中山康樹・著『Jazz名盤名勝負』(廣済堂出版)のハービー・ハンコックのところを読んだ動画をアップしています。
コメント
MrNOBUchanさんからのコメント。
ジャズ・ピアニストとしてこれがすべてであるとは言いませんが、例えばハービー・ハンコックによるピアノ・トリオ・アルバム、なぜか極端に少ないですね。しかも彼を支えるベース、ドラムスとも、いつもどっかで聞いた面子ばっかり。そしてそれも、ハービー自身が鋭意取り組んだ!というより、ハービーの名声に相乗りしたレーベルが押した企画ばっかりじゃないのか・・・的な感想を抱いてしまいます。彼は、一ピアニストとしても、またマイルス御大の弟子筋の中でも、キース・ジャレットやチック・コリアに三歩くらい先行を許してしまったと思います。
いつもコメントありがとうございます!
「レーベルがハービーの名声に相乗りして押し出した企画ばかりでは?」というご指摘、これはもう完全に同感です。たぶんご本人は、ピアノトリオで「まるごと1枚作る」ってことに、そこまで積極的じゃなかったんじゃなかったんじゃないかと想像します。
「だったら気心知れた面子でサクッと作っちゃおうよ」と周囲がお膳立てして、「それじゃあ、やりますかね」という、そんな流れだったのかもしれませんね。
というのも、ハービーってピアニストとしてはもちろん一流ですが、それと同時に、根っこは「響き」や「アレンジ」にこだわる人なんですよね。
自伝を読むと『スピーク・ライク・ア・チャイルド』のホーンアレンジについて熱く語ってますし、その延長線上にある『ザ・プリズナー』でも、ジョーヘンの迫力テナーやハンコックのピアノも「各論」としては楽しめるけど、あくまで全体の“ハービー的響き”を作ることが最優先、って感じがすごく伝わってきます。
前者はベタな表現使えばロマンチックなサウンド寄りで、後者は、抑圧されたような陰りと張り詰めた空気感という違いがありますが、いずれにしても、ミンガスのように最小限の編成で最大限ビッグバンド的サウンドを構築しようという意思が感じられます。
ミンガスの場合はエリントンを意識していたとしたら、ハンコックの場合はおそらくギル・エヴァンスでしょうね。やわらか管楽器を効果的に使おうという意思が感じられます。
ミンガスが少人数でビッグバンド的サウンドを狙ったように、ハービーも“最小で最大”の響きを志向してたんじゃないかと思います。ミンガスがエリントンなら、ハービーはギル・エヴァンスを意識してたのかもしれません。ふわっと包み込むような管楽器の使い方とか、まさにそれ。
あと、意外とハービーって「みんなで大きなものを創る」ってのが好きな人のように感じます。自伝でも、ヘッドハンターズ前のエムワンディシ・バンドのエピソードにけっこう紙幅を割いていて、印税で赤字を補填してまでメンバーにギャラを払い続けたっていうエピソードが出てきます。要は「ステージ上でメンバー皆と一体になってスリリングな即興をする喜び」を重視するタイプ。だからこそ、あまりピアノトリオっていう“主役を張る構造”には乗り気じゃなかったのかもしれません。
ピアノトリオって、どうしてもピアニストがど真ん中に来ますからね。エヴァンスとラファロのインタープレイ的な聴かせ方もありますが、それでもやはり聴き手は自然とピアノに注目する。だけどハービーは、もっと引いたところで、全体を見渡しながら「誰かを主役にしながら自分は裏で操縦桿を握る」みたいなポジションが性に合ってたんじゃないかなと思います。
で、ふと思い出したんですが、昔、ベンチャーズ好きのギターおじさんたちに飲み屋でよくベースを(強引に)頼まれてた時の話。
ベンチャーズってギター2人じゃないですか? すると、ギターおっさんたちは、なぜか「格上っぽい人」ほどサイドギターをやりたがるんですよ。
部下や後輩にリードギター、つまり主旋律を弾かせて、自分はその旋律のバックで、そしてドラムとベースの8ビートの上で、シャカシャカシャカシャカとリズムを陶酔顔で刻む。主旋律を奏でるのは「表面的な主役」であるかもしれませんが、その裏で、かなり好き勝手にギターをジャカジャカ鳴らしまくってアンサンブル全体のトーンを設定し、結局のところイニシアチブを握っているサイドギターのおっさんが「影の主役」、そして場合によっては司令塔的な役どころにすらなるんだなと感じたものです。
ハービーも、そういう「目立たないところで空気を支配するのが好き」なタイプだったのかも。たまにソロで大暴れして歓声を浴びるのも含めて(笑)。
と、いろいろ書きましたが、ハービーの「控えめな中にある野心」みたいなものって、聴けば聴くほど味わい深いなあと思います。
オカハセちゃんねるさんからのコメント。
中山さんのこの文章って、ここまで来ると【どこまで本気でどこまでウケ狙い(バズり狙い)かがわからない】感じがありますね。
なんだか話の最後まで聴かないと言いたい本意が伝わらない「過激な出だしで音質的(本質的?)な話を展開するYouTuberのバズり手法」に通じるものを感じます(笑)。
「過激な言い方で至極真っ当なことを言う例えばヘライザーのようなYouTubeがバズる」って岡田斗司夫さんも言ってました(笑)。
「過激な出だしだけど結果的に至極真っ当なことを言ってるYouTuberのバズり手法」のたとえ、めちゃめちゃ同感です!
中山康樹氏も、もし生まれてくる時代があと数十年ズレていたら、結構あざとく(?)ユーチューバーとして有名になってたかもしれませんね。
あの切り口、出だしのテーマ設定は、現代のアルゴリズムとの親和性バツグンですからね。
それと岡田斗司夫氏の「過激な言い方で至極真っ当なことを言うYouTuber」の話、私も見ました。過激な導入から始めて、蓋を開けてみれば「めっちゃ常識的」っていう(笑)。あれもまさにバズり手法の典型で、視聴者の興味を喚起し、「納得」に着地させる鉄板な構造なんでしょうね。
確か岡田斗司夫のチャンネルではヘライザーと、あと、ひろゆきも引き合いに出されていたような。
「ひろゆきの正論意見」は、少し前に「学校行かなくていい」論で一時期バズったゆたぼんの話題を引き合いに、「学校は行くべきだ」的な、至極真っ当かつ普通の結論を語っていたことを思い出します。
で、今度は、NHKをぶっ壊すの立花孝志に揶揄されたりと、まあネットで有名になっちゃうと色々と大変ですよね。
表面的な肌触りとか過激さとは裏腹に骨格は真っ当な正統派、そこに人は安心するのかもしれませんし、ファンも増えやすいのでしょう。
で、ジャズでいえば…、と強引にジャズな話に持っていくと、やっぱり私にとってはコルトレーンの『インターステラー・スペース』がまさにそれなんですよね。
世間的には「過激でフリー」という印象が強そうだけど、もちろん音は過激で、凄まじい勢いに圧倒はされるんですが、よくよく聴いてみると意外とスケール練習っぽいフレーズも多くて、「あれ?けっこう地味なことを過激にやってるな」って思う(笑)。
少なくとも、オーネット・コールマンみたいに素っ頓狂な方向に飛ぶ感じではなくて、演奏の中に太い軸があり、そこから逸脱してませんよね。
もっとも、当の本人はその軸から逸脱しようともがいていたのかもしれませんが…。
共演しているラシッド・アリのドラミングも、やれパルスだ、情念だ、カオティックビートだと言われたりしているようですが、例えば1曲目の《Mars》の後半のドラムソロなんて、基本に忠実なビッグバンドのドラムソロみたいな感じにも聞こえる私の耳ってヘン?(笑)
表面的な肌触りとか過激さとは裏腹にやってることは真っ当な正統派であるのは、天才ピアニストゆうこりんもそうですね。安心して楽しめます。そして安定のクオリティ。
むしろヤバいのは、その逆のパターンかもしれませんね。
だって、コルトレーンやファラオよりかは、アーニー・ヘンリーやマリオン・ブラウンの方が、怪し過ぎてヘンです(爆笑)。
モンクのピアノは分かりやすいユニークさで、しかも結構ロジカル。
それに対して、ハービー・ニコルスの方がヘンテコさ具合は、モンクより一聴地味かもしれませんが、何考えてるかわからないムッツリスケベ感が強い(笑)。
私はむしろ、こういう表面的には過激ではなく、むしろ普通っぽいくせに、その実やってること、言ってることがぶっ飛んでる人にも惹かれてしまうところがあります。
結局のところ、表面的な刺激よりも、「ちゃんと本質があるか」がカギなんだろうなあ…なんて思ったりもします。
中山さんの文章も、バズ狙いっぽく読めるときあるけど、読み進めてみると、ちゃんと核となる主張があるんですよね。それがまたクセになるというか、楽しませてくれながらも、ちゃんと主張も届いているよなぁと。そこが中山氏ならではの筆力なんでしょうね。
2024年10月9日