ジャズ雑誌上の論争の話など

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以前アップした動画「『jazz』1975年4月号は、アルトサックス特集が面白そうだ」(こちら)にいただいたコメント紹介&アンサー動画をアップしています。

コメント

TAKESI0506さんからのコメント。

私が書き込んだことのある論争としては、岩浪洋三×寺島靖国/フュージョンはジャズの味方か天敵か、岩浪×油井正一/アール・ハインズのスタイルについて、若手ジャズ評論家に物申す/岩浪×小川隆夫など色々ありますが、すべてに岩浪さんが絡んでいますね

 意外なところでは油井正一さんのディスクレビューについて、吉村浩二さんが苦言を呈するという書き込みがありました。
 89年8月号に載ったサックス奏者ビル・エヴァンスの「サマータイム」というレコードのディスクレビューが事の発端です、評価は3星でした。

『ビル・エヴァンス、サマー・タイム/油井正一

 マイルスの電化バンドでデビューし、エレクトラ・ミュージシャン→ブルーノートを経てこのディスクが3枚目のリーダー作というのが、サックス奏者今年30歳のビル・エバンスの経歴。昔はスティット、コルトレーン、ロリンズを一音一音真似たところから出発したので、今はより金になる電化音楽をやっているが、日本の正統派ファンのため、やってみましょうと手がけたのがストレートアヘッドなジャズ。この手のミュージシャンの陥りやすい弱点は、4ビートをやっていた10年前にそっくりそのまま後戻りしてしまうことである。そうなっては失敗とばかり、ここではベースのマーク・ジョンソンを中心にゴットリーブのドラムと緊密な連繋を保たせ、空間を重視したサックス表現という、なかなか考えられた演出をとっている。標題曲の〈サマータイム〉について解説者は『才気溢れるエバンスのアレンジによってこの古典的名曲は新たな生命を獲得したといえる』という。この才気ある演出を買って傑作と断ずる人がいても反論する気はないが、歴史に残るサックスの巨人たちが共有する人間的で深みある吹奏ではなく、ニュアンスに欠けている。僕は2度以上くり返して聴く気にはなれない。30歳でこの程度なら、ジャズは断念して金儲け音楽に身を入れた方が当人のためになると思う』

次号の読者投稿欄に吉村さんの反論が載りました。

『油井さんだから……暴言は許せない、油井さんだから……若い人たちにアドバイスしてほしい

 ぼくは本誌を通してジャズを楽しんできた。なかでも、油井正一さんの文章からとても多くのことを教えられた。だから、6年前にぼくが企画・作曲したジャズ・スタイルのアルバムのライナーノートの執筆も、迷うことなく油井さんにお願いした。だけど、先月号のサックスのビル・エバンスの「サマータイム」についての油井さんのディスク・レビューを読んで、そのピントのずれ方には驚きを通り越して、悲しくなってしまった。『30歳でこの程度なら、ジャズは断念して……』という発言は、評論ではなくてただの暴言だと思う。
今の20~30代のミュージシャンの姿勢は、それ以前のミュージシャンとはずいぶん違っている。ジャズがある種のスタイルを確立した後に生まれたミュージシャンたちだから、ジャズを特別なものだとは思っていない。ポップスやクラシックその他の音楽と同じようすばらしい、大衆音楽のひとつだと考えている。だから、その活動の範囲も広くなるし、活動の分野によっては多くの報酬を得ることもある。また、それほどの報酬を得られない場合だってある。仕事とは、そういうものだ。油井さんの言葉からは、多くの報酬を得られる音楽は力がなくてもやれるつまらない音楽だという差別意識が感じられるけれど、今のジャズ・ファンの多くは、そんな狭い視野でジャズを捉えてはいない。時代は移り変わる。時代は変わっても油井さんの言う〝ジャズ〟はいつもすばらしい。それは、真実だ。だけど、真実はひとつではない。移り変わった時代の真実は、移り変わった時代の角度で見ないと見えてこない。油井さんの言う〝ジャズ〟の普遍性を、新しく生まれてくるジャズにまで求めたり、また押しつけたりしてみても、うまくいくはずがないと思うのだ。
 ビル・エバンスの演奏は、〈レッツ・プリテント〉や〈アーサー・アベニュー〉といった自作のバラード曲で際立っている。特に後者は、関係マイナー調に移るフレーズが印象的な、歌詞をつけてジャニス・シーゲルにでも歌ってもらいたいほどのいい曲だ。人生80年、そして低成長期の現代の、しかも定年というもののないミュージシャンにとって30なんていうのは、世の中始まったばかりという時期だと、ぼくは思う。油井さんがビル・エバンスの演奏をそれほどつまらないと思うのだったら、人生これからだがんばれ、そう彼にいってもらいたかった』

このディスクレビューについては盛岡市の男性からも批判がありました

『ディスク・レビューはレコード購入のチャートなのでは?

 8月号のディスク・レビューにおける油井正一氏の「サマータイム/ビル・エバンス」評には腹が立った。アルバムの出来、不出来はともかくとして、ああいう書き方は翌月の読者通信で吉村浩二氏のいうようにたんなる暴言でしかない。自分の好き嫌いで評諭しているかのような氏の評文には深く失望した。
 かねがねディスク・レビューでの氏の評文に疑問があったが、いい機会なので一言いわせてほしい。そもそもディスク・レビューというのは、自分のめあてのアルバムが金を出して聴くに値するかどうかを知る参考にするために読むものである、とぼくは思う。しかし、油井氏の評文は、このミュージシャンは何年にデビューしたとか、誰と共演しているとか、私は何年来日の際に会って云々といったことに長々と触れ、かんじんのそのアルバムに対しての具体性に欠けていることがみうけられる。それはそれで、とりあげる欄が違えば有益な話だろうが、字数の限られたディスク・レビューに関しては、迷惑な古き良き日の思い出話でしかない。
油井氏に限らず、なんでもかんでも批判さえすれば評論家だと考えているような人たちの評文に出くわすようなことがときどきある。自分の好き嫌いはともかく、それなりにプロに徹した評論を心がけてほしい』

油井さんを擁護する函館市の男性からの書き込みもありました

『油井正一さん、歯に衣をきせぬ論評をつづけてください

 油井正一氏の本誌89年8月号ビル・エバンス評について、本欄で暴言だったと指摘されているが、私は率直でよいと思っている。オブラートでやわらかくくるんだような評文をみるときかえって、メーカーと評者の関係に疑問をもつ。それに対し、歯に衣をきせぬ表現はその実体をはっきりさせてくれる。さすが大御所、油井正一と喝采をおくりたい。
 該当記事に対する批判のひとつに、今日のジャズ界の多様性の認識がないというのがあった。たしかに、今日的サウンドからアプローチし、より古い根源を志向するという世代のジャズ観もあろうが、一方では古いサウンドにこだわりつつも現代のものをみるという場合もあり、そのさい、これはジャズじゃないと処断する事例もあろう。新譜購入の際レコードは書物とちがい、いくら評文をみてもその実体はどうなのか把握するのはむずかしい。FM放送にはジャズ番組はあるものの、新譜紹介はAM放送時代の方が豊富だったように思う。評論は多くても音の情報源に乏しいなかで、購入を決めるのはやはり評文以外にない。その基準となるのは、だれが評価しているかということが重要だ。油井氏が権威者だから、というのではなく、それがおそらく過去から現代をみる層の人の意見だから、これは自分でDIGできる、できないという決定が可能となる。論評はしょせん、その人の主観、独断に基くものだから、いい、わるいははっきりいってもらった方がよい。評価を依頼されて、極論をさけ、穏当な表現をこととする評者こそ、評論家としては疑わしい。評文は教科書ではないのだから、○○がよいといったから買うという短絡的行動をおこすわけではない、かつ本ディスクに限っては油井氏の〝酷評〟と二律背反する久保田高司氏評が併記されているから、購入の指標としては適切と考える』

みなさん熱いですねぇ。
今回の場合に限らずかもしれませんが、「評論の姿勢」や「認識の差異」、「誤解や矛盾や盲点の指摘」よりも、「表現がムカつく(言い方が気に食わない)」という感情の方が先立っているようにも感じますが、まあ皆さん、それだけ熱く、純粋だったんでしょうね。

オカハセちゃんねるさんからのコメント。

「社長さん」呼びで思い出しましたけど。
クラシック畑だと、相手に「○○先生」は割と純粋に敬語ですが、これがジャズ畑やロック畑の中で「○○先生」なんて呼ばれたら「絶対こいつ俺をからかってるな…」ってなりますよね(笑)。
だけどクラシック畑からジャズ入門者として来たピアノの方とか、敬語のつもりで言ってしまうことがたまにあるようです(笑)。

そういえば、漫画家も「鳥山明先生」みたいに先生がつきますよね。
よく漫画雑誌の横ページに「◯◯先生に応援のメッセージを送ろう! 宛先は…」というような文言を見ることなく見続けていたので、「漫画家は先生と呼ばれるんだぁ」と自然に認識するようになりました。

あと、昔は(今でも?)繁華街では、「社長!1時間2000円ポッキリっすよ!」というのが客引きの常套句でしたね😆

で、店に入ったら入ったで、店内の観光ビザや就労ビザで働く外国人キャスト(違法)からは「シャッチョさん! シャッチョさん!」とカタコト日本語攻撃でオダてられていい気になってボッタくられることもあり?!という、まあ引っかかる側の責任といえば責任ではあるのですが、「社長」という言葉で引っかかる人も中にはいるでしょうから、そういった意味では、結構「社長さん」という言葉は、相手をいい気分、その気にさせる効果があるワードなのかもしれません。

「先生と呼ばれる(言われる?)ほどの馬鹿でなし」の「先生」を「社長」に置き換えてもそのまま当て嵌まりますね😆