コルトレーンが所属したレーベル〜プレスティッジ、アトランティック、インパルス

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ジョン・コルトレーンが所属したレーベル、3大レーベル、
プレスティッジ、アトランティック、インパルスについて動画で語っています。

コメント

御駄賃取郎さんからのコメント。

私のコレクション歴を振り返ってみますと「金太郎飴」?のごときBNよりは「宝くじ買い」的気分であつめたプレステッジのほうに愛着があったりします。これはおそらくBNは今買わなくともいつでも買える?が、プレステッジは一期一会?のような感覺がありました。ちなみに「金太郎飴」という表現はもはや死語に近いようで
「なにそれ?」ときかれたりしますので、「巻寿司」のようなものだよ、と説明しますが、私より上の世代のなかには「ああ、(モッキリ金太郎)ね?」(・・つげ義春か?)という人もいたりして・・。w

ところでアトランティックの録音で聴くトレーンの音って、どこかナロウレンジでヒステリックだなあ?という印象があるのですが、(エンジニアはトム・ダウト)皆さんはいかがですか?プレステイジやインパルスにくらべると余計そう感じたりします。

私にとってこれは最初に買ったマーキュリーのクリ・ちゃん=マックスの音(LP)がどうにもHI=FIに鳴らせず、CDが出て腰を抜かすほどのショックを受けたことを思いだします。

言われてみれば、そういえば金太郎飴って最近見ませんねぇ。

なんて書いているうちに、金太郎飴は、なぜ金太郎飴なのだろう?という疑問が湧いてきたので、ジェミニ君(AI)に質問してみました。

なぜ昔は飴のキャラクターに金太郎飴が選ばれたの?
桃太郎や一寸法師じゃダメだったの?

ジェミニ君からの返答は以下のとおりでした。

金太郎飴が選ばれた理由、とても面白い質問ですね!

昔、飴のキャラクターに金太郎が選ばれたのには、いくつかの理由が考えられます。

1. 金太郎の人気が高かった:
力強いイメージ: 金太郎は、熊と相撲を取るなど、力強いイメージが強いキャラクターでした。当時の子供たちにとって、金太郎は憧れの存在であり、元気な子に育ってほしいという親心も込められていたと考えられます。
普遍的なキャラクター: 金太郎は、男女問わず、年齢を問わず、幅広い層に愛されていたキャラクターでした。そのため、誰からも好まれやすいキャラクターとして選ばれたのかもしれません。

2. 飴の製造技術との関係:
絵柄の入れやすさ: 金太郎の絵は、比較的単純な線で描けるため、飴の中に絵を入れるという当時の技術に合致していたと考えられます。複雑な絵柄よりも、金太郎のようなシンプルな絵柄の方が、より鮮明に表現できたのでしょう。

3. 他のキャラクターとの比較:
桃太郎: 桃太郎は、鬼を退治する物語の主人公ですが、金太郎ほど力強いイメージは強くありません。また、鬼を退治する物語は、子供によっては怖いと感じる可能性もあります。
一寸法師: 一寸法師は、体が小さいという特徴があり、金太郎のように力強いイメージとは異なります。また、一寸法師の物語は、金太郎ほど広く知られていなかった可能性もあります。

まとめ
金太郎飴が選ばれた理由は、金太郎の人気が高かったこと、飴の製造技術との関係、他のキャラクターとの比較など、様々な要因が考えられます。

なぜ金太郎飴が今も人気なのか?
金太郎飴は、昔ながらの製法で作られる伝統的なお菓子であり、その素朴な味わいや見た目の可愛らしさが、現代でも多くの人々に愛されています。また、金太郎というキャラクター自体が、時代を超えて親しまれる普遍的な存在であることも、金太郎飴の人気の秘訣と言えるでしょう。

現代の金太郎飴
現代では、金太郎以外にも様々なキャラクターの飴が登場していますが、金太郎飴は依然として人気の商品です。これは、金太郎飴が持つ伝統的な価値や、金太郎というキャラクターが持つ普遍的な魅力が、人々の心に響いているからと言えるのかもしれません。

いかがでしたでしょうか?金太郎飴が選ばれた理由について、少しでも理解が深まれば幸いです。

だそうです。
ジェミニ君、優等生だなぁ😆

MrNOBUchanさんからのコメント。

マイルス・デイヴィスのオリジナル・クインテットによる、言うところのingシリーズ四枚(プレスティッジ)に収録されることになった1956年5月と10月のセッションですが、世評では、両セッションの間の五か月の時期に、コルトレーンは長足の進歩を遂げたといわれますね。この期間に、コルトレーンが正式な契約に基づいてスタジオに入り録音に臨み発売された作品(海賊盤排除)というと、ソニー・ロリンズの「テナー・マッドネス(Prestige)」、マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト(Columbia)、」、テナー四人衆(トレーン、アル・コーン、ハンク・モブレー、ズート・シムズ)による「テナー・コンクレイヴ(Prestige)」、同僚ポール・チェンバースの「ウィムズ・オブ・チェンバース(Blue Note)」くらいですかね。もちろんスタジオに入らなくても、当時超売れっ子にはまだ遠かったにしろラジオ放送スタジオ、ジャズクラブや劇場での演奏でボチボチ活動していたはずですが、残念ながらそれはデータに残っていません。
大師匠セロニアス・モンクとの出会い・録音も、翌1957年以降のことです。
とすれば、長足の進歩の原因は、同業のライバル、ソニー・ロリンズやアル・コーン、ハンク・モブレー、ズート・シムズ等とのスタジオ内での真剣勝負にあったのかな??などと考えてしまいます。

ライバル同士の健全な研鑽が、成長には一番の糧となりますよね。
特に、一番意識していたのは、ロリンズなのかも。
あるいは、グリフィン?

とにかく、彼らとは違う切り口でテナー番長になったるでぇ!という意気込みで日々精進していたんでしょうね。

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