アル・マッキボンとブラックライオンのモンクinロンドン

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動画「セロニアス・モンクとアート・ブレイキー」(こちら)にいただいたコメントへのアンサー動画をアップしました。

コメント

人力飛行機さんからのコメント。

いやあ今回も勉強になりましたし色んな関係する音源を聴いてて、楽しい想いを味合わせてもらいました。音楽について色々考えさせられる良い時間でした。ありがとうございます。

動画後半で、演奏家同士の相性という話が出ますけど。たしかに優れた演奏家でありながら相性の良い人が見つからないとか、なかなか居なかったって例はありますね。ロック・トリオで有名なCreamでも、あそこのジャック・ブルースって、あの後も色んな人とやってますけど、あの時代のクラプトン&ベイカーのトリオには及ばない。あの時代のジャック・ブルースは神がかってたけど、それはクラプトン&ベイカーとの相乗効果はあったんだろうなと、今は思います。しかも2000年以降に再結成するけど、もうそこがブルースはクラプトンと張り合う気はなくなって大人しくなってあんまり聴かせなかった。そこもなんか不思議に思えるんですよね。演奏家の相性って同じメンバーでも年代によっても違ってくるっていう。

ちなみにベーシストって私も好きなんですけど。あの音といいフレーズといい。ポール・マッカートニーからビル・ワイマンから。ローリングストーンズ1976年パリ公演の海賊盤DVDってあって、モノラルだけど音の分離が良くてベース音がよく聴こえて愛聴しました。けっこう凝ったフレーズというか、このフレーズないとアンサンブルでこの曲にならないフレーズ出してるんですね。同じ1976年のロンドンKnebworth parkのイベント音源もベース音がよく聴こえて良かった。ビル・ワイマンてエレキ・ベースでもネックを立てて弾く。あの姿勢も特徴的で目に焼き付きました。

正直セロニアス・モンクって人よく知らなくて長い間。画家のエドヴァルド・ムンクのほうが先に知ってて、ムンクとモンクって似てるし、「セロニアス・モンク」て「エドヴァルド・ムンク」と語感も似てて、名前視てもよく間違えてたですね。「私はモンクが好きで」とか読んでも画家のムンクと混同してたり。なので今回ややまとめて聴いて、動画で出てくる1971年ロンドン・レコーディングとか、同曲の1940-1950年代ブルーノート時代の音源と聴き比べたり。今はYouTubeが発達してて簡単に比較できるから。そういうのの発達がなければ私は「ジャズな話」聴かなかったと思います。動画の話をPCですぐ検証できるから今はそこで探究できるから面白いんですね。

動画の中で1971年にモンクがもう若い頃の勢いはないなかで、昔の仲間とレコーディングしたロンドン・レコーディングしたと。しかし、ベーシストのプレイが気に入らなかったと漏らしていたと。その話。私も興味があって、ロンドン・レコーディングの聴いてみたんですけど。気が付いたのが、ブルーノート時代の同曲とロンドン・レコーディングの同曲。ロンドン・レコーディングのAl McKibbonのプレイ聴いてて、音程が同じ四分音符♩の連打がよくある。聴いてると4連打もあり。それが目につきます。で、ブルーノート時代のベーシストは同じ音程の四分音符♩連打はあんまりない。モンクて人はたぶん、芸として繰り返しや平凡・型どおりが嫌い。それはモンクのプレイを年代別に聴いても必ずその好みまた流儀として貫徹されている。モンクって人の演奏家としての芸の矜持いわば作法。面白がらせるが。その為に和音も壊すし。不協和音に。あと、曲のテーマを色んな変奏する手法。The London RecordingでいうとCriss-Cross, Nuttyのなかで曲のテーマを色んな変奏してる時間があります。アイデアが止まらないみたいな。現代思想のD=Gの微分。モンクという人の魅力また特徴がそれであり、いわば芸人でありentertainerなんだけどどこか変則、自らが自らに課した制約でもあったと思うんです。凡庸を嫌う。変であること、定型をズラすを狙う。で、ロンドン・レコーディングのAl McKibbonが、モンクが避けているそれをやっちゃった。四分音符♩同じ音程繰り返し連打。しかし、それもまた悪くはないといえば悪くはないです。なので好みだとも言えます。て分かったみたいに言っちゃってるけどそれくらいしか気が付かないですね実際。ひょっとしたらそのモンクの発言は誤報か作り話な可能性もあるんじゃないですかね。私はここでのベースは嫌いじゃないです。

あと気が付いたのは。モンクの音楽ってどこかで聴いたことがあると思ったんですけど。昔2008年ころ?ドラマで「あしたの、喜多善男」っていう、人の好い男が損ばかりして唯一信用していた親友にも裏切られてると分かり、自殺しようとする、そういう話があった。キャストは小日向文世、松田龍平、吉高由里子、栗山千明、小西真奈美、今井雅之、生瀬勝久、要潤、加藤治子・・・。私は好きでDVDやサントラCDも買って。それの劇中音楽が小曽根真って人だったんだけど、その劇中音楽にそっくり。でもそれは小曽根真がモンクを手本にしていた。それがモンクをまとめて聴いて初めて分かりました。

>(モンクは)凡庸を嫌う。変であること、定型をズラすを狙う。
これは、まったくもってその通りだと思います。

しかし、定型を熟知しているからこそ、定型をズラすポイントも心得ているとも言えるんですね。
つまり、ビシッ!とトラッドなスーツをオーソドックスに着こなしているからこそ、逆に一点だけヘンな形をしているメガネが目立つ、というか。

強調したいポイントがはっきりしているからこそ、それを浮き立たせるためには、他の要素は受け手にとって見慣れたもの(聞き慣れたもの)である必要がある。

それが、モンクにとってはオーソドックスなリズムであり、ベースの音符の選択であると思います。

つまりドラムは、まずはステディな4ビートを叩けることが大前提。
これがあるからこそ、ピアノでのタイミングの「ズラし」だったり、沈黙の「間」が活きてくるわけです。

で、ブレイキーの場合は、ステディな4ビートを堅実に叩くのみならず、力強さや躍動感が加味される。だからこそモンクともっとも相性の良いドラマーと言われ、モンク自身もブレイキーのドラミングが好きだったのでしょう。

逆に、1969年のパリ公演でのドラマー、パリ・ライトは途中でフィリー・ジョー・ジョーンズと選手交代させられている。おそらくその理由は、「手数は多いが、リズムがゆらゆら、安定感がない」からだと思います。

ヘンにトリッキーだと、逆にモンクのピアノのユニークさが相殺されてしまう。
だから、ヘンにオカズの多い(音数の多い)ドラミングだと、せっかくかけてるメガネを強調したいのに、履いている靴が草履で、ギンギラメタリックなネクタイを閉めているようなチグハグなバランスになってしまいます。

ベースにしても同様だと思います。
まずは、ステディに1小節に4つを刻むことが大前提(曲が4分の4拍子の場合)。
そして、出来るだけルート(根音)を提示する。
なぜなら、モンクのユニークさは「右手」にあるから。

よくモンクのピアノの特徴として不協和音、ユニークな響きが挙げられますが、モンク独特の「あの響き」は、右手で形作られていることが多いんですよ。

右手、つまり鍵盤の上の方(高い音)で形作られる音の組み合わせが面白い、斬新だからこそ、あの「コキーン!」とした一聴するだけでモンクだとわかる響きになるんですね。

では、右手の「コキーン」という斬新な響きを映させるためには?
左手が「保守的」であること、なんです。

つまり、コードトーンのベーシックな音が選ばれている。
特にソロピアノの場合、昔、いくつかの曲を実際に音を拾って弾いてみた時に気づいたのですが、必ず(といっても良いほど)、一番下の音はルートなんですね。

たとえば、コードが「Cm7」だとしたら、「今、この曲のこの部分の響きはCなんですよ」とばかりに「C」の音(「ド」の音)をボトム(一番下)に置いています。
あとは、7度の音とか9度の音を重ねて、左手は2音だけという、左手に関してはかなり分かりやすい上にスカスカでシンプルな組み合わせが多いです。時には、結構下の方の音域で、ルートの音1音だけ鳴らしていることも少なくない。
そのぶん、残りのコードトーンや、スパイスとなる音は、右手の方でグチャグチャと(?)組み合わせて、あの独特な響きを生み出しているんですね。

だから、モンクのピアノが一聴奇妙に聴こえつつも、どこか不思議な懐かしさというか安定感を感じるのは、根っこの部分が保守的というか、しっかりとした土台があるからなんですね。

だから、
>和音も壊すし。
は、ちょっと違うと思う。
「壊」しているように聞こえるかもしれませんが、やっていることは「再配列(並べ替え)」であり、その上に「スパイス」として刺激の強い音を1音か2音「加えている」に過ぎないのです。

たしか油井正一氏だったかな? 評論家先生による「モンクのピアノスタイルはハーレム・ストライドのスタイルを伝承し……云々」と書かれた評論を読んだことがあるのですが、多くの人は『ソロ・モンク』の《ダイナ》あたりを聴いて、「なるほど、左手がブン・チャン、ブン・チャンと弾いているから影響受けているな」と納得されていると思うのですが、そのようなリズムパターンを踏襲している演奏は思いのほか少ない。じゃあ、それ以外の演奏では、どこがハーレム・ピアノの影響を受けているのか?といえば、先述した通り、根っこの部分が保守的だというところだと私は考えています。

ただ、このことは、実際に自分自身でピアノで音を鳴らしてみないと、なかなか実感できないことだとは思います。

余談ですが、坂本龍一のソロピアノも、左手と右手の役割分担の考え方はモンクと同様なものを感じます。
彼が作った曲は、モンク同様、コードの流れや、和音の響きが独特なものが多いのですが、だからこそ、そのユニークさを際立たせるために「抑えるべきところはきちんと押さえている」んですよ。
モンク同様、左手はオーソドックスというか保守的、そのかわり右手で弾く音の組み合わせにセンスを発揮している(もちろん、すべての曲がそうというわけではありませんよ)。

このあたりのアプローチ(というか、音の並べ方、積み重ね方)はモンクと似たものを感じます。
しかし、面白いことに両者のテイストは水と油ほどに違います。
このことからも、右手の組み合わせのセンスがいかに重要で印象を左右するかということが分かります。

もっとも、だからといって教授(坂本龍一)がモンクの影響を受けているかといえば、それは多分無いと思います(研究はしたのかもしれませんが)。
むしろ、(ピアノソロに関しては)、エリック・サティのピアノ曲の「考え方」を継承しているのでしょう。
つまり、「シンプルな組み合わせで構造を明示する」ということ。骨格を再配列するだけでも、異なる趣きと拡がりが生まれるという面白さをサティの曲は教えてくれます。
これは、サティの代表曲《ジムノペディ》を思い浮かべてみれば、と。
さらに、もし興味があれば教授作曲の《青猫のトルソ》の音数少ないのに、一音一音が機能的に配列された美しい響きを味わえると思います。

教授自身は高校時代からドビュッシーが好きで、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと言っていた時期もあったそうですが、描きたい「世界」はドビュッシー的なものだったのかもしれませんが、表現における「構造」は(私の場合)サティを感じる曲が多いです。

いずれにせよ、シンプルに構造を明示して、基本ルールを押さえつつ(聞き手が安心感を覚える規制のルールを守りつつ)、それを土台に個性を発露するという表現手法は、服装のコーディネイトでいえば、靴はきちんとしたものを履き、スーツもしっかりと着こなし、だけど、メガネ(上物)で個性を強烈に印象づけるということなのでしょう。

たまたまメガネを例に出していますが、強調したいものは別にメガネじゃなくてもいいです。
例えば、髪型はビシッとキメているし、靴もしっかりと手入れされているものを履いているけど、スーツは真っ赤っ赤でもいいし、時計はギンギラギンでも良いです。
つまり、個性的な要素は1点だけでいいということですね。

これって「お笑い芸人」にも通ずるところがあるのかも?
定型(常識)を踏まえているからこそ、「外し」が生きる。
「外し」の部分で笑いが取れる。

徹頭徹尾、何から何までユニークすぎると、みている方(聞いている方)は、対象のどこに意識をフォーカスさせれば良いのか分からなくなる。単なるメチャクチャに感じてしまいがち。

だからこそ、お笑い芸人にしろ、ミュージシャンにしろ一流のパフォーマーに「頭が良い人」が多いといわれているのは、勉強とか学力面においての頭の良さではなく、ポイント(要点、ツボ)を押える感覚と、その配分バランスを考えるセンスが素晴らしいということなのでしょう。

で、話が遠回りして申し訳ありませんが、「定型+逸脱」の配合バランスで考えると、アル・マッキボンのベースへの不満の理由は私はよく分かりません。

少なくとも「同じ音の4つ刻み」が理由ではないと考えます。
もちろん、「同じ音の4つ刻み」だらけの伴奏だったら、さすがに頭にくるでしょうが、少なくとも「ステディにオーソドックスな音を刻む」という、これまでのモンクの伴奏をしたベーシストの役割からは大きく逸脱していませんし、及第点レベルなのではないかと私は感じるんですね。

「同じ音の4つ刻み」は、ブッチ・ウォレンもよくやっていますし、具体例を挙げるとすれば、モンクが1963年の来日時にTBSスタジオで収録した《エヴィデンス》のテーマの部分なんか、まさに「同じ音の4つ刻み」が生きている好例だと思います。
なにしろ、あの曲は「リズムのズラしと、メロディとハーモニーが一体化したようなテーマ」がミソの曲なので、ベースの愚直なほどの4つ刻みが愚直であればあるほど、「間」が生き、その「間」を埋めるドラミングが際立つアンサンブルが生み出されますからね。

では、モンクの「お前は成長していない」という言葉の意味をマッキボンのベースプレイのどこに見出すのかといえば、先ほど聞き返してみた時点においては「分からない」のですが(まあ、プラモを作りながら聴いていたので、それほど熱心に聴いていたというわけでもないのですが)、「そもそも論」のゼロベースに立ち返ってみると、モンクのその言葉は、どこまでが本気だったのか、気まぐれだったのか、たまたま機嫌が悪かったり調子が悪くてやつあたり的にいった言葉なのか、あるいは冗談半分で放った言葉が意味深長に捉えられてしまったのではないか、という可能性もゼロではありません。

よく歴史学、歴史学者が陥る罠の一つとして指摘されがちなことではあるのですが、ほんのちょっとした偶然や、あまり深い意図の無い一言が針小棒大に拡散したり、前後の文脈を無視して切り抜れかれた部分だけが一人歩きして尾ヒレがついたり、出来事の本質とはあまり関係の無い言葉や出来事が重要事項として喧々諤諤と議論されたり、といったことが往々にしてあるようです。

もちろん、これは私の妄想です。

過去に何度か動画でも語っているのですが、ロンドンでのモンクの演奏は明かに他のモンクの演奏と比較すると肌触りが違う(だから、そこが気になって好きなんです)。
その原因は、その後の(公式な)レコーディングの記録が残っていないため比較しようもなく、それは微妙に表現に変化が生まれつつある段階だったのかもしれないし、そうで無いのかもしれない。
気分によるものなのか、体調によるものなのか、全般的な演奏技術や感性の波がもたらしたものなのか、それとも、本当にたまたま「そういう結果」に落ちついちゃっただけなのか、それはもしかしたらモンク本人にも分からないことなのかもしれません。

そのような状況下で発したモンクのマッキボンに向けられた言葉が、果たしてどれくらいの重さを持ったものかは、今となってはわかりませんし、本当にたまたま虫のいどころが悪かっただけだったのかもしれません。

なんだ、そんなこと?
理由は、たったそれだけ?

歴史、いや小説なんかでも、拍子抜けするほどの単純なことが原因だったり、動機だったりすることもあります。

いやいや、そんなことはないでしょう、それ以外にももっと理由があるはずだ。
そう思いたがる人は、理由なきところに、無理をしてでも理由を見つけようとする。見つかれなければ作ろうとさえする。

しかし、無いところをいくら突ついても、何も出てこない。
意味がないと納得できない人は永遠に腑に落ちないかもしれませんが、物事のすべてに意味や意図があるというわけでもないと思います。

「たまたまそう言いたかったから言ってみただけ」「たまたまやってみたかったからやってみただけ」ということだってあるわけだし、そこに意味を見出そうとしたり、原因を探ろうとしても、分からないものは分からない。
だから、「へぇ、そうだったんですね」とスルーする姿勢も必要だと思ってます。その見極めは難しいですし、法則はないのですが…。

なので、私は人力飛行機さんの、
>ひょっとしたらそのモンクの発言は誤報か作り話な可能性もあるんじゃないですかね。
という説も、可能性としては十分あり得ることだと思ってます。

人力飛行機さんからの返信。

はい。どうも詳しい説明ありがとうございます。色々腑に落ちる説明でしたよ。ちなみにあのモンクのロンドン・レコーディングCD。YouTubeでも出てたんですが、こぼれてる音源もあったので一応買いました(笑)。一回しか聴いてませんが(笑)。永井さんて方がたしかモンクのファンで色々やり取りなさってるのをずっと読んでて、そんなスゴイ人なのかと思ってましたが、凄いか否かはともかく演奏が聴かせますねとにかく。その、返信にあった、ルート音は外さず高音で和音を凝ると。いうところかもしれませんが。退屈しないんですね。その、ベーシストには不満なロンドン・レコーディングでさえが。おかげさまで趣味が増えて我ながら何よりです。ありがとうございます。