ジョン・コルトレーンの《マイ・フェイヴァリット・シングズ》、決定的名演は?

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中山康樹・著『JAZZ名盤名勝負』(廣済堂)のジョン・コルトレーンのところを読んだ動画をアップしました。

コメント

TAKESI0506さんからのコメント。

コルトレーンは私にとって特別好きなミュージシャンではないですけど、このマイ·フェバリット·シングスは大好きです。

この演奏については絶賛する批評ばかりで、中山康樹さんがけなしているのは意外でしたが、実は寺島靖国さんもスイングジャーナル90年1月号で、この演奏を酷評しています。

『こういうことを言うとまたひんしゅくを買うのはわかっているが、やはりコルトレーンは音痴である。たとえ音痴でも唯一許されてしまう音楽がジャズであるし、コルトレーンは他に実績があるのだからはっきり音痴と表明してかまわないと思う。しかし、〈マイ・フェイバリット・シングス〉のような歌曲を演奏する場合は許されない。インパルス盤「セルフレスネス」の頃になるとそれでも相当うまくなるが、初演の本盤では実にたどたどしく、聴いていて切なくなってくる。ファンの諸氏はだまされている。そして他のミュージシャンが誰も試みなかったこのある種スイートな曲を〝あの〟コルトレーンが取りあげたことだけで感動してしまっているのだ。B面を聴いたことがありますか。もっとひどい。コルトレーンだから許されるというのが、ぼくにとってしゃくの種だが、こんなメロディーの吹き方をしたら他のミュージシャンならいっぺんで首だろう』

この記事については、次号の読者投稿欄に長野市の男性から批判文が載りました。
要約すると――

『寺島靖国はジャズの何なのだ
 現在、ジャズ界は偏見のかたまりとでも言うべき人が評判を呼んでいる。そう、寺島靖国氏である。その著書は好評だそうで、ぼくも持っているが、ぼくは納得できない。なぜなら感情的な好き嫌いで評しているからだ。氏は、パーカーや、モンクがわからないという、それはしかたがない事だがそこから自分流にパーカーやモンクをけなすのは変だ。わからないものをどうして評する事ができるのだろう。自分で勝手にジャズを決めつけて、そこから外れたらダメと言うのでは幼稚すぎる。僕はこうした、自分勝手な理由で好き嫌いを言う人にジャズ(パーカー、コルトレーン、モンク)を語る権利はないと思う。寺島氏に偏見はあっても柔軟さなどない。一見斬新でも、自分の固定観念にしばられているから、考え方に広がりがない。自分はジャズ喫茶の親父だから好きに書いてもいい、というのは思い上がりだ。寺島氏の発言が影響力をもっているのは明らかな事だ。だから無責任な事を書かれては迷惑だ。先月号の「マイ・フェイバリット・シングス」についての文はコルトレーン・ファンの心を傷つけた大暴論だった。コルトレーンをめったに聞かない人にあんな事を書く資格は絶対ない。ぼくはあれを読んで悲しくなってしまった。「ファンの諸氏はだまされている」などはもはや良識さえ疑ってしまう。大向う受けをねらったニセモノと思えばまあいいが、それでも僕はこうしたデタラメを平気で書くテラシマを許せないと思っている』

これに対して宮崎市の男性からの批判が次号に載りました。

『あなたの寺島氏の本の読み取り方はまったく的をはずしている。一言で言えばあの本はジャズの評論書ではないのだ。たくさんの評論を読み、そして最後には音への思い入れの深さだとだれよりもよく心得ている氏の本には、彼のジャズの聴き方が克明に書かれている。それに対し偏見だ、資格がないというのはまったくおかしいとしか言い様がない。氏のモンク、パーカーはわからないというのは、自分の感性にフィットしなっているのは当然である。だから氏の音楽観に広がりがないわけでも、無責任なわけでもなく、むしろ評論家が何と書いたからそうなのだなどというファンこそジャズを理解できるわけがないのであり、とにかく一番大切なのはより多くのジャズを聴き、また深く聴くということだ。それにしても「メグ」の寺島氏にしろ、「いーぐる」の後藤氏にしろ、両氏の本を読んでこれほどまでに深くジャズを聴いているのかと感心するばかりであった。それと同時にたかが音楽に、それもまたひとつのジャズという小さな世界に、好きだというだけで一生情熱を感じ続けるということ、そしてそうさせてしまうジャズ、うーんまたまたジャズが好きになってしまった。やっぱりジャズは理屈ではないんです。思い入れやノスタルジーなど何でもいいんです。ただジャズメンが異常に神格化されてしまうのだけはやはりおかしい。心でつくり心で感じる、それが音楽でありジャズなのだから』

その『スイングジャーナル』の寺島氏の記事は私も読んだ記憶があります。
「コルトレーンは音痴である」の「音痴」という言葉が妙にインパクトがありましたね。

正直、「音痴」というところまでは同感。
(だって、レスターやゲッツやズートとかに比べちゃうとねぇ…)

しかし、「その先」の評価が違うんだよなぁと思いました。
私は、「でも、イイよね」。
寺島さんは「だから、ダメだ」。

そして思ったものです。
やっぱり、評価基準をメロディアスさや流麗(雄弁)さに置いてしまうと、「その先」が思考停止、あるいは否定になりがちなんだな、と。
まだまだ他に聞くべきところ、読み取るべき情報が無数に散りばめられているのに、なんて勿体無いんだろ、と思ったものです。

「ファン諸氏はだまされている」
「ある種スイートな曲を〝あの〟コルトレーンが取りあげたことだけで感動してしまっている」
これに対しては、そうかなぁ? と思いました。

寺島さんが思い描くジャズファンって、そんなにバカで騙されやすくて単純なんですかね?
初演の《マイ・フェイヴァリット》が好きなジャズファンのことを一段も二段も下に見ているんじゃないの?と、一瞬腹が立ちました。
しかし、いや待てよ、これも寺島流の書き方なのだなと気づきました。
つまり、コルトレーンであれば猫も杓子もありがたがる「コルトレーン信者」や、コルトレーン批判が言いにくい世間の風潮に対して一石を投ずるという意味合いをも込めた文章なのではないかと。

だから、その真意を汲み取れないまま、表面的な「けなし」の方ばかりに反応してしまうと、最初の読者の手紙のようになってしまうのでしょう。
おそらくは、最初の投稿のような手紙は、この人以外にも何通も編集部に届いていたのでしょうね。