オスカー・ピーターソンが嫌いな評論家と好きな評論家の対談記事

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先日アップした動画「レッド・ガーランド嫌いの評論家先生のお考え」(こちら)に動画視聴者さまよりいただいたコメントに対してのアンサー動画をアップしました。

オスカー・ピーターソンが嫌いな評論家と好きな評論家の対談記事

コメント

MrNOBUchanさんからのコメント。

私(1958年生まれ)のジャズ遍歴の初めの初めは、高校生のころカセット・テープで買い求めた「オスカー・ピーターソン全曲集」と称する、日本製オムニバス作品でした。両面45分×2で、ヴァーヴのリーダー・アルバム群から、演奏時間の比較的短いものばかりを選んで編集(ライナーノート添付なし)され、後年振り返れば、レイ・ブラウン(b)、エド・シグペン(ds)とのトリオ演奏で固められていました。当時の日本国内(ていうか私の住む福岡県久留米市)において、テレビやラジオから一般的に聴こえてくる音楽と比べ、驚くほど異色でスリリング、安物のモノラル・ラジカセで鳴らすたびに楽しくてたまらず、何百回繰り返して聴いたことか。私にとってオスカー・ピーターソンは、ジャズという名の魔境の、入り口にまで連れて行ってくれた、最大の恩人です。

kankannouさんからのコメント。

やせ我慢の世界♪(*≧∀≦*)

永井勉さんからのコメント。

笑えるのは・・・この一点だけですね・・・WWW
刈谷(原文ママ)さん( 私はミュージシャンを聴いてるのではなくミュージックを聴いているのだ!! )
私はジャズという音楽は数多くのミュージシャンを聴いてその背景を探り楽しむ・・・
音楽なんだと思います・・・
刈谷さんの理屈は凄いです・・・でも、もっと大きな感性で音楽を聴いてほしかったです。😅😅😅

>刈谷さんの理屈は凄いです・・・
もう理屈というか、もはやオナラ理屈ですね😅😅😅

TAKESI0506さんからのコメント。

この対談は74年発行のスイングジャーナル増刊「ジャズピアノ百科」に載った鍵谷さんの文章が伏線になってます。この文章は評論というよりは、ただ口汚い言葉を駆使して攻撃しているだけのもので、視聴者の中にはオスカー・ピーターソンファンの方もたくさんおられると思いますので、かなり気分を害されるのではと懸念しますが、一応参考までに……

『オスカー・ピーターソンは確かにピアニストだ でも絶対に芸術家でも創造者でもない

 オスカー・ピーターソンはピアニストなんだろうが、絶対に芸術家ではないし、創造者でもない。彼は偉大な芸人だろうし、職人であることは、ぼくも認めるのに人後におちない。つまり芸術家あるいは創造者にとって、必須の条件である自我集中力、凝縮性、その果てに他者(聴衆)に対する厳しいまでの拒絶が、およそみられないからである。ただやたらと聴衆に媚びを売りまくるピアノ大道芸人にすぎない。いつ聴いてみても相も変らぬ、しかもその変らぬことに節操も誠実も少しもみられない。意識の低い、感受性の鈍い種族に心地よく入りこむ音をたてている音つくりがいるだけだ。ファン気質こそ呪われてあれ。芸術家、創造者はたえず己れに過重の負担と予期せぬ賭けを課する人のことでなくてはならない。ピーターソンという人は、まあよく飽きもせずに十年一日のごときフレーズを、さも快適そうにあたり構わず放出し、少なくとも真剣に音楽ととり組もうとする人間を、小馬鹿にした雑音、騒音をまき散らしている音公害製造者、いやそれ以前の人だ。
 ピーターソンが存在しているために、もしも彼がジャズに関わりがあるとすれば、ぼくはそんなジャズとはいっさい縁切にしたいというのが本音である。そこにあるのは、退廃と堕性と弛緩と放散と怠惰と……。要はジャズはもちろん、あらゆる優れた音楽部分とは無関係の88の鍵盤をただ叩いている五流のアーチザンがいる。彼の音がスイング感にあふれていると受けとる人がいるならば、スイングというジャズの要素をあまり単純に甘くみるものじゃないと警告したい。あの程度のことで体が揺れたり、膝が上下動したり、指をスナップさせるとすれば、それこそおそるべき単純細胞人間、少くともその前に「罪深き」という形容を忘れずにくっつけたいものである。あれに気持よくなるフィーリングなどというものを尊重するとすれば、度し難いフィーリングであれ、そんなものはフィーリングでもなんでもない。われわれはフィーリングと軽々しく口にしすぎはしないか。まずピーターソンを聴いて「のる場合」があるとすれば、まずそうした自分に大量の疑問なり懐疑なりを投げかけるのでなくては、ジャズが気の毒だ。そういう自我を払拭する精神こそがまさにジャズなのだ。もしピーターソンがジャズだというのなら、ぼくは直ちにそんなジャズとは離縁する。だが幸いなことにピアノだけでも、モンク、パウエル、テイラー、タイナー、ブレイ(ポールとカーラ)ジャレット、シュリッペンバッハのいるジャズがある限りぼくはジャズ音楽と共にありつづける自信が湧くし、希望をぜったいにすてないつもりである。
 ピーターソンはエンターテイナーだ、ジャズは娯楽だ、という考え方もあろう。だがもう少し慎重にジャズの娯楽性を掘り下げて考えるべきなのだ。今日において酒のみながら手拍子よろしくクラブでジャズを聴く、という状況こそ根底から覆されなくてはならない。AEC、D・チェリー、M・ブラウン、S・レーシー、C・ソーントン、A・ブラクストンのいるジャズを娯楽と呼ぶほど自分は野蛮人ではないつもりだ。おそらく独断と偏見と誤謬といわれるかもしれないが、ピーターソンこそジャズの汚点であり、恥部なのだ。この人のいるためにぼくはジャズの文脈の中で語るとすれば、たとえようもない悲しさと恥しさを覚える。聴いていて水洟がこぼれてきて仕方がないのだ。
 先日彼のコンサートに行き、3曲半聴いて疲労困憊したあげく、廊下に出てタバコを喫い、全然別のことを考えていた。彼が、聴いたことのある何とかという曲をさも愉しそうに、さっと手をスライドさせ、自分の技術の巧さに惑溺し、陥没していく姿をみて、ハイそれまで、という気がムラムラと湧き上り、ぼくは怒り狂ったのだった。自分の熟達で鍵盤の白い部分を曇らせていた。鍵盤がおかしな10本の指に触られて困りぬいている図までがみえてきた。彼はひょっとすると大道芸人ですらない。なぜなら彼はよそよそしくもジャズの思想や感性じゃなく、意匠とコピーだけをまとって舞台に現われ、ジャズ・ピアノ然とした演奏をやり、人々をたぶらかしていたからだ』

オスカー・ピーターソンについて意外だったのは、高音質で有名だったMPSレーベルの録音は、当然ピーターソン自身も十分満足していたと私は信じていたのですが、81年のスイングジャーナルに載った油井正一さんのインタビューによると、ピーターソン自身は必ずしも満足していなかったようです。

油井 マーキュリー・ライムライト時代の作品は、内容的にはすばらしいものだが、どうもサウンドの面で問題があるような気がしました。あなた自身は満足していますか?
オスカー むずかしいね。でもスタジオで録音をとった時は最良の状態だったと記憶する。プレスの問題ではないかな。日本、ドイツなど国によってプレスが違ってくるから。
油井 僕はアメリカのプレスで聴いたが、VUメーターが一杯以上にふれた感じで、音がゆがんでいた。
オスカー サウンドには個人的な好みの問題もあってむずかしい。
油井 そのあとのMPSのブルナーシュアーの手腕についてはどう思いますか。
オスカー いいことはいいのだが、少しやりすぎたという感じがする。エコーはかけすぎだし。
油井 あのなかで特に「マイ・フェイバリット・インストルメンツ」(邦題「ソロ」)が僕は好きです。
オスカー あれはいい。私も一番好きだ。ところが他のアルバムには、ミックスしすぎというのがあるので困る。レコードは何よりもアーティスト第一に考えてくれないといけない。エンジニアが第一で、アーティストは二次的存在にされたのでは具合が悪い。アーティストが企図したダイナミズムやインパクトが、ミックス・ダウンを重ねることによって失われてしまうのがちょっと気にくわないんだ。
油井 結局あなたの全レコードを通じて僕が音楽としてもサウンドとしても好きなのは、ヴァーヴにおけるラスト・レコーディングとなった「ウイ・ゲット・リクエスト」(邦題「プリーズ・リクエスト」)です。ピアノ、ベース、ドラムスのどれをとってもクリアーだし、バランスも極上だと思う。
オスカー まったく同感だ。

う~む、鍵谷幸信氏は一体ジャズに何を求めているんだろう????

博 橋本さん⇒TAKESI0506さん

MPSとブルナーシュアーに対してのピーターソンの見解を改めて文字で読んでみると、とても面白かったです。
MPSのピーターソンは「良い音」「好き」と理屈抜きで愛聴している与太郎です😊
これからはピータソンのこの意見を踏まえて聴く事にします。
それはともかくとして、最近はCDや何故かレコードの広告などで「remix」という表現が目に付いたり、耳に飛び込んできたりが増えましたね。
聴いてみたい気持ちも有りますが、この際なるべく気が付かない振りをして・・・。😅

「プリーズ・リクエスト」も良いのですが、私は「ナイト・トレイン」を贔屓にしています。

高松貞治さんからのコメント。

鍵谷幸信、またわけのわからんことを言ってジャズのレベルを下げて❗️何か、寺島靖国さんに似てませんか?辛口JAZZノートで、寺島靖国さんは、鍵谷幸信を好きだと言ってますからね!何か相通ずるものがあったんじゃないですか?ちなみに、キャンディー・ダルファーちゃん大好きですよ❤️

>何か相通ずるものがあったんじゃないですか?
あると思いますね。
たぶん、芸術(文学?)コンプレックスだったり、少なくとも女性にはモテないでしょうね😅

ドロマスさんからのコメント。

4人の対談面白かったです。
真っ向から反論し合いながら、(笑) (爆笑)を入れつつ…お話を長く続けられるって凄いですね😅💦
雲さん言うように、たぶんに読者ファンを楽しませる意味の企画も入っているのではないか と思ってしまいますね。
鍵谷さんは、あまのじゃく(のレベルは突き抜けてますか…)というか…
人が良い!というものは認めたくない…タイプ。もしそれを自分も良い!と思ってしまったらその自分が許せない…的な屈折した精神からなのか…💦
本当は、オスカー・ピーターソンを聴き込んでいたりして。。
屈折愛じみた領域だったら怖いんだけど…などと妄想さえしてしまいます😨
しかし、オスカー・ピーターソンは確かにピアニストだ でも絶対に芸術家でも創造者でもない…の論文はちとひどいですね。。
目を背けたくなります😩💦💦

そのセンセイ、臨終の際に「何か思い残すことはねぇか?」と聞かれて、「一度でいいからピーターソンをたっぷりボリュームを上げて聴いて見たかった」と言ったとか、言わなかったとか……😁

ドロマスさんからの返信。

南 新二の蕎麦の小話すね😅

おっ、サスガですね!
というか、ドロマスさん、落語家になりませんか?(笑)
YouTube動画を拝見する限り、ドロマスさんの物腰柔らかな立ち居振る舞いと語り口は「ソフト落語」なるジャンルを開拓できそうな気がするんですよね😉
着物と扇子も似合いそうですし😉

人力飛行機さんからのコメント。

21:48鍵谷「違うよ。磯野さんの台所体験でしょ(笑)ケーキを食べることはあくまでも日常生活体験ですよ。音楽を聴くということは形而上体験です。」高野「はあ。まあいいや」磯野「僕にとっての音楽は形而上体験ではないです。」鍵谷「それならそれでいいですが、水は高きから低きへ流れると同時に低きから高きへ流れることだってあるんです。」高野「ますますよくわけわかんなくなってきたな。音楽を聴くことは形而上学的、形而上体験であり、水は低きから高きへ流れることもある?なんか全然わかんなくなってきたぞ。」

めちゃめちゃ面白いんですけど思いつくままに箇条書きにすると。
①吉田拓郎がプロになるまえに上智大学全共闘と彼が在籍した広島フォーク村の企画した自主制作レコード『古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう』のときに「逆流のコミュニケーション」と書いたことがあるとか。要するに常識的コミュニケーションを覆す、転覆する、てことでしょうね。学校・親・国家から降りてくるルールじゃなくて、自分たちが新しいルールを作り、上に認めさせる。それが「逆流のコミュニケーション」だと言えないことはない。私も知らないなりにそういうことかと思います。鍵谷さんが言ってる「水は低きから高きへ流れることもある」はそれを作り出せ、て言いたいんでしょう。彼が考えるジャズはその導き手である。だとしたら、彼が先鋭的なことしか言わないのは当然なんですよ。
②鍵谷さんが求めているものって割合分かり易い。たとえば岡本太郎が「芸術ってのは見るものに‘何だこれは!’と驚愕させ、揺さぶるものなんだ。だからこそ爆発なんだ。僕はいつもそれを求めて作ってる。だから僕は高齢になってスキーを始めてマスターした。僕みたいな精神があればいつまでも人間は若いんだ」とか言ってた。それを求めてる人が、誰にも良さが分かるジャズを認めないのは当然。流麗さが邪魔。むしろ害毒。だったわけでしょう。俺の考えているジャズはそんなものじゃない。ジャズを汚す奴だ。オスカーピーターソン!くらいに言ったんでしょう。誰にも見いだせない真理に、ジャズは手がかりを与えてくれる。だからこそ大事なんですと。甘いものばかり聴いてちゃダメなんですと。
③鍵谷さんの姿勢って分かるところもある。ていうのは、ジョン・レノンにしても、作品のなかでは相当一般市民への辛辣な毒を吐いてる。「君は生まれてすぐにみみっちく思わされる。それしか何もない。苦痛がひどくて何も感じなくなるまで。家では傷つけられ学校では殴られる。賢ければ嫌われる。賢くなければ軽蔑される。頭がおかしくなってルールに従えなくなるまで。20年以上拷問にかけ恐れさせ今度は仕事につけという。役に立たなかったらどうしようと君はビクビクする。宗教とSEX, TVに中毒になり、自分が賢くて階級もなく自由だと思っている。しかし僕が視たところはいまだにただのド百姓だぜ」そういう毒って彼やビートルズのファンは知らない。ロックてけっこう毒をもって市民や人生を描いてる。コアな部分ではやっぱり逆流のコミュニケーションを希求してますよ。「なんで人も社会もこれしかないのだ!」と。聴き方がそれしかないは問題だけど。なんで鍵谷さんが聴き方がぬるいと言ってるのは分かるところもある。
④作品を享受するは受け手の自己表現でもあります。作品を享受する時点でもう自己表現が入ってる。鍵谷さんが何を希求するか渇望するかが、聴き方・好みに反映してます。作者と作品の関係を突っ込むも聴き方。聴き手が自己の表現として聴くのも聴き方。無心に聴くのも聴き方。そこに気づけば座談会の混乱はおしまいだと思います。

ジャズは芸術である。芸術であるからには高尚であらねばならぬ(あるいは主体を揺さぶるものではならぬ)。
そういう前提に立ってオスカー・ピーターソンを語るから(笑)おかしなことになっちゃってるんですよ😂😂😂。
信条、テーゼをもってジャズに対峙せむとする姿勢はべつに人それぞれの勝手で良いのですが、その対象が「ケーキ」になっちゃってるところにセンセイ特有の愛すべき音痴さを感じます。