれは曲名も載るので、聴きたい曲はテープ用意して録ってた。ウェス・モンゴメリーのA Day in the LIfeてどんなだろうと期待して録音。今ならなんてことなく聴けるアレンジなんだけど、そのとき、良さがからきし伝わらず。むしろ「なんてつまらない」「台無しにしてる」て思ったみたいなんですね。なんでか思い起こすと、ギター強弱もない音色も変わらないまた音色が地味すぎ変化なさすぎ・・・みたいな。ロック聴き始めではまあ無理でしょうたしかに。そうれでまあ「ウワッナニコレ」になったんですねえ。その後マイルスデイビスの「Duran」で偏見がなくなったんですが。偏見時代が長かった。「ロックをつまらなくするジャズ。聴かないほうがいい。良い曲台無し。」それ思うとマイルスデイビスの功績として、ロックファンからの「つまらない」偏見を払拭した、はあるでしょうね。マイルスデイビス、偉大!ありがとうマイルス!(笑)あの世のマイルスも笑顔!
>「台無しにしてる」
十代の頃の私がもし聞いていたとしたら、きっと同じ感想だったと思います😅
TAKESI0506さんからのコメント。
そうですね。
鍵谷さんも粟村さんも文章だけを見れば、気難しい人と思えますが、鍵谷さんはともかく粟村さんは、行きつけのレコード屋さんや岡崎市の医師でジャズ評論家の内田修さんも、文章とは裏腹の親切丁寧な人であったと書いてました。粟村さんの鍵谷さんに対する批判は、以前に書き込んだことがある、レコード会社からのテスト盤が送られてこない云々の文章以外はありませんが、鍵谷さんは76年の「ユリイカ」で粟村批判を展開しています😢
要約すると……『自分の推賞してやまない作家や詩人や画家や音楽家が凡作、駄作を発表したときの無念、慚愧(ざんき)は喩えようもなく大きいが、それが不幸にもこんどのテイラーの『サイレント・タングス』(黙舌)には起ったのだった。これは一体どうしたことか。テイラーともあろう秀れた創造者のあるまじき音がいたるところにきこえ、響いてきたからである。愚見は後述するとして、多くの評者がこの作品に最大級の讃辞を呈していることも合点がいかない。かつてテイラーに対して一顧だにしなかった人までもが、どう血迷ったか双手をあげてほめちぎっている。それがぼくには少くともテイラーの最上の部分をとらえて語り、論じているのでないことは明白であり、こうなった以上ぼくの立場を踏まえて、これはそれこそ黙舌はむろんのこと、黙視できないことだと思った。
テイラーがこの作品によってアメリカで名声の殿堂入りをしたとか、「ダウン・ビート」の年間べスト・レコードに選ばれたなどということは、いうまでもなく論外である。ここで語るべきはあくまでテイラー音楽の本質について、いささかも妥協なしに率直に論じきることであり、ぜったいにテイラー現象などというものを考慮に入れないことである。そうでなくてはこの拒絶の単独者の内面から遠ざかるばかりであろうから、うつろい易い、浮気っぽいジャズ、それをとり巻く怠惰な環境が、ジャズの真の評価を妨げることは贅言を要しないだろう。ただテイラーのような秀逸な音楽家に、一過性の価値づけや、悪しきジャーナリズムのレッテルを貼りつけることは、この人に対する冒涜以外のものではない。
目についた論評の中でもっとも空疎な内容を露呈しているのが粟村政昭氏で、氏は自ら保守反動を機会あるごとに公言し、しかもここでは
「……このソロ・アルバムは、テイラーの数あるレコードの中でも、最も高く評価されてよいものの一つだと思う。第一に気に入ったのは、構成がしっかりしている点だ。前にニューポートで聴いた時のテイラーは、結局同じことを循環的に弾いているだけという感じで四五分間を持てあましたが、このモントルーにおける演奏は無闇矢鱈と音符をぶちまけて聴き手を煙にまくといったケレン味がまったくなく、作曲と演奏が渾然一体となって、一つの作品を創り上げているという印象を強く受ける。もちろんこれはピアノ・ソロという形式をとっていたからこそ可能であった話で、普段のような混迷醸成ユニットのスーダラ社員との共演では、とてもこうは思索に富んだ演奏にはならなかったろう……」
と全く氏のテイラー無理解をあからさまに示した文章に終始している。
ここで揚げ足とりになるのは戒めたいが、粟村氏が従来テイラー音楽に表わしてきた拒絶反応を前提にするのはいいとしても、構成の堅牢さを称讃し、反射的にサニー・マレイやアンドリュー・シリルやジミー・ライオンズのグルーピングのサウンドを、「混迷醸成のスーダラ社員との共演」と呼ぶに至っては、レスター・ヤングやウィントン・ケリーを聴き過ぎたための、およそ後ろ向きの姿勢、さらに困ったことには自らの聴覚想像力の窓を堅く閉ざし、結果として聴覚領土を狭めてしまったとしかいいようがないのである。一体粟村氏は「アキサキラ」におけるテイラーとシリルの二人の音の激突から無数に生ずる驚くべき音圧上昇の凄みをどう思っているのか。それを彼はすべて聴き逃していたとしかいいようがない。自ら保守の城に閉じこもり、新しい音を聴きとろうとしない老化した耳、あるいは悪知恵としかいいようがない惰性化した感性の残骸といってよい。ぼくはテイラーのソロにしろ、ユニットにしろ、一つのすばらしいジャズ、いや音表現をもったダンゴの塊りとして食べているが、どうやら粟村氏の考えているジャズはダンゴではなくて、ヒョロヒョロのヒヤムギあたりらしいのである。ダンゴもヒヤムギも同じたべものにはちがいないが、形も味覚もおよそちがう。だからといってぼくのジャズがダンゴだから、あくまでダンゴ以外のジャズは否定するなどというつもりはなくて、ヒヤムギ的ジャズ、まあアート・テイタムなどというかなりわるくないジャズも認めるにやぶさかではない。
粟村氏がいみじくもテイラーヘの無理解を端的に表わしているのは、この短評で明らかであるけれど、それはいままでの侮蔑や反感、ときには敵意と憎悪も交えながらつくられてきたもので、それがこの「サイレント・タングズ」でいっきょに中和されたふしがあるのを、やはり監視しつづけなくてはならない。というのは少くともぼくなりに接してきたテイラー音楽の中で、この作品が最高位にあるものとはどうしても思えないからなのである。やはり論評の原理として、当の芸術家の最上の部分に触れずに語るということは、重大な過失を犯しかねない。ここで個人的趣味とか恣意性を介入させるのはやめるべきだ。テイラーの音楽はぜったいにムード的なものではないのだし、ましてジャズのライト・サイドに近づくことのまずありえない内実をいつももっていた。だがまことに残念至極なことだが、テイラーがどうやら初めてライト・サイドに接近したのがこのレコードから出てくる音なのである。だから粟村氏がそこに気づいて称揚した気持をいくぶんわからなくもない。つまりひとことでいえば、粟村氏から公認されるようではテイラーも堕落したものだ、というより致し方ないということでもある。つまりジャズを聴く人間によくありがちな視野をひどく狭めて、その上に個人的に歪みきった感性以前の感情を移植し、音楽を好き嫌いで判定してしまう通弊の入りこむ隙を、テイラーがここで与えていることを、ぼくはひどくもどかしく思うのである。どだいテイラーは世の掃いてすてるほどいるジャズ奏者とは次元を異(こと)にしていたはずなのだ。それが何歩かは知らないが、少くともこのレコードではある点からみれば忌わしい「ジャズ」にすり寄ってきている。そうしたことから粟村氏がこの作品を認めたことは、当然の論理的帰結というものかもしれない』
自分が良いと思っている『アキサキラ』に近い演奏のことを「無闇矢鱈と音符をぶちまけて聴き手を煙にまくといったケレン味がまったくなく~」と粟村氏が書いているあたりにカチンときたのでしょうか(苦笑)?
そこから、粟村氏の「保守性」と「音楽観」への揶揄に発展しているように感じますね😅
『サイレント・タン』は、「ライト・サイドに接近」した演奏だ
⇒あなたは、その聴きやすいアルバムを褒めているが、「ライト・サイドじゃない」演奏を褒めていないね
⇒だからあなたは「保守」なんだ
⇒俺は違うけどね
ということなのかな?(呆)
人力飛行機さんからのコメント。
今回の動画。前半は粟村さんの批評文の紹介。4人目のジミー・ジェフリーへの粟村さんの《偉大なる失敗作》から、主さんの持論が展開します。5:38「次、行きますね。ジミー・ジェフリー。出たア。サックス奏者。クラリネットも吹きますけどね。ジム・ジェフリー、ジミー・ジェフリー、地味に何気に私好きですよ。えジェフリーは、ウェスト・コースト・ジャズの全盛時代にあって大活躍をし、無調音楽的な作品からR&B的な作品に至るまで幅広く作曲を行い、ついにはドラムを基本的なリズムから追放した、偉大なる失敗作(笑)失敗作になっちゃってますね。Tangents in Jazzを生んだ。この後、種々の楽器編成による、The Jimmy Giuffre Clarinetという野心作を発表し、やがてドラム以外の楽器の中にリズムを想定する、ことの可能性に思い至ったジェフリーは、前記のThe Jimmy Giuffre 3を問うことによって、ついに彼の思想の具現化に成功したのである。だそうです。」でここでの《偉大なる失敗作》という批評から、本の広報宣伝時代の経験。新聞に読者プレゼントとして本の宣伝を企画。モロに宣伝よりもそういう企画の方が経費が安く上がるから。そこで担当者に言われたのが、一回落として、でもこういう未来がある。他にない特徴がある。そういうコピーが受ける。というアドバイス。でそのアドバイスした人が、「プロレスでそういう評価があると逆にそのレスラー注目を浴びるんですよ」と。ジャズでもプロレスでも、活字ファンと現場(ライブ)ファンと2種類いる。活字ファンは活字の大家のテキストを追って、参考にする。私も対象よりも対象語る人に興味が起こるところがある。そこがプロレスファンと一緒。粟村さん、鍵谷さんの時代は難解なテキストが受けて、自分よりも賢そうな批評家に憧れる傾向もファンにはあった。ニューアカの浅田彰、今なら成田悠輔。私は他人を悪く言うのは苦手。どちらかといえば良いところをみつけて批評したい。ミュージシャンではないし、「じゃあお前がやってみろ」と言われても何もできないわけで。粟村さん、鍵谷さんの批評は自分と違う硬い、面白がって取り上げることができるのです。とのこと。音源聴くと、ジミー・ジェフリーの「ドラム抜き」が粟村さんの気になっているところで、評価の肝なようです。実際に音源を聴くと、でも1作完全にドラム抜きは、3つ目にあげたThe Jimmy Giuffre 3だけ。あとのは音は少ないが入ってはいます。
①気になるのがThe Jimmy Giuffre 3(1956年)のなかにTwo Kinds of Bluesて曲があって、マイルスと関係あるのかと思ったら、この時にはまだあのKind of Blue(1959年)は出てないときだから、年度から言うと関係ない。しかし曲聴くと、なんとなく特に出だしがマイルスのRonud about Midnightぽいんですね明らかにどういうわけか。曲調が途中で派手に一瞬変わるのもマイルスぽいし、終わりが出だしに戻るのもマイルスぽいし。本来はセロニアス・モンクの曲(1944年)。Ronud about Midnightを自己流にやってそこにTwo Kinds of Bluesて名付けたのは?でもタイトルはRonud about Midnightではない。この時点で既にマイルスはライブでKind of Blueてタイトルで演奏会やってた?いやこれは関係あるでしょう。そう聴こえますねー
②心に残る矛盾したコピーていうと。「その生涯自体が一個の質問」これが寺山修司の死についてだったと思うんですね。これは覚えてるし残りましたね。そういう意味では、執筆作品のカリスマ性のみならず政治参加、スピーチ、発言、同時代へのまなざし、仲間との離散と集合、自己のスタイルの脱皮の繰り返し、とかで軌跡を残した人って、生前から何者なのかが俎上に上がっていたり。そういう「その生涯自体が一個の質問」というにふさわしいし、有名人にも当てはまる。無名に終わった早逝した人でも妥当する人はいる。文筆だけじゃない、色んな分野で既成の概念に当てはまらない人ってそういうコピーが似合う。私が今感じるのがアントニオ猪木ですね。
③上のジャズとプロレスの関係。活字ファンの話にもなりますが、プロレスの活字ファンを作り上げたのがまさにアントニオ猪木だったと思えるんですよね。色んな文章を読むにつけ。一部に熱狂的な活字ファンを生んで、猪木の生前も死後も、その生涯やリングの闘いが何であったかの検証は続いている。ジャイアント馬場にもそれはありますが、熱が違う気がする。猪木の活字ファンがあって、プロレス全体の活字ファンを拡げた。でも今は、入り組んだ検証に値するプロレスではなくなってきて、活字プロレスは徐々に、衰退。しかし猪木の周辺では今もなお、活字は書かれている。ていう現状だと思うんですよね。で翻って、ジャズの世界にも。活字ジャズていうのが、実は衰退してるのではないか。といってもプロレスほどは詳しくないのでアレなんですが。座談会『ジャズ構造改革 熱血トリオ座談会』(後藤雅洋×中山康樹×村井康司 彩流社2006年)でも、語るに値するジャズは生まれていないのではないか。未だに語られてるのは1970年代までのジャズ。というのが本全体の問題になってるんですよね。非常に面白い本ですけど。
「ジャイアント馬場、ルイ・アームストロング説」に対して「アントニオ猪木、ジョン・コルトレーン説」に対して、。
猪木もトレーンも、安定した完成度に特に何も語ることはないけれど、ある種未完成な不安定さがもたらす偶有性が活字好きの「語りたいマインド」を誘発するという😁
人力飛行機さんからの返信。
まず個々のレスラーとミュージシャンを完全対応、て難しくて私にはできないですね。プロレスとジャズ両方熟知してないと無理。大雑把にならマイルスデイビスは猪木的で、カリスマ性があって門下生がいて、時期によって門下生が代替わりとか、お約束とガチンコを併せ持ちとか、門下生同士で熾烈なライバル関係とか、門下生がまた優秀で分派として宗派結成、今は直接指導受けた門下生も引退、あたかも継承しているかの仮装でやってるやつがいるが偽物だ!、ジャズの概念は継承はされるのか、いや、概念はもう終わった、批評家3人は大論争、本まで出した、よってプロレス構造改革=ジャズ構造改革、そう考えるとまあ面白いところはあります。いちいち例えてだから何?(笑)
活字プロレスも活字ジャズも、好きなように初めて展開するしか能がないですね。それでないと興奮しないし(笑)決めつけと想像力と、妄想と、疑似教養、とかで突っ走る。
プロレスていっても100%gimmickトリックで実は痛くもかゆくもないときもあれば、100%のガチンコ‐痛いレスリングのときもあって見極めが分からない。そこで面白さがあって玄人が色々言う。gimmickとseriousの分かり易い分岐点があるなら⑴ロープに飛んだり飛ばしたり戻ってきたり⑵コーナーに上がる。コーナーポストから受ける、が1つの基準になりそうな。馬場派だと100%gimmickトリックで、勝負論よりjobお仕事。猪木派だとそこが50%gimmickトリックでアクシデントをもアングルangleで活用。あの方にはもって生まれた破壊願望や本物志向があって従来のプロレス概念に収まらなかった。そこで面白さが生まれた。しかし50%はgimmickトリックだから本音はそれでも言ってない。三沢光晴の死は過激な‘演劇’の代償。或いは失敗したgimmickトリック。そこは危険なサーカス。猪木から馬場への殺意は会社に可愛いがわれgimmickトリックしかできないのに偉そうな外見。しかも本気でレスリングする自分を軽んずる上から目線。実はただそれが会社人間の思考。当時のプロレスであっただけなんですが、枠に収まらない人間からすると許せなかった・・・。実はそういう人間がプロレスを資本運営として成立させるのは難しい。弟子も破壊願望や本物志向を持ってるし。いつでも50%gimmick50%non-gimmickで危うい。でも逆に面白かった。
「底が丸見えの底なし沼」(『週刊ファイト』編集長)。
本当のところは、実際どうなのかわからないし、もしかしたら当人ですらもよくわからなかったりするかもしれない。しかし、その隙間が妄想と想像力を誘発し、「決めつけと想像力と、妄想と、疑似教養、とかで突っ走」れる面白さが両者にはあるのではないかと思います(とはいえ、プロレスはそれほど詳しいわけではないのですが……)
人力飛行機さんからの返信。
以前浅川マキの死後出た本『ロング・グッドバイ』に所収してある回想読んでたら、浅川の新潟のコンサートでモダンジャズのピアニスト白井勝に付いていけなくてロック系ギタリスト萩原信義が弾けなくなった。コンサート後、移動の夜行列車のデッキで数人で呑んでいるところへ、それまで席で寝ていたギタリストの萩原がピアニストの白井のところに詰め寄って、もう我慢できないという顔で近づいて「白井さん、俺はイモですか?」と詰め寄った。白井は「イモだよ」と答えた。「白井さん、ロックって何ですか?ロックていうのは、この辺で、頭の上の方で風がブンブン回ってるってことなんです。白井さんの思うジャズって何ですか?」と訊いた。白井は「俺はステージの人間は全員敵だと思ってる」と言った。その次の日から、白井のグループはステージに来なかった。ていうくだり。あとロックトリオのクリームの逸話。ステージで3人が一斉に好きなように弾いてるのに疑問を感じてクラプトンが弾くのを辞めたら、他の2人は気づかないみたいにそのまま弾いてた・・・それでどう思ったのか知らないけど。クリームのは最初と最後が譜面通り、中間はアドリブが定番だから、1人弾かなくても関係なかったんじゃないかって思える。しかし、浅川のバンドもクリームも、互いに立てる関係が残ってないと辛くなってくる。続けられなくなってくる。何の話・・・総合格闘技はキツイ(笑)そうです猪木は馬場を許せなかった。自分とカール・ゴッチのコンビによる道場での血と汗の訓練を横目で見て、「あんなことしたってカネにならなきゃ無駄」みたいに視てた。馬場のプロレスは大袈裟なジェスチュアや痛がり。相手がロープから返ってくるのに16文キック。協力で成り立つ見せ芸。それまでタッグで馬場を立てたが、そういう本音が見えてから殺意が生まれた。片輪にしてやろうと。そういう本物志向があったから馬場vs猪木の対立が生まれ、変転を繰り返すうち総合格闘技にまでたどり着いた。何が言いたいのかと言えばー馬場・猪木の時代のプロレスは、ヒーロー志向と格闘技がmixした特殊な世界だった。今はそれがエンタメプロレスー暴露本のおかげでもう中身は皆知ってるーと総合格闘技に分解した。その関係は、総合格闘技で疲弊した選手の受け皿に今はプロレスがなってる。それが2023年7月現在のプロレス構造改革。だけど誤解を避けるためにいうなら、活字プロレスの舞台は現在のプロレス界ー落ち目になりさんざん身売りとかレスラー移動を繰り返した末のーではない。いまだに20世紀のプロレス界またはその残り香を追っかけてる。というか、「底が丸見えの底なし沼」ではないが面白いモノならジャンルは問わないていうのが、活字プロレスであると思うんです。ちなみに活字プロレスの本拠地『KAMINOGE』誌の広告みると「プロレスを知っていても知らなくても面白い!特にプロレスを語らないプロレス本 唯一無二の書物KAMINOGE」て書いてあります。やっぱりそういうことなんです。活字プロレスの発祥と現在がそう。
ではジャズ構造改革とは?活字ジャズの現在は?あの彩流社『ジャズ構造改革 熱血トリオ座談会』は2006年の提言だったけど?当時は語るに値するジャズはもう生まれないとか。J-POP化で美人プレイヤーが出現。そこで売れ線が生まれ宣伝費がかけられ、目も当てられない。あの後中山康樹さんは逝去。美人プレイヤーを前面に押し出すは続行中。カネになる新しいジャズは続行中。今、後藤さんと村井さんはいーぐるに若い批評家呼んで3人でまた座談会やってYouTubeにUP。そのうち高野雲さんも呼ばれる日は近い。ジャズは死んだが音源は残る。批評家のやることも残っている。ということか。
あと、今更ながら、あの座談会について一言いうと、マイルスデイビスが生きていた時代、既に彼は、自分のやっていることはジャズとは関係ないとか言ってなかった?ジャズというフォーマットは使うが、ジャズ史とか関係ない。またジャズを延命させることにも俺は興味がないと。マイルスデイビスの面白さは彼が自己の聴いて育ったジャズを叩き台に新しいスタイルを作り続けたことにある。まず何よりマイルスデイビスがジャズと呼ばれることを1970年代には嫌っていたことから始めるべきではないか。今と対峙する音、フレーズ、楽器、アレンジ、音色、今を躍動させる衝動。そのための好奇心・探求それがマイルスデイビスなので、これはあの座談会の3方が忘れているように思うので強調したいけど、ジャズの延命なんてマイルスは言ったことなど一回もない。ですよねたしか。それで、じゃああの2006年座談会は無意味と言いたいのかと言えばそんなことはない。現状確認として素晴らしい本。しかし、あれを踏まえた上で一言するなら、好きなようにすればいい。過去の音源追求するもよし、別に新譜に大したことなければ十分。底辺に、快楽、グループ、酩酊、はたまた引きこもり的死の欲動でさえ、何らかの生命衝動があるならば、その表現にも享受にも意味はある。ということは『KAMINOGE』に菊池成孔が出る日は近い。いやもう出ているかもしれません。
>そのうち高野雲さんも呼ばれる日は近い。
う~む、呼ばれるのかな(笑)。
たぶん呼ばれない。
「いーぐる」族(四谷派?)の中では、落ちこぼれというか劣等生というか特殊枠というか「仲良し学級の生徒」的スタンスですから、私は(爆)。