アル・フォスターとドラムス〜Swing Journal 1979年5月号より

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スイングジャーナル1979年5月号の記事『アル・フォスターとドラムス』を読んだ動画をアップしました。

コメント

永井勉さんからのコメント。

調べてみたら凄い人なんですよね!!
マイルスのオンザコーナーから
アマンドラまで参加してるんですね!!!
個人的にはジャック・ディジョネットみたいな重いドラムが
好きなんですが、ゆっくりとアル・フォスターを聴いてみます・・・😅😅😅

私もディジョネットのような重たいドラミングが好きです。
ま、キースのスタンダーズとかでは、必ずしも重たいドラムをドカドカと叩いているわけではないのですが、少なくともマイルスとやっている時のジャックは重くて迫力ありますよね。しかも機動性にも富んでいる。ピカいちのドラマーだと思います。

で、ちょっと耳の方向性を変えて。
個人技からグループとしてのアンサンブルの方に視点を変えてみると、個人的には、アル・フォスターと共演しているベーシストが好きなんですよ。
そう、『アガルタ』『パンゲア』の頃のマイケル・ヘンダーソン、そして『ウィ・ウォント・マイルス』の頃のマーカス・ミラーです。
この2人のベーシスト、とても個性が立っているのですが、その個性の立ちっぷりって、ドラマーとの共存関係の中でより一層ベースが形作る輪郭が浮き彫りになっているとも思えるんですよね。
リズムセクションの協調関係というか、要するにアル・フォスターの柔軟なドラミングが、彼ら素晴らしいベーシストの低音、ベースラインを殺さずに、むしろ生かしている。彼らが作り出すラインの「間」だったり、輪郭を補強するようなサポートが旨いからこそ、特に、マーカス・ミラーのベースなんかがそうですが、非常にタイトで引き締まったように感じさせるのは、ひとえにアル・フォスターの柔軟なドラミングの賜物だと思うんですよね。

ちょっと話変わって。
ジャコ・パストリアスって、音数多く、しかもベースの音がかなり前面に出してくるタイプのベーシストですが、このような雄弁なベースに対して、ビリー・コブハムやジャック・ディジョネットのような「打」が大きく重いタイプのドラマーだと、互いのパワーがぶつかり合って相殺してしまうのではないかという危惧も予想できます。であれば、当時の相棒ドラマー、ピーター・アースキンのあまりキック(バスドラ)を踏まず、柔軟な空間構築タイプの方がジャコの個性を引き立てますし、実際、引き立てており、良いリズムセクションだったと思います。
あと、パット・メセニーの『ブライト・サイズ・ライフ』でジャコとリズムセクションを形成しているボブ・モーゼスなんかも、数小節先を見据えた大きな視点で大きくリズムを形作るタイプのドラマーなので、少なくとも細々と刻むタイプや、ドカドカボムボムタイプのドラマーよりは、ジャコのベースの細々16分音符や、フレットレスのにゅい〜んと音程をズラすスライドや、ハーモニクスが引き立ちます。
このように、個性の強いベーシストであればあるほど、ドラマーの立ち居振る舞いのようなもの(?)が問われるような気がします。

その点、アル・フォスターは、クセの強いベーシスト(独特な訛りのあるベーシスト)をうまく引き立てていると思わせる「引きの美学」のようなものを感じます。
きっとトニーやジャックほどテクニックがないと本人が認めているように、テクニック単体で勝負しようとはせずに、アンサンブル全体を見渡した音楽性、自身の耳、全体を見渡した波作りに腐心するタイプのドラマーなのではないかと思います。

パワータイプ、テクニックタイプ、ヘヴィータイプ、ライトタイプ、バランスタイプと無理矢理タイプ別に分けるとすれば、アル・フォスターはバランスタイプなのでしょうね。
『アガルタ』『パンゲア』時代の演奏も、『ウィ・ウォント〜』時代のマイルスのライブ演奏は長尺のものが多いのですが、その長尺に起伏とメリハリを与え、退屈させずに演奏を持続させるストーリー作りの一翼を担っていたアル・フォスターの遠くを見据える視点のようなもの、このあたりをもしかしたらマイルス親分は買っていたのかもしれませんね。

人力飛行機さんからのコメント。

アル・フォスターってここの常連さんにはたぶん人気ないと思うんですよね。マイルス・デイヴィスの1973-1984までドラムス。当時は若かったけどもうこの方も81歳におなりになってる。ジャック・デジョネットに代わってマイルスのバンドに加入。ジャック・デジョネットの方は叩きが細かくてまた強くてダイナミック、今聴いても良い。に比べると、どっか落ちると言うと言い過ぎだろうが。マイルス自身の演奏もレパートリーがそのころに変わってきて、IfeとかUntitledとか。あの辺のレパートリーってGet up with itで聴くとまだ聴けるんだけど、1973年からのライブ盤で聴くと、なんか似ててどの盤も。変化に乏しい。たしかに勢いや迫力はあるけどそういうことで見逃せる問題ではない。あのワンパターンは。マイルスのトランペットはワウワウが多くなるが、1969-1970に比べるといやに単調になって聞こえるんですね。1975年の例のアガパンになると、また一層それが激しくなって。たしかにどっかのジャズ評論家がいうように、大音量で聴くと良い。迫力あるは分かるけど。それでスルーはできない。天下のマイルス・デイヴィスですから。あの頃の演奏ってどれもかなり似てる気がする。なんであんなどれも似たライブを繰り返したのか。それ自体よく分からない。いやどうみても似てるし理解できない。あの意味が。たしかにメンバーのアドリブはあるけど。肝心かなめのマイルスにいたってはどれも似た感じの。体力・気力の低下の一言じゃないのではないか。というのは外見はカッコイイんですよ。未だにマイルス・デイヴィスっていうとあの頃の大きなサングラス+ぴっちりズボン+アフロヘア+Tシャツorランニングシャツ+ハイヒール+屈んでワウワウっていう写真が出回ってる。カッコはいいその当時は。しかし肝心の音が単調。それのバックを叩いていたドラムがアル・フォスターってことで、覚えてるんですよね。

1980年のマイルスのカムバック後も叩いてて。こっちのほうがマイルスのトランペットも体力的にダメな日があったりもうあとは音がときどき外れたりはするけど、下手になったのか下手になった自分を許しちゃったのか上手いも下手も気にならなくなったのか。でもアガパンの時期よりは聞けたと思います。あんなどれ聴いても似た演奏とか、悪口言われるほどにワンパターンではないし。調子がいい日は聴かせるし。それでアル・フォスターは1984年までドラムス担当。でもくどいけどジャック・デジョネットのほうが印象ありますね。ジャック・デジョネットが叩いていた時代のバンドの方がマイルスもトランペットも聴かせたと思うし。1969-1970までは第何回目かのマイルス黄金時代だと思います。しかしアル・フォスターが加入する頃からヘンになってくるというか(笑)。パターンが決まってくる。何の意図か。何だったんでしょうねアレは。そういう印象ですね自分は。

Kawai Andyさんからのコメント。

マイルスはアルの無名時代にライブによく聴きに行っていたそうですが、マイルスがアルを気に入った理由は彼のシンバルサウンドだそうです。確かに多くのレコーディングでは”シャーン”って空間を埋め尽くすようにずっと鳴り響いていますけど、これが無かったならえらく違った緊張感の音楽になったでしょうね。

>これが無かったならえらく違った緊張感の音楽になったでしょうね。
おっしゃる通りだと思います。
確かにその通りですよね!

人力飛行機さんからのコメント。

補足1
先に書いたコメントに、「アル・フォスターとやってた1973-1975の演奏はどれも似てる。マイルスのトランペットに変化がない。なんでああいうライブを延々やってたのか不明」とか書いたんですが。もうちょっとそこを突っ込んでみたい。さっきたまたま、この時期のマイルスの凝ってたというシュトックハウゼンの作品をいくらか聴いてみて。まあ恐ろしく細かい即興性を重視。音の響きsound自体予測できないものに音を出させてそれを使用。本来は楽器ではないオブジェを擦ったり叩いたり。その雑音を電気で拡張して音楽の一部にする。或いは短波の電波音や通信音声をそのまま作品の中枢に使用して管楽器と組み合わせたり。オブジェから電波からそれらの立てる予測つかない音を拾い上げる手法。そういうことをやる人なんですね。シュトックハウゼンって人は。ジャズでいう超凝ったパーカッションだと思うけど。あの時期のマイルスのバンドでパーカッションにやたら凝って重大な意味を持たせてる理由がなんとなく分かりました。シュトックハウゼンだったのかアレ(笑)。たしかに音に対する感覚があの時期はUPはしている。

あと、トランペットの音もフレーズは止めてしまってどんどん断片的に細切れにしてしまうあの頃の演奏もなんとなく源が分かりました。同じワウワウ使用でも1971年のワウワウよりもさらに非-音楽的に、といおうかトランペット自体だんだん音楽性を剝ぎ取った即物的objectに引き寄せて行くでしょう。細切れ・断片的にしちゃって。フレーズは吹かない。あれってご本人にすればどんどん感覚的に即興的に推し進めたってことなんだろうなおそらく。考えて吹くことを止めてしまって。瞬間的にして。たしかに瞬間的になってるから。フレーズを否定して一吹き一吹きの羅列にしちゃいたい。むしろただの夾雑物contaminantや異物・物質を提示したい。そんなふうにも見える。音楽的には成り得ないモノへの偏執といおうか。あの音は。

考えてみたらトランペットって何で鳴るかといえば、唇を振動。その音が金管通過で拡張。らしいですね。唇なんですよね。サックスは調べたらリードとマウスピースの隙間を振動させ金管で拡大。ギターは弦振動をボディで増幅。ピアノも内部の弦が叩かれて鳴る。結局唇振動であったり打撃である。というわけで、楽器を突き詰めると、そういう音の発生というところまで行って、そこを考えれば、あらゆる物音が音楽と結ばれてることが浮かび上がる。音楽の発生って色んな音が鳴るってことから始まってる。シュトックハウゼンの手法ってそこに音楽をむしろ引き戻すってことで、マイルスの1973-1975もまた実は、そこらへんでシュトックハウゼンの示唆を受けて。でどうも実践していたんじゃないか。

バンド演奏としてはかなり簡略化してしまってますよね。あの時期は。midium tempoとup tempoではっきり2パターンの始まりで。それでなんですかPreludeとかZimbabweとか勝手に名付けて。そもそもAghartaの2枚目の冒頭InterludeってPangaeaの1枚目冒頭Zimbabweと同じじゃなかったっけ。同じ曲に違う名前つけただけでしょうあれは。・・・改めて調べたらAghartaの2枚目の冒頭InterludeとPangaeaの1枚目冒頭Zimbabweは微妙に違います(笑)たしかに。ただドラムパターンが同じなので同じだと思ってました。細かいテーマがあるか否かの違いはあるけどリズムパターンは同じ。Pangaeaの1枚目冒頭Zimbabweとまったく同じなのはDark Magus冒頭。これは曲名も同じでturnaroundphraseとかいうそうですね。

補足2
で中山康樹さんの『マイルスを聴け!』ではこの辺はとにかくべた褒めなんですよね。しかしああも同じまたは似た外観、リズムの曲をバンドで繰り返す。何よりマイルスのトランペットも似てくる。そもそもフレーズは止めて断片にしたいから似てくる。変化させようがないので。ワウワウ使っても限度がある。それをべた褒めはどうなんでしょうね。といおうか、むしろそもそもがマイルス自身が自分の音をもう投げ出して、雑音noiseにしたがってないか。可能なかぎり即物的な、音楽的ではない何かへ。そういう非-芸術的なものへ偏執してないか。物から出る音。そういう聴き方を促したがってないか元々が。じゃあ中山康樹さんの『マイルスを聴け!』でのあそこの描写も、訴えかけてこないのも当然で。ご本人が異物を提示したがっているのをからっきし受け止めなくてなんかいかにも音楽的な到達点みたいに言うのが。

結局シュトックハウゼンの影響で即興性の追究はある。そしてその場合の即興性とは、音楽を、音の発生ーすなわち何かが鳴る・物が音を立てるーという地点にまで引き戻して、音楽の核にまで連れ戻す同一化する思想に貫かれている。そういう即興性。そこにマイルスは凝っていく。そのことと関連するのであろうが、しかし肝心なマイルスのトランペットが断片。音楽性を剝ぎ取ったところを目指すから即物的な即興性が似てくる。曲も同じレパートリー。あるいは似たレパートリー。なんですよねこのころは。+思い返すと、あのころのバンドseptet自体が、シュトックハウゼンの思想を実践させたがっていたのではないか。ということは、バンド自体が、どんどん音楽的ではない即物的なsoundを目指す方向に、行かせたかったのではないか。音楽的であることから離れさせたいという。それは一般的な音楽リスナーからすると、同じelectricでも1969-1971よりも付いて行きにくい。というと微妙な言い方だけど。ちょっと納得が行きにくい。少なくとも『マイルスを聴け!』での惚れ惚れ超高評価は同意はできない。ああいう話にはならないでしょう。上にも書いたように、元々が、音楽的ではない方向性をもう目指している。夾雑物・異物contaminantに偏執してるとしたらね。

ただし自分の場合、この時期のマイルスのは非常に興味はあります。ああいう演奏しながら消えていったことに。自然消滅のように。チャーリーパーカーの元で始まったジャズ人生の道がここで一応終わったんじゃないのかな。音への飽くなき探究が。シュトックハウゼンの方法自体、どっか音楽の自己否定であり自己解体だし、音楽じゃなくて音に収斂するってことだし。マイルスは自分の音楽はここでお仕舞だと感覚的にそれこそ自然現象のように雲散霧消させた。そういう意味ならあの連作は辻褄合うから。意図せずして終わり方を見せたという。

補足3
補足2まで書きましたが、さらにその後、気が付くことがありました。やはりYouTube動画で、Sly & The Family Stone – Woodstock 1969というのがあります。映画ウッドストックでも使われた、Sly & The Family Stone のライブ音源であり、映画では一部しか使われなかったその完全版ともいえる内容の音源。そこにI Want To Take You Higherというトラックがある。この曲を聴いてて、Agharta冒頭のPreludeと酷似していることが分かりました。Preludeは元々、I Want To Take You Higherをマイルスなりに昇華したものではなかったか。とはいってもSly & The Family StoneのトラックはPreludeよりもダンサブル。曲中でコール&レスポンスもあるし、そこはジャズのような演奏とは異なるグルーヴで貫通されている。そして何よりもPreludeのほうには、マイルスの人間性でもあろう、いわゆるネクラな色合いがある。そこはダンサブルにはならない。このPreludeが、どこか宙ぶらりんな、所属不明な、正体不明感を醸しているのはその宙ぶらりんさゆえであり、ファンクから影響されながらそこには染まらずに、かといってお得意なジャズにしてもいない。そこのいわば折衷。そうなってしまったゆえの所属不明。正体不明感なのである、という事情が透けてみえてきた。ファンクとジャズの折衷。よってファンクではあるがダンサブルにはならない。それがあのPreludeというトラックの独特な位置を形成した。そのことがなんとなく透ける気がしました。

中山康樹氏が『マイルスを聴け!』に書かれていた“マイルスという人は、ファンクをありのままのファンクとして演奏したりはしない。ヒネリを加えたり、水につけたり火であぶったりしたものを、しかもストレートではなく、カーブやシュートで投げつけてくる。”という文章を思い出しました😁

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