以前アップした動画「【後編】昭和49年『ジャズ批評』No.18より」(こちら)にいただいたコメントを紹介した動画をアップしました。
コメント
永井勉さんからのコメント。
s思考回路が一緒だ・・・WWW
単純にモンクにズキンとしたから、、モンクのコピーを
しただけです・・・あっしの場合は楽器のテクニックはダメなんで
アレンジで創ってました・・・!!!
モンクの音世界は何か軽い毒が入っていて好きです・・・WWW
s思考回路😆
そう、スペシャルな思考回路なのですよ♪
人力飛行機さんからのコメント。
まず、「コメントを頂いた動画」の欄に元動画が貼って無かったのでここで私が貼っておきます。
【前編】昭和49年『ジャズ批評』No.18より~「ジャズ・ジャーナリズムをめぐって~もしくは現代ジャズ・ファン論」
【後編】昭和49年『ジャズ批評』No.18より~「ジャズ・ジャーナリズムをめぐって~もしくは現代ジャズ・ファン論」
私のコメントも取り上げてくださってありがとうございます。
動画もさることながら、元動画のコメント欄も面白いんですね。TAKESI0506さんがコピペしてる中山信一郎の批評文の中で、モンクの60年代のバンドにいたチャーリー・ラウズが、当時のジャズ批評では不評で「ラウズとか手を切れ」と言われていたとか出てくる。私、へえ・・・と思ってね。つい最近、YouTube動画で1960年代のモンクのバンドの演奏視聴して、「このバンドは良いなあ。各楽器が生き生きしてる。モンクも信頼してるようだ。ときどき立ち上がって合わせて踊ってる。バンドの演奏を自ら楽しんでる。きっと理想的なバンドだったんだろう」とか思って。その自分の聴き方とまるで違う評価が昔はされていたと。いや驚いた。あれは良いバンドですよ。いや耳がおかしいよアレを駄目出しする人は。で、そこの頁はどうやらバンドのモンクとソロ演奏とどっちが良い論争らしかったけど、どっちも必要だったからモンクは実践した。どっちも彼には必要で、疎かにはしなかったが回答。なのでそういう比較するならば、バンドとソロではどういう意味を自ら与えていたのか。どう演奏は変えていたか。をやらないと、良い批評にはきっとならない。それこそ高野雲さんなら指摘できるんでしょうけど、そこを批評しないと。どっちが良い以前にね。と思います。私は60年代のバンドは好きですねーさほどモンクも知らないんだけど。
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あと、私のコメントに色々仰ってはくれてるんですけど。で色々仰ってもらって、楽理を学ぶのも大変。技術を身に付けるのも大変。しかしその苦痛も快楽。知識や技術がないと他のプレーヤーとのコミュニケーションも取れない。とか。説明してくれてはいるんですが。で理解できるんですが。主さんの御話し聴いてると反論する気も起こらなくなってくる。なんででしょうね。あのDJ風の声が気持ちいいんですよね。声が気持ちいいってYouTuberとしては大きい。なんか楽しくなってくる。私なんかもYouTubeやってますけど鼻水すすったり噛んだり全然聴き直して気持ちよくならないですねえこれが。せめて最近はpowerdirector使い方わかってきて工夫して。それまでは自分の姿を自撮りで撮ってそのまんまだったから。唾液が飛んでたりして。視てられないのもありました。powerdirector様様(笑)。で、さっそく前置きはこれくらいにして(笑)最近渡辺美里のインタビュー視たんです。90年代でNHKのETVで大江千里とかを相手に喋ってる。それ視てて、この方って歌手になったのは運命だなって思えたんですよね。とにかく声を出して歌うことで生きてると、その時だけ感じられる。それがあるからこの人は歌うことを止めないし、職業にしてしまう。なんで彼は作家になったのか。体内に流れる血球の流れ。宿命。というのは小林秀雄が処女作の「様々なる意匠」で取り出した概念ですが。やっぱりその人が作家なり歌手なり、なるその背景には自由と運命という要素が介在する。しかし、やはり根本にあるのは衝動じゃないのかと思います。文字を連ねる。音を出す。声を出す。そうしてしまう。衝動が止まない。そのなかで学習が必要だと思えば独習か学校かはともかく学んでいく。身に付ける。しかしやはり問題は衝動。表現衝動というかね。それが止まないことじゃないかな。文字を連ねるにしろ音を出すにしろね。
あとはどういう分野に惹かれたかで道も変わってくるんだろうけど。しかし、特に60年代以降の音楽界で、ロックやフォークが台頭した背景には、そっちのは独習で身に付けられることが大きいと思うんですよね。学習が多いと、その分初期衝動が削がれていくのもあるんじゃないですかね。仰山学習しながら初期衝動を失わないって難しい多分。絵画とか歌とか、初期衝動を温存しやすい。ギターも。+音響技術がこの時代に進歩したのもあるんでしょうね。録音技術とか。なんとかトラックとか。あとビートルズの日本公演の音響って今聴き直すとひどい。音がチープで。しかし徐々に向上した。ライブでの音響技術の進歩もあった。それで60年代にあれだけ色んな人が現れたと思うんですよね。初期衝動ってなくなっていくものだから。ジャズにはその難しさもあるんでしょうね。いわゆる沢山のスキルの習得が必須だとしたら。まあアドリブ演奏の分野の特徴かもしれませんね。アドリブという専門技術の習得が必須という。
しかしここでまた昔書いたことの反復になるけど、ジャズギターとロックギターと、有名どころを聴き比べると、ロックギターの有名どころのほうが耳が行っちゃう。なんででしょうね。そっちのほうが私とかの音楽衝動に刺さる。それがあるから耳がそっちに行っちゃう。技術や知識はともかく刺さるんですよね。そこでジャズギターは勝てないんじゃないか。音楽衝動に訴えるという面では。
表現における運命と衝動。それがないと続かないんじゃないか。そしてジャズの分野でもそれは同じじゃないか。ジャズみたいな専門家のスキルが必須な分野では見えにくいけど、しかし見えにくいだけで実はこの2点が大きいのは同じだろう。ということで、主さんの御話し聞いてて、補足したいことというのがこの2点ですね私としては。多分間違ってはいないと思ってます。
ジャズ、そりゃ衝動ありまくりっすよ。
表現衝動なければ、あんなに七面倒くさい(?)練習しまくりませんから。
その過程って、語学習得(外国語の習得)に近いのかもしれませんね。
会話のほう。
単語に文法、常套句など覚えることだらけ。
面倒、辛い、挫折しそうになるかもしれないけど、それでもメゲずに続ける人って、やっぱり「会話したい」「コミュニケーション取りたい」という衝動というかエネルギーが持続しているからこそ、だと思うんですよね。
で、学習初期段階は、言葉の数足りなくても、経験値少なくても、外国人と話せたことは嬉しいし、緊張するし、失敗もするかもしれないけれど、これらの経験が糧となってさらに学習が加速していく(人もいる)。
ジャズの楽器習得の過程ってそれに似ているところがあって、私の場合はベース始めたての頃なんて、指は痛いわ、手首痛いわ、肩凝るわの肉体的苦痛や、コードやスケールや理論覚えなあかんわ、覚えたとしても、うまく「サッ」と音として出せないモドかしさがあるわで、もう大変。
イヤイヤ始めた人(がいるとしたら)、多分、入り口の段階で挫折しているでしょうね。
それでも、続くのは、(私の場合)、単純ですけど「好きだから」、「やりたいから」。
他のジャズをやってる楽器奏者と「合わせたい」という欲求が、肉体的苦痛や、脳味噌オーバーヒート状態を上回っていたからでしょうね。
外国人と楽しげに会話をしている人に憧れるように、ジャズやってる人と自由に楽器を操り、音で会話を交わしたいという欲求があったからこそ、日々しこしこと練習が続けられたのだと思います。
あと、少ない単語を駆使してカタコトで会話できるジャズ仲間が周囲にいたことも大きかったと思います。手持ちのカードが少なくても、少ないなりに工夫して音でコミュニケーションを取っているうちにだんだんと「もっとこうしたい」「これが足りない」ということが分かってくる。課題が分かると練習にも熱が入る⇒楽しい
上達すれば、もっと楽しい。
この繰り返しだったような気がします。
で、調子に乗って、まだまだ人前で演奏できるレベルでもないのに、ついつい人前で演奏しちゃう。
下手なのにライヴの予定を入れちゃう(笑)。で、焦る。慌てて間に合うように練習する。音出したい、音合わせたい、この欲求も衝動といっていいのかもしれません。
ま、アウトプットされた音色が聴き手に及ぼすインパクトや衝撃度のほどはわかりませんけど、ジャズやっている人は(たぶん多くの人は)、内奥にはかなり熱くてカロリー高いエネルギー源を持っていると思いますし、それを七面倒くさい過程と時間をかけてアウトプットしているのだと思います。
オカハセちゃんねるさんからのコメント。
もう37〜38年も前のことですが、チャリンコでギター背負って全国放浪してた頃(まだサックスは始めていません)、会津若松のファイブスポットのマスターには、とてもお世話になりました。多分10日間以上滞在してたかと…昔のことなのではっきりと記憶していませんがマスターの家に泊めて頂いていた様な気がします。
僕にとってはあのマスターは優しい人でしたよ。今はどうしてるのかな?
ドロマスさんに変身したとか?😅