ジョン・コルトレーンと村上春樹の共通点

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ジャズマン ジョン・コルトレーンと、小説家 村上春樹の共通点とは?

一言でいえば、両者とも「1つのモチーフを追求しつづけた(ている)アーティスト」だということ。

……と、少なくとも私は考えています。

ストイックなまでに、そして執拗なまでに「何か」を追求しつづける姿勢。

当然のことながら、作品内容や表現手段はまったく異なりますが、この2人に相通ずるもの、そして、よく対比として俎上に載せられるマイルス・デイヴィスや村上龍についても動画で語ってみました。

ご興味のある方は、ご視聴ください。

コメント

kamaichi2002さんからのコメント。

雲さん! ありがとうございます。同意です。でも、いま聴くと、1970年代の日本のジャズもそうでしたね。
意味深なパーカッションwからはじまって、ベースがペダル・トーンを連打。で、お決まりのドリアンモードのテーマ。
で、ピアノはマッコイの和音w。ペンタトニック・スケールのソロ。「これ、退廃だろ」と思いましたよ。何のために才能ある彼らは一生懸命練習しているのか!
食傷しました。
で、わたしが何をしているかというと、リコの<5番>でラバーマンのテーマを吹くことだけなんです。アドリブはもういい(できない)。
支離滅裂なコメントで申し訳なし。

ありがとうございます。
後期コルトレーン、具体的にはインパルス期のコルトレーンは、コードチェンジのシーツ・オブ・サウンズも極めたし、自分なりのモードジャズも確立しちゃったし、じゃあ次には何を?!と模索した結果、
「テクニック、理論の次のテーマは、肉体と精神の限界じゃい!」という新たなテーマを見出し、それに向かって邁進していった感がありますよね。
だから、肉体と精神の限界にチャレンジし、身体がボロボロになってしまい早死にしてしまったんじゃないかと思っています。

kamaichi2002さんからの返信。

ジャズのスタイルを文学にたとえたのには感心しましたよ。
<スタイル>は<文体>ですね。
マイルスは<文体>生涯変えなかったが、コルトレーンは変えようと模索し続けた作家ですね。
しかし、いいたいことはあります。
あの、「ジャイアント・ステップス」が吹ける驚異的技量を放棄して、単純なコード一発の演奏にいってしまったのは、単に「求道」のためとはいえ、やはりもったいないなあと思うのです。
まあ、ジャイアント・ステップスはライブで再現不能でしょうがねww。
失礼しました。

ありがとうございます!
まさに、おっしゃるとおり「文体」ですね。
かまいちさんの「勿体無い論」も同感です。
コルトレーンの技量や理論的なところは白人サックス奏者(マイケル・ブレッカー、デイヴ・リーブマンなど)に受け継がれ、後期の肉体&精神論い的なところは黒人サックス奏者(ファラオ・サンダース、アーチー・シェップなど)に受け継がれていったような気がします。
機会あれば、動画でも返信したいと思います。

法橋周自さんからのコメント。

村上春樹/コルトレーン、村上龍/マイルスの対比、興味深、拝聴させていただきました。

ありがとうございます😊

後藤祐子さんからのコメント。

1954年生まれの女性です。専門的な知識は何も有りませんか、大学生の時、大橋巨泉のジャズのラジオ番組でサックスを初めて聴いた後、アルバイトの疲れが吹き飛んでいた。翌日、レコード屋に行きジャケ買いでブルートレインを買った。コルトレーンと言う名も知らなかったが、サックスが聞きたいと、その1枚を選んだ。真夏のアパートの窓の四角い蒼い空を眺めながら何度も聴いた!兎に角スカッとした!!気持ちいい!村上春樹の風の歌を聴け、も、本屋の背表紙のタイトルに惹かれて買った。アメリカのロバートブローティガンを連想させられた。コルトレーンも村上春樹も直感で何の情報も知識もなく出会った事が嬉しい!!

山田大作さんからのコメント。

ポートレート・イン・ジャズにはコルトレーンが取り上げられていないので、村上春樹氏はコルトレーンが嫌いかと思ってました。

嫌いではないとは思いますよ。
ただ、村上氏がもっとも好きなテナーサックス奏者(スタン・ゲッツ)とは、ある意味対極なスタイルの人なので、コルトレーンは。
だから嫌いとまではいかないにせよ、実際はどう思っているのかなという興味はあります。

後藤祐子さんからのコメント。

1954年生まれの女性です。専門的な知識は何も有りませんか、大学生の時、大橋巨泉のジャズのラジオ番組でサックスを初めて聴いた後、アルバイトの疲れが吹き飛んでいた。翌日、レコード屋に行きジャケ買いでブルートレインを買った。コルトレーンと言う名も知らなかったが、サックスが聞きたいと、その1枚を選んだ。真夏のアパートの窓の四角い蒼い空を眺めながら何度も聴いた!兎に角スカッとした!!気持ちいい!村上春樹の風の歌を聴け、も、本屋の背表紙のタイトルに惹かれて買った。アメリカのロバートブローティガンを連想させられた。コルトレーンも村上春樹も直感で何の情報も知識もなく出会った事が嬉しい!!

女性視聴者さんからのコメントはほぼ皆無に等しい動画チャンネルですので、いやはやとても嬉しいです🎶
私も、『風の歌を聴け』は、タイトルに惹かれて書いました。あと表紙のイラスト効果も大きいです。
直感でコルトレーンの『ブルー・トレイン』を聴いてスカッとされたんですね。
私なんぞ、このアルバムの良さに気づくまでは、ずいぶん時間がかかってしまったものです(むしろリー・モーガンのトランペットにはグッときましたが……)

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やまねこやまちゃんさんからのコメント。

マイルスデイビスと村上春樹が好きです。マイルスデイビスは75年までが好きです。復帰後も好きですが。村上春樹の初期はむづかしいです。羊をめぐる冒険からが好きです。
コルトレーンは、私にはむづかしいです。

同じですw
私も『羊をめぐる〜』から面白く感じ始めました。それに比べると『1973年のピンボール』は、だいぶ難解に感じたものです。
で、『羊』の続編の『ダンス・ダンス・ダンス』は貪るように読んだものです。

後藤祐子さんからのコメント。

私は、ラジオで マイファニー・ヴァレンタインを聞いて衝撃を受け 店舗で助勢シンガーのコーナーで必死に
チェットベイカーを探すけど無くて、、
何と男性シンガー、トランペッターだったとは!!

一時期 毎日聞いては癒され
優しく包まれるようでした。
妖艶な歌声、空気感
唯一無二ですね
映画も、観に行きました!
ジャズマンに薬物は、付き物に なってしまうんですかね?

T Mさんからのコメント。

ハービー・ハンコックがモードピアニスト?そもそもモードピアニストって何?音楽理論や和声を学んだ上で話しているのでしょうか?うわべの印象で語っているようにしか聞こえないんですけど。

T Mさん、コメントありがとうございます。

まず冒頭で率直に申し上げますと――はい、うわべの印象で語ってます(笑)!

……と、ジョーク半分、しかしある種の“誠意”としてお伝えしたいのは、「うわべの印象で語っているように聞こえる」というご指摘は、ある意味でまさに“正しい”ということです。

というのも、私が「モードピアニスト」としてハービー・ハンコックを位置づけたのは、極めて厳密な音楽理論的定義に基づいてではなく、むしろ音楽を聴いてきた中で感じてきた“印象”や“音響体験”に基づいていたからです。

ですから、おそらく“音楽理論や和声をきちんと学んだ人”、あるいは生真面目に整理・分類をしなければ気が済まない気質の人からすれば、「モードピアニストって何?定義あるの?」と感じるのは当然かと思います。

その上で、私の見解を少し丁寧に述べさせていただきます。

「モードピアニスト」とは何か。

これは、動画で語った私個人の用法に過ぎませんが、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンが探求したモードジャズの時代に、そのサウンドの中核を担っていたマッコイ・タイナーやハービー・ハンコック、またはそれ以降に彼らの影響を受けたピアニストたちを指す言葉として使っています。

厳密には「モードピアニスト」という音楽理論上のジャンルや定義が存在するわけではありません。

あくまで「モードジャズ」の文脈において、ピアノという楽器が果たした新しい役割、その中で生まれた奏法的美意識を体現した奏者たちを、便宜上そう呼んだ――というのが実際のところです。

ハンコックにしても、ビバップ的アプローチも持ち合わせた上で、1960年代のマイルス・クインテットやブルーノートのリーダー作などでは、極めて先進的な「空間と響き」の感覚を表現していました。

マイルスが愛した“スペース”の概念。

そこに対して、ハンコックはその間(ま)を支配するだけでなく、ショーターの面妖で抽象的なメロディに対して、さらに奥行きのある空間設計を行っていたように感じます。

私がとくに惹かれるのは、彼の和声の作り方。音を「積む」というよりも、「響かせる」ことに重きを置いていたように思うのです。

ボイシングの隙間、重なりの中の“意味の空白”を織り込む感覚。

この“空白”こそ、私が“モードピアニズム”と呼びたい美意識の根源なのです。

それに対してマッコイ・タイナーは、より“構築的”でした。

強靭なベースノートと力強く明解なボイシング、そして何よりトップノート――そう、彼の和音は常にトップノートが「語って」いる。

私はこれを“ピアノによるリフの構築”だと捉えています。
ギターのリフのように、反復される高音がアンサンブル全体を引っ張る。

その上でコルトレーンが咆哮する――この構造の美しさと強靭さは、まさにマッコイの功績であり、モードジャズという文脈の中でピアノが果たし得た最大級のインパクトだと思っています。

さて。

実は、私は一時期、「モードジャズっぽい演奏」を理解したくて、いくつものジャズピアノ教室を“見学ハシゴ”していた時期があります。

というのも、私自身は音楽学校のベースの個人レッスンで、II-V系のいわゆる“ジャムセッションで初対面の人と楽器で会話できる程度のボキャブラリー”はある程度学んでいたのですが、その先のもっと抽象的なサウンド構築を学びたかった。あの、ハンコックやマッコイのような響き――それを生み出す方法を「理論的に」ではなく、「身体的に」知りたかったのです。

ところが、どの教室も最初はマイルスの《So What》やコルトレーンの《Impressions》の説明にとどまり、それはわかっているんで、その先の《ネフェルティティ》や《プリンス・オブ・ダークネス》のような曲に対してどういう音を選択して紡いでいけば良いのかを教えてほしい、そしてそういうプレイができるようになるには何をどう勉強し練習すれば良いのかと突っ込んだ質問をしても、「まずは、ソー・ホワットのDm7とE♭m7の上のドリアンスケールが云々」という説明や、「そこから先は“感覚”です」と曖昧な返答が多く……。

中には「自分はツーファイヴまでしか教えられません!」ときっぱり明言する先生もいて、これはこれで潔くて好きだったんですが(笑)。

けれど、私が知りたかったのはそこから先だったのです。

なぜハンコックはショーターの不可思議な旋律に対して、あの「スカスカなのに奥行きのある」ハーモニーを与えられるのか。

なぜマッコイのピアノは、あれほどワンパターンと揶揄されつつ、毎回“違う物語”を聴かせてくれるのか。

たとえばハンコックが《Prince of Darkness》でショーターの摩訶不思議な旋律にどう“空間”を与えているのか、あの音の隙間はどう構築されているのか。あるいは、あの響きをどうしたらベースと会話するように構築できるのか。単なるコードの表記(Cm7とか)だけじゃ表現しきれない、あの“浮遊感”と“緊張”の両立――そこに私は、ピアニストとしての「知覚と言語」の深淵を感じるのです。

たとえばマイルスが愛した「スペース(間)」――それを最も繊細に体現したのが当時のハンコックではないかと思います。
マッコイが「リフ」で曲の骨格を作るとすれば、ハンコックは「間(ま)」と「空気感」で曲の余白を彫刻していた。音の“消しゴム”的使い方というか、沈黙と残響の間に意味を埋め込む。ショーターのメロディはそれだけで不思議な緊張感を孕んでいますが、ハンコックはそこに一滴の色彩を垂らすような和音――決して“埋めない”、でも“導く”コード――で支えていたように思うのです。

一方でマッコイ・タイナーは、“コードの反復”が“旋律を誘導する”という点でまさに古典的でありながら、非常にパワフルな構築性を持っていましたよね。私が個人的に感動するのは、マッコイの「トップノートの執着ぶり」です。和音の構成音がどうであれ、聴こえてくる最上部の音(トップノート)に彼は「役割」を持たせていたと思うのです。
まるでギターのリフのように――。

リズムを刻み、空間を切り裂き、フレーズの中核にトップノートがある。たとえばE♭のコードでも、最上部にある“G”が、旋律なのか伴奏なのか一瞬迷うような立ち位置で反復される。その音が、聴き手に“空間”というより“構造”を意識させるんですよね。そして、その下で厚く支えるハーモニーの土台。いわば和音を“建築”するピアニスト。

そこが、ハンコックの“浮遊する空間設計”とは対照的なのです。

私はそんなふうにして、マッコイとハンコックの「響きの美学の違い」にハマりつつも、それに比例するかのように疑問も深まっていきました。そこには、理論だけでは説明できない“印象”の世界があったからです。

だから、今こうして「モードピアニストって何?」と問われれば、私は躊躇なく、「マッコイやハンコックのように“モードジャズの文脈で、ピアノという楽器の役割を再定義した奏者”を、そう呼んでいるにすぎません」と答えます。

厳密な定義ではありません。

けれど、彼らが私に与えてくれた“音楽体験”は、間違いなく“モードピアノ”という響きのうちにあるのです。

だから私は、あなたの疑問に敬意を抱きつつ、同時に「うわべの印象で語ってますよ~」と笑って返したいのです。なぜなら、うわべの印象からしか始まらない深掘りも、この世には確かに存在するからです。

そして、そこから先に続くのが、“理論と批評の言葉”だとも思っているからです。

私の動画は、きっとご期待には沿えなかったことでしょう。誠に残念なことですが、そうした動画に行き当たってしまったことに、心からお悔やみ申し上げます。

でも、これは本音です。
音楽を深く愛し、理論に真摯に向き合う方と、私のように「感じたこと」から出発し、それをできる限り言葉にして語ろうとする人間のあいだで、こうして対話が生まれること自体が、ジャズの「即興的精神」そのものじゃないかと感じています。

最後に。
マッコイやハンコックのアプローチの違いを言語化しようとしたとき、そこに「文学的な反復と変奏」の感覚を見出し、私はコルトレーンを「純文学的」と評しました。それが、村上春樹との比較にもつながったのですが、それもまた「印象」に過ぎないのかもしれません。ただし、耳で聴いた音の印象、音楽を愛する者としての実感が、理論と同じくらい尊重される世界――それが私の信じているジャズの世界です。

今後も「うわべの印象」も「理論的検討」も(少しだけ)交えながら、音楽と語りの狭間を、私なりに掘っていけたらと思っております。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

T Mさんからの返信。

こちらの意図を汲んだ見事な返答ありがとうございます。ただ残念ながら分かり合うまでには至りませんでした(笑)。演奏する側とリスナーとのどうしても分かり合えない高い壁があるというか。私自身も音楽を学ぶ前はマッコイやハンコックに貴方と同じような“印象“を持っていました。実際にプレイしない評論家の“モードジャズ”や“新伝承派”なるワードに引っ張られていたのかもしれません。反論するためにここで音楽理論の話を一つひとつ説明しても話がややこしくなるので止めますが、高野様のように大好きであろう音楽を個人的な感受性をもって“印象“で表現することは全く否定しません。ただ実際にプレイする側からすると音楽用語と“印象“の世界をごちゃ混ぜにされるとどうもモヤモヤするのです。(ただミュージシャンでなければたぶん全く気にならないと思います。)
ちなみに実際に演奏もしないし音楽理論も学んでいないであろう村上春樹の音楽に関するエッセイは大好きです。音楽の魅力を卓越した洞察力で見事に本質をとらえて表現していると感じるからです。
匿名の無責任な投稿に丁寧なご返答をいただき恐縮しております。高野様の音楽に対する大きな愛情は伝わりました。
長文、乱筆お許しください。
今後のご活躍をお祈りいたします。

T Mさん、早速のお返事ありがとうございます。
そして、丁寧なご返信、心から感謝申し上げます。

なるほど……T Mさんは音楽家でいらっしゃったのですね。
ご指摘のひとつひとつに、実際に演奏されてきた方ならではの視点と重みを感じました。

そして、村上春樹氏についてのご意見、まったく同感です。
演奏も出来るジャズ喫茶を経営されていた方だけに、音楽の魅力を“なるほど!”と膝を叩きたくなる言葉で見事に言語化してくれますよね。
本質を射抜く、その洞察力と文体――本当に素晴らしいと私も思います。

あらためて、音楽に対する深いお考えを共有してくださり、ありがとうございました。

2020年2月26日 21:00