超テキトー!ジャズレビュー(評論文)の例文集〜ボビー・ハッチャーソンの『ハプニングス』とヴィブラフォン奏者

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以前アップした動画「ジャズ・ヴィブラフォン ボビー・ハッチャーソンとミルト・ジャクソンの魅力を少々」(こちら)にいただいたコメントに対してのアンサー動画をアップしました。

コメント

TAKESI0506さんからのコメント。

吉村浩二さんというと、ブランフォード・マルサリスのアメリカの「プレイボーイ」誌93年12月号に載った発言に対して、スイングジャーナルに感想を書いていたのを思い出しました。

ブランフォード・マルサリスの発言

「日本人はジャズの歴史や遺産については詳しいが,ボクらの音楽を理解しているとは思えない。ただ唖然と眺めているだけなんだ。きっと誰かにすすめられて来るんだろうけど,ただ頭をかきむしって拍手して帰るだけなんだ。クラブはまだいいけど大きなホールに来るお客っていうのは変わってるよ」

吉村浩二さんの意見
『〝わかる〟〝わからない〟を巡って、音楽を愛するようにそれを聴いてくれるファンを愛することは永遠の課題

 聴く人が素晴らしいと思う音楽が、素晴らしい音楽。ぼくは、そう考えている。
 このことは、他のすべてのことについてもそうだと考えている。飲む人がおいしいと思うワインが、おいしいワイン。食べる人がおいしいと思うスパゲティが、おいしいスパゲティ。たとえが偏ってしまったかもしれないのだけど、ぼくは、そう考えている。
 こういうテーマになった時、〝わかる〟と“わからない〟という言葉が出てくることが、ぼくには、よくわかりません。
 ワインを飲みたいと思っている人には、はじめて飲んだとしても、プイイ・ヒュイッセのふくよかさははっきりと感じられる。
 それは、ワインを作る人たちが、その味を目ざして一生懸命に頑張っているからだ。ワインを飲む人たちが、ああ、ふくよかだなあと感じるその味を目ざして。
 ぼくは、ものを作り出すこと、そして生きるということはそういうことだと、考えている。
 そして、それをやっていく上で、一番むずかしい問題になってくるのが、カスタマー、コンシューマー、クライアント、つまりそれを味わって楽しんでくれるお客を愛するということ。
 これは、別に、ブランフォード・マルサリスをはじめとするアーチストたちだけではなくて、ぼくたちの毎日の生活の中で、経験することだよね。
 アーチストは、もちろん音楽を愛しているのだけど、それと同じように、音楽を聴いてくれるファンを愛するのは、とてもむずかしい。
 生きていく上での、永遠の課題だなあ。
 課題や宿題が大切だというのは、みんなよくわかってはいるのだけど、時々、やりたくないということもあります、ブランフォード・マルサリスは、ちょうどそんな気分の時なのだと、ぼくは、思うのだけど』

このブランフォードの発言に対しては小川隆夫さんや瀬川昌久さんも意見を述べてますが、代表として寺島靖国さんの過激な反論を上げておきます

『余計なお世話と言いたい!
ジャズは聴き手の自由なのだからミュージシャンに聴き方を云々される必要はない

まずブランフォードの「日本人はジャズがわかっているのか」という発言。余計なお世話といいたい。大体アンタのテナーにジャズを感じたことはないんだ。調子よくフワフワ鳴っているだけ。コンサートのお客も「こいつ身体張ってないな」とわかるから白けちゃうわけだ。ウイントンを見ろ。この間のピットインのコンサート。オレにはジャズしかないという感じで、あの厚い胸がはりさけるようにして吹いた。客席が総立ちだった。くだらないこと言ってるヒマがあったら弟のように「ジャズ命」という感じで吹けるように練習したらどうだ。
 まあ、あの郵便貯金とか、ああいう会場がよくない。もう、ああいうところでのジャズ・コンはやめにしたら。戦後と違うのだ。ツバキがかかるようなところでなければライブはつまらない。
 それと、本誌2月号の「論点94」の後ろのほう。読んでいて青スジが立ってきた。「入魂のオリジナルよりスタンダードを散りばめた作品が売れる不思議……この人たち本当にジャズがわかっているのか」だと? わかっているからスタンダード入りを買うのだ。なにが「入魂」だ。愚にもつかない旋律のつまらないオリジナルを書いて「入魂」が笑わせる。スタンダードよりいいメロディーを書いてみろ、と言いたい。皆んなそれを待っているのだ。「ハード・バップが偏愛され過ぎる」だと? お金を出して買うのに、誰がつまらないジャズを買うものか。ハード・バップがいちばん面白いからそれを買うのだ。「常に進化(深化)すべきジャズ」だと? ハード・バップを深化すればよいのだ。ジャズはハード・バップに決まっているのだ。
まあ、要するにジャズは聴き手の自由だということ。ミュージシャンに聴き方を云々される必要はない。われわれはミュージシャンがわかるようにはわからないが、われわれがわかるようにはミュージシャンはわからないのだ』

そうなんだぁ。
生きていく上での、永遠の課題だなあ。
そして生きるということはそういうことだと、僕はそう考えている😆

Humanflyさん⇒TAKESI0506さん

コメントさせていただきます。
吉村さんは、(レイ・ブライアントについて書いた文章でしたか)「優れたものは受け手に何も強制しない」という書き方をされていましたね。そういう点では、寺島さんに近い立場なのでしょうが、「強制しない」という柔らかい姿勢を支持する人たちの間で、言い方がここまで柔らかいものと攻撃的なものに分かれるのは何だかなー、という感じはしますね

あと、ブランフォードもこの手の炎上(という言い方を敢えてします)多い印象ですね。

名言ですね!
>「優れたものは受け手に何も強制しない」

龍 大阪さん⇒TAKESI0506さん

スティングに日和ったブランフォードが、「よく言うわ」って言いたい、言いたいw

Humanflyさん⇒龍 大阪さん

チョー失礼ながら、私もそう思っていました>ブランフォードとスティング。
ジャズという古い権威の威を借りたいロックミュージシャンと、ジャズミュージシャンの中では若手なので、俺はロックのようなヒップな音楽も分かるんだぜという顔をしたいジャズミュージシャンの間で利害が一致した結果…という見方は失礼に過ぎるのでしょうか😅

ただ、時代・世代の問題を除けば、この辺、マイルスも心情・性格的にはあんまりブランフォードと変わらなかった、とも考えていますが。

龍 大阪さん⇒Humanflyさん

返信ありがとうございます。ブランフォードに関しては概ねそんな感じだと思いますけど、マイルスはちょっと違うように感じます。超個人的な見方ですけど、1981年にマイルスが復活したときに今後自身が進むべき音楽スタイルとしては、ジェームス・ブラウンやその後引き継ぐ形でアメリカでは、はやったP-FUNKとかパーラメントと呼ばれたムーブメント(日本では、ほとんど紹介されなかったorz)、そのファンクスタイルとジャズの即興演奏を融合させることができないか、というテーマがひとつあったように思います。
ファンクスタイルは、コード的にはひとつかふたつぐらいで、そこにカッコイイベースパターンを基軸にして、ホーンセクションが煽っていく、そのような形式だと認識してます。そして、ジェームスブラウンだと、ラップ的に「ゲロッパ」とか「フンッ」とか言いながら歌っていく。
使うコードの数が少ないので、マイルスの好きなモード的な演奏ができる。
それでね、そのマイルス流ファンクを成立させる最適なベーシストがダリル・ジョーンズだったんですけど、ブランフォードが、そのダリルを連れてスティングのバンドに言ってしまったと。
このあたりは、マイルスの自伝にも書いてあって、相当くやしかったんだろう。さらに言えば、ブランフォードにもマイルスバンドの固定メンバーでやってほしかったと思う。
ダリルのあのパキパキの立ち上がりの速いスラップや、ツーフィンガーでブルースを弾くときのズッシリとした重量感は、彼独特だから。マーカスがポールチェンバースだとしたら、ダリルはジミーギャリソンみたいな感じ。
そんな風に模索してた時に、突如現れたのが、プリンス。マイルスが初めて体験したパーカーやガレスピーの再来だと思ったに違いない(笑)。静かなバラードのような曲は別だが、アップテンポの、例えば、バットマンのテーマになったバットダンスとか、何言ってるかわかんないし、展開がどんどん変わるしだし、なぜ、プリンスに人気があったのか不思議にも思う。あんな、前衛的な曲を、ほんとにみんな楽しんで聞けたのかな?
そんで、プリンスに自分のやりたいことをやられてしまって、ちょっと路線変更するために、また、マーカスを呼んで作ったのが、「TUTU」と「アマンドラ」ってわけだ。

>マーカスがポールチェンバースだとしたら、ダリルはジミーギャリソンみたいな感じ。
言われてみれば!
うまい喩えですね!

Humanflyさん⇒龍 大阪さん

返信ありがとうございます。

当方は、単純に、マイルスも新し物好きで軽薄なところはブランフォードとあんまり変わらないよ、というくらいのつもりで書いたのですが、大変興味深い方向へ話を持っていってくださいましたね。

マイルスは、タレントスカウト型というか、オーガナイザー型というか、ジャズマンをアドリブ一本鎗型とバンドオーガナイザー型に分けると後者だと思うのですが、欲しいプレイヤーを手に入れないと気が済まないところはあるんでしょうね。

アドリブ一本鎗型(もちろんそれ以外の側面もある訳ですが、念の為)がパーカー、パウエル、ロリンズ、コルトレーンらだとするなら、オーガナイザー型はエリントン、モンク、ちょっとタイプが違うけどブレイキーといったところが挙がると思いますが、やはりマイルスのバンドとその形態での音楽形成・運営法はエリントンの影響が大きいと思うのです。ぱっと聞きは全く違うものですが、アガルタ&パンゲアの頃のマイルスが最もマイルスがエリントンに近づいた時期だと思っています。

一方で、エレキマイルス期は、マイルスもプログレやファンクにも傾倒していって、スライ・ストーンやプリンスのやった、独りで音を重ねていく手法にも(マセロとマーカスも付き合ってはいたのでしょうが)手を出すようになっていって、この「独りで何でもやる」というやり方は、エリントン的な「絶対的独裁的オーガナイザーが、参加しているアドリブ屋各人全員のいいところを最大限引き出す」やり方と、かなりぶつかるものだったと感じます。エリントン的手法を極めた後の長期休養期間、そこから復帰してきて以後のプリンス的方法への急速な傾斜、という極端から極端へ走る変化がマイルスにあった、と思っています。

あんまりブランフォードやスティングと絡まない話になってしまって、すいません。
マーカス・ミラー=ポール・チェンバース、ダリル・ジョーンズ=ジミー・ギャリスンというのは目からウロコでした😋

博 橋本さんからのコメント。

「コメント返し」有り難うございます。
相変わらずの余談ですが、2001年に河出書房より刊行。
『ビル・エヴァンス KAWADE夢ムック<文芸別冊>』には、
寺島靖国×後藤雅洋「ジャズ・スタイリスト・エヴァンス」という対談が掲載されています。

TAKESI0506さん⇒博 橋本さん

『ビル・エヴァンス KAWADE夢ムック<文芸別冊>』の、後藤さんと寺島さんの対談は残念ながら読んだことはないですが、後藤さんが中山康樹さんと村井康司さんと対談した「ジャズ構造改革」という本の中で、この後藤×寺島対談についてちょっと語ってます。後藤さんも中山さんも過激なことを言ってるので内容までは書きませんが、「ジャズ構造改革」の刊行は2006年ですから、2012年に出た増補版の対談では、どのように変化しているのか興味がありますね😢

博 橋本さん⇒TAKESI0506さん

文芸別冊のエヴァンスは2023年11月に単行本化されて再々度の発売があった様ですね。
『ビル・エヴァンス:孤高のピアニスト』河出書房新社刊

人力飛行機さんのコメント。

感想⑴
元動画「ジャズ・ヴィブラフォン ボビー・ハッチャーソンとミルト・ジャクソンの魅力を少々~次号の『ジャズ批評』No.227の特集はヴィブラフォン!読者投稿募集中!」から聴きましたけど。引っかかったのはそれへのコメントで「皆さん、どういうジャズ批評を書いてるんでしょうか」という問い合わせに主さんが、ジャズ批評のタイプ別分類を、いわばマニュアル化をしてしまってるところですね。

先日のオフ会でも私はジャズへのジャズ・ファンではない音楽ファンからの意見として、ジャズ・リスナーは音源を軽々と経巡る。一つの音源に長い間、逗留しない。一つの音源にさほどこだわらない。別の音源にじきにまた旅行する。そこがフットワークが軽すぎる気がする。て書いた。書面に書いて、お3方に配布しました。そのことって、たとえば私なら「あの晩、あの音源があったから乗り越えられた。あの音源にはお世話になった。寄り添ってくれた」という同伴感覚とも繋がる。ジャズ以外の分野では音楽に対する「あのとき世話になった借り・恩」とかある。これは大抵ある。音楽との付き合い方として。そこから音楽が生涯の伴侶にもなる。

ジャズの場合、元々が、「テーマの変奏」が手法なんですよね。アドリブの始まりがそうで。ということは、最初から、どうやって強度を残すのか。テーマの変奏でありながら注目させる、聴かせる、買わせるにはどうしたらよいか、という問題を抱えている音楽、なんですよね。そこでジャズはどうするかといえば、アドリブなんだけど、耳の残るアドリブを生むには、という手法を研究する。さまざまに。あと、とにかく超絶技巧を身に付けて聴かせる。ようするに、1.耳に残るアドリブ 2.超絶技巧 というのは主要な課題になりました。最初からジャズという分野では、傾向として、他の分野のメロディ中心音楽にたいする凝り過ぎマニアック専門的になる傾向が付きまとっていた。つまり過剰に知的音楽になる性格。というのはテーマの変奏なんだからこねくりまわしていく傾向が最初からあるそこでしかし聴けない音にはしない聴かせる工夫が、だから専門性と一緒に発達した。てことですよね。その工夫が上記の2点に集中。

そこでたとえばマイルス・デイヴィスの特徴、他のジャズマンとの違いも取り出せる。マイルス・デイヴィスの場合は、ジャズがこねくり回す傾向を自覚して、そこをそう聴こえないようにする自覚があった。そこであの人の演奏や方法の特徴が生まれた。

で、音源を経巡るフットワークの軽さ、というジャズ・リスナーの特徴もそこから、ジャズという形式の性質から発祥する。変奏であるから、「もっといい変奏は?」とどんどん経巡る聴き方が当然出てくる。で演奏家もそれに応えようと奮起する。それがジャズにおける演奏家とリスナーの関係。私が冒頭にあげた、オフ会で配布した疑問点はジャズという形式の根本にある難点でまた同時に面白いところでもある、てことですよね。

人力飛行機さんからのコメント、続き。

感想⑵
で、そこまでジャズという形式を詰めて。音源を経巡るようになるフットワークの軽さが不審であると私が書いた。で今度は先の元動画でのコメントへの返信で、主さんはジャズ批評のマニュアル化もやってしまう。できてしまう。いわば、主さんはジャズ批評を経巡ることでパターン化していることを発見する。パターン化していることを発見できたから今度はマニュアル化できる。

あのマニュアル化を通読してて、実に味気ない気もしたんですが。一方、ジャズという分野には、どんどん変奏を繰り返す、その性格があり、そうやってリスナーにたいして、音源を経巡らせる性格がある、というのがあり、「もっと良い変奏はないか?」というふうに。フットワークの軽さが必須な。そういうジャズ演奏家とリスナーの関係がある。でリスナーによる批評もマニュアル化されている。類別されている。どれかに入る、とされている。それは主さんによる、いってみれば批評の経巡りなわけですよね。どんな批評があるのかという旅行・見聞録みたいなもの。ジャズ・リスナーが音源を経巡るのと同じようにジャズ批評を経巡ってる。フットワーク軽快に。で主さんによるこのジャズ批評の類別化にたいして、コメント主から「私はどれにも入らないものを書きたいと思います」とのコメントも寄せられている。。

ここでまたもや先日のオフ会での思い出に移らせてもらいたいのですが。あの日いらっしゃったkamaichiさん。ジョン・コルトレーンの日本公演1966年録音を後生大事に、聞くところによると「今日の晩も聴きたい」とか仰る。で、あとご自分の葬儀ではマイルスのIn a silent way におけるIt`s about that timeをかけて欲しい。もう決めてある、と仰る。

そういうkamaichiさんのジャズとの付き合い方って、ジャズ・リスナーとしては特殊ではないのか。ああいう一個の音源への拘り方というのは。たいていジャズ・リスナーは色んな音源を経巡って「もっといいアドリブはないか」と経巡るようになる。そういうのがジャズ・リスナーの典型でしょう。一個の音源にいつまでも拘泥するのはジャズ・リスナーとして特殊にみえる。しかし実は、音楽との付き合い方としては、こっちのほうが実は正統派。とも言えるんですよね。たった一個の音源、というか数枚のレコードを毎日聴いてるいつまでも聴いてる。

でここでジャズ批評の問題に、先ほどのマニュアル化ということにまた戻ってみて。マニュアル化されていようが、類別されようが、構わないのである。自身が「自分にはこれしかない」「この書き方しか今はない」というものを見つけられるか、が大事なんで、どこに類別されていようが実はどうでもよいのである。好きなように分類すればよいのである。自分には今この書き方しかないのだから。そういう姿勢が実は何よりも先行すべき課題であって問題なのである。この最後の部分を、ジャズ批評の書き方としては私からは言い残しておきたいと思います。  2024/05/12

>いわばマニュアル化をしてしまってる
マニュアル化というよりは、テンプレート化ですね。
もちろん、冗談テンプレですが。
なので、あと3パターンくらい作れますw

>ジャズ・リスナーは音源を軽々と経巡る。一つの音源に長い間、逗留しない。一つの音源にさほどこだわらない。
それは、ちょっと誤解されていると思うんですけど、少なくとも私に関しては、ですが、好きな音源はしつこく聴きまくっていますよ。同時並行して1ヶ月に平均10枚くらいは新旧問わず「未聴音源」もは聴いていますが。
これはおそらく多くのジャズファンも同じなのではないでしょうか。
旅には出るけど、戻ってくる家もちゃんと確保している、というか、パソコンでは「巡る」けど、(プレイヤーがある人は)ターンテーブルの上には同じレコードがのったまま、とか。

これを読書に置き換えると、私は大体ですが、1日に1冊のペースで本を読んでいます。
とはいえ、熟読、精読というような「じっくり読み」ではなく、かなりのスピードで「何が書いてあるか」「著者が言いたいことは何なのか」を「探す」ような目線でページをめくっています。
まあ、TV視聴におけるザッピング、あるいは早送りチェックをしながら「ポイント」を探すような感じですね。
文体を味わうとか、学ぶとか、感動するというのが目的ではなく、頭の中にインデックスを作るイメージです。これはこれで楽しい作業で、頭の隅っこに留めておく程度なのですが、ある日突然「あれ、なんだっけ?!」と急に記憶が蘇ったりして、改めて読み返したり、買い直したりして再読することもあります。で、再読を繰り返している本が、いつの間にか愛読書となり、折に触れてページをめくる本に昇格することもあります。
だから、30回も50回も読み返している愛読書もありますし、実際枕元に置きっぱなしで折に触れて読み返しているボロボロの本も多数あります。

このように、いつの間にか私の生活の中では、本も音源も目的が「リサーチ」と「味わう」に分けられている感じになっていますね。
もちろん、お金のなかった学生時代には、そのようなことは出来ず、買ったものは、たとえ自分の中で「ハズしたかなぁ」と思ったものも、次のお小遣い(やバイト代)が入ってくるまでは、とにかく、もったいないのでトコトン味わい尽くそうとしてはいました。

しかし、社会人になってある程度遣えるお金に余裕が出てきたり、雑誌編集部時代から現在に至るまで、「読んで紹介してください本」や、(たまに)「聴いて紹介してください音源」が送られてくるようになると、じっくりと吟味できる時間的余裕もなく、かといって「お付き合い」の関係上まったくスルーするわけにもいかず、いつしか「step1:チェック」⇒「step2:通読」⇒「step3:熟読」⇒「step4以降:再読(再々読、再々々読…)」……と、自分の中に無意識に、そう、いつの間にか「段階」のようなものが形作られていたようです(と、書きながら、文字化して初めてそうだったんだ!と気づいています←アホ)

ジャズ(に限らずですが)、音源に関してもまったく同様で、最初は「通し聴き」、引っ掛かったら「再び聴き」、繰り返し聴いているうちに「愛聴盤」になっていく感じです。愛聴盤って、今思えば、10回や20回程度ではならないものですね。私の場合ですが、「ベースで弾いてみたいぞ!」と思った箇所は、しつこいくらい同じ箇所を何度もリピートしていますので、さらに、その箇所が弾けるようになったら、今度はそれに合わせてベースを弾いたりしているので、それこそ何百回、もしかしたら千回以上リピートしているのかもしれません。

マイルスの『カインド・オブ・ブルー』、チャーリー・パーカーの『サヴォイ・マスターテイク集』、ウォルター・ビショップJr.の『スピーク・ロウ』などは、本当によくリピートしましたし、音に合わせてベースを弾いたりもしましたし、単に聴くだけの鑑賞も多く、「愛聴版」を通り越して「血肉盤」ともいえるのかもしれません。これらの音が「核」となって、それに無数の種子、胞子が日々付着していき、その中のいくつかが発芽したり、果実を実らせることも(たまに)ある、といった感じです。

今書いていて気づいたのですが、サッと聞くだけの「チェック聞き」から、愛聴盤になるまでには、こちらが思っていた以上の回数を聴いていることからも、かなりの時間が必要となり、私のみならず、多くのジャズ好きは、あれこれたくさんジャズのアルバムに手を広げていながらも、実際のところ、「我が心の作品」と呼ぶべきアルバムの数は、思いのほか少ないのではないかと思います。

超好き盤⇒数える程度
今後の超好き盤候補⇒数百(千〜万?)枚

これが、多くのジャズファンの姿なのではないでしょうか(推測ですが)。