今はなきジャズ雑誌『jazz』。
ジャズの大先輩から何冊かいただいたので(感謝!)、時間があるときに読んでいるのですが、なかなか硬派なジャズ雑誌だと思います。
硬派というか、良い意味でメジャー感がありませんね(笑)。
マンガ雑誌だと『ガロ』とか、なんだかそういう雰囲気。
おそらく硬派なジャズファンに支持されていた雑誌なのではないかと思います。
この雑誌の1975年9月号をざっくりと紹介した動画をアップしました。
セシル・テイラーの『サイレント・タン』が米『ダウン・ビート』誌で賞をとった記事など、当時のジャズシーンを俯瞰するにはもってこいの資料だと思います。
『サイレント・タン』は、前年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルで行われたテイラーのソロパフォーマンスですが、聴衆たちが息をのみ、やがて興奮していく過程が手に取るように伝わってくる、素晴らしい演奏です。
コメント
花野夏さんからのコメント。
『セシル・テイラー』『サイレント・タン』という声が聞こえた気がしてやってきた花野夏です、こんにちは♪
さすが、ダウンビート誌!その頃の日本でのセシル・テイラーの扱いは『変人』でしたから。今も変人扱いは変わらないかも…。ま、変人ですけど。シンセサイザー部門というのも笑えますが、受賞者がもうひとりの変人サン・ラっていうのも何だかなぁ…と(笑)。だって他にノミネートがいないですもんね。あの時代は秋吉敏子が日本では評価されていたんですよね。因みに僕は、秋吉敏子、大嫌いです(笑)。頭でっかちで理屈っぽい、こねくり回したようなアレンジがどうにも苦手で。旦那のサックスもつまんなくて。あの時代なら、秋吉敏子より秋吉久美子でしょ!それではまた♪
その頃からセシル・テイラーは「変人」でしたか……。
いまだ聴き続けている我々が「変人」なのはなんとなく分かるような気もするのですが(苦笑)。
私のイメージでは、当時のセシル・テイラーのファンは、『ソロ』のライナーノーツを鍵谷幸信先生が書かれていることからも、「頭よさげ」「インテリ」というようなイメージがあったのではないかと思っていましたけど。むしろ、「頭デッカチな奴」というような目で見られていたんでしょうかね。
>シンセサイザー部門というのも笑えますが、受賞者がもうひとりの変人サン・ラっていうのも何だかなぁ…と(笑)。
>秋吉敏子より秋吉久美子でしょ!
笑いました。
秋吉敏子のビッグバンドに関しては、『孤軍』ふくめ何枚か持ってはいますが、それほど聴きこんでいないので、好きとも嫌いともいえない段階ですね~、私の場合は。
ただ、『孤軍』の場合は、和風テイストの導入はさておいて、ピーター・ドナルドのドラムだけに耳をフォーカスさせると、いや、シンバルだけでもけっこう気持ち良いですよ。
花野夏さんからの返信。
『現代音楽コンプレックス』と揶揄されていたと思います。のちに僕は現代音楽の世界にどっぷり浸かることになるのですが、そうなってからセシル・テイラーを改めて聴くと現代音楽とは別物であることが分かります。やっぱりジャズ以外の何物でもないんですよね。よくシュトックハウゼンのピアノ曲と比較されたりしますが、セシル・テイラーの音楽には間違いなくストライドピアノの伝統が見え隠れしているのに対して、シュトックハウゼンの音楽にそういうものは皆無です。そこに気づけば、現代音楽とフリージャズを全く別個のものとして楽しめるようになります。どちらも決して『難解』ではないですからね。現代音楽コンプレックスのピアニストというパブリックイメージは、カギヤコーシンのような連中が難解な文章表現を駆使してセシル・テイラーを神棚に祀った結果生まれたものだと思います。『難解な音楽=高等な音楽』というクソみたいな考え方です。セロニアス・モンクのすぐ隣にセシル・テイラーはいると思います。
『孤軍』のピーター・ドナルドのドラミング、聴いてみますね!
追記。
暇なときに聴き比べてみて下さい。
こちらがシュトックハウゼンのピアノ曲。
そしてこちらがご存知セシル・テイラーのソロです。
シュトックハウゼン動画情報、ありがとうございます。
よくテイラー評で引き合いに出されるシュトックハウゼンなんですが、聴いたことがなかったので、あとでじっくり聴いてみます。
花野さんのように、現代音楽にドップリ浸かったからこそ、より明確にテイラーの立ち位置がわかるというこということは大いに頷けますので。
>セシル・テイラーの音楽には間違いなくストライドピアノの伝統が見え隠れしている
この実感は、私の場合は、メアリー・ルー・ウィリアムスと共演した作品で強く感じました。
パブロの『エンブレイスド』というアルバムなのですが、ベースは「ここにもいたか!(ボブ・)クランショウ!(笑)」
>>エンブレイスド/メアリー・ルー・ウィリアムス&セシル・テイラー
それはさておき、このおお、ルーツは全きジャズじゃん!と。
テイラーのお尻に生えている(?)大きな根っこが見えたような気がしました。
というより、ベテラン先輩ピアニスト姐さんによって、テイラー君の本質が照らし出された感じです。ジャッキー・バイアードほど分かりやすく表現されているわけではありませんが、それこそストライドから現代まで、ジャズの歴史を学習し、テイラーの血肉となっていることが、よ〜く分かりました。
だから、
>セロニアス・モンクのすぐ隣にセシル・テイラーはいると思います。
には、まったく同感いたしますし、
>現代音楽コンプレックスのピアニストというパブリックイメージ
は、とんでもない誤解だとも思うのです。
ま、文化人っぽい人の格好のネタになりやすいタイプの音楽、人なのかもしれませんけど。
花野夏さんからの返信。
シュトックハウゼンの厳格に書かれた作品(たとえ偶然性を用いた作品でも、演奏されたものを聴くと自由さより厳格さを感じます)の後にセシル・テイラーを聴くと、もうめっちゃジャズです(笑)。モンクやエリントンのエコーが聞こえてきます。流れている『血』なんでしょうね。
メアリー・ルー・ウィリアムスとセシル・テイラーの共演盤『エンブレイスド』については高野さんのカフェモンマルトルに書かれたものが完璧に作品の本質を捉えていると思います。孤高の前衛ピアニストに流れる『血』のルーツが全部種明かしされていく感じとでもいうのか、おそらくセシル・テイラーファン以外にはあまり興味の持たれないアルバムだとは思いますが、素晴らしいですね。ベースは『ここにもいたかボブ・クランショー』でしたか(笑)
追記。
さきほど貼らしていただいたポリーニによるシュトックハウゼンのピアノ曲Xの動画ですが、音と映像がズレていましたね。あと偉大なポリーニですが演奏に覇気がありませんでした。ベストの演奏はコンタルスキーというピアニストなのですがYouTubeで見つからないのでこちらの動画を貼っておきます。(こちら)
なかなかフリーなリズム感覚を持った名演だと思います。
めちゃくちゃ暇でする事が無い時に聴いて下さい(笑)
博 橋本さん⇒花野夏さん
こんにちは、突然ですがお邪魔させて下さい。
私が初めて手にしたセシル・テイラーのレコードは『アット・ニューポート1957年』という当時日本グラモフォンが発売していたVerve のレコードの帯に刷り込まれている応募券を3枚集めて送ると漏れなく貰えたボーナス30センチLP レコードでした。
友達の協力で3枚集まり目出たく頂きました。
当時はセシル・テイラーといえば難しいことばかりがまわりを囲んでいて難解ジャズの代表扱いだったと思います(67年頃)。
ジジ・グライス&ドナルド・バードのジャズ・ラブとのカップリングでした。
難解を覚悟して一聴した時の思いは「得したぜ😄」の一言でした。
「なんだエリントンにそっくりじゃん」と言うことです。
私は雲村長とは逆に『カフェ・モンマルトル』辺りで止まっていますが初めて聞いた時の「得したぜ」の思いは今でもずっと尾を引いています。
シュトックハウゼンのおまけ有り難うございました。
花野夏さん⇒博 橋本さん
こんにちは、博橋本さん♪ セシル・テイラーのレコードがボーナスLPとして貰えた時代があったんですね!しかし、貰ったはいいけど、何かよくわからない…という人も少なくなかったのでは?『アット・ニューポート1957年』のセシル・テイラーを聴いて「なんだエリントンにそっくりじゃん」って思えた時点で勝ちです(意味不明…笑)。あの時代のセシル・テイラーはアヴァンギャルドではあっても自身の音楽的ルーツが見え隠れしてましたからね。その後、彼独自の語法を確立していきますが、見えにくくはなっていてもやっぱり音楽的ルーツは奥の方に潜んでいると思います。シュトックハウゼンのような音楽を聴いた後にセシル・テイラーを聴くと、その違いがはっきりと分かります。『カフェ・モンマルトル』辺りで止まりましたか?(笑) その4年後くらいから、大きく変貌を遂げていくので、もし機会があったらぜひ聴いてみてください。もしも「損したぜ😭」になったら、ごめんなさい…(笑)。それではまた♪
博 橋本さん⇒花野夏さん
ご紹介のシュトックハウゼンとの対比ですっかり「得したじゃん😄」を堪能しています!
有り難うございました。
花野夏さん⇒博 橋本さん
よかったです~✌😄
Ken Konishiさんからのコメント。
1975年は自分が就職をした年です。初任給6万4千円(涙)自宅通勤でしたから、やっていけましたが、アパートを借りて生活する事は厳しかったでしょうね。
いま、「年次統計」というサイトで、「民営家賃」という項目を調べてみたところ、
1975 (昭50)年の民営家賃の平均は39,340円でした。
で、現在の価値に換算すると71,261円とのことです。
ということは、給料の半分以上が家賃でもっていかれるということになるんですね。
なるほど、これでは趣味にお金をまわす余裕はないかもしれませんね。
Hiromi Hasegawaさんからのコメント。
そうか、ゲイリー・ピーコックはハジメちゃんだったのか!
なるほど!!
たしかに!!
サンジョルディさんからのコメント。
【ジャズ・パラレルワールド、あるある】
59年、ハンク・モブレーは、古巣ジャズ・メッセンジャーズに復帰。3月にスタジオ盤『ジャスト・クーリン』と、4月にバードランドでのライヴ盤を録音。7月にニューポート・ジャズ祭に参加後、脱退。ジャズ・メッセンジャーズは、バルネ・ウィランに代役を頼んで『危険な関係』を録音。その後、ウェイン・ショーター を迎え、初来日を果たす、というのが、この世界の歴史ですが…。
(ナレーション)
もしも、たった一人のジャズマンが、日本の文化を変えたとしたら。そんなパラレルワールドがあなたの隣に存在しているとしたら…。この3分間、あなたの目は、あなたの体を離れて、このパラレルワールドへ入って行くのです。
◆
61年1月。悪癖を断ち切ったハンク・モブレーは、ジャズ・メッセンジャーズの一員として、羽田空港に降り立った。折りしも日本では、「モーニン」ブーム。しかもジャズ喫茶のアイドル、ハンク・モブレーの参加とあって、大勢が空港に押しかけた。はっぴを着た5人がタラップを降りる姿をテレビが生中継。
来日公演は、満員御礼。しかも、日本公演のドキュメンタリー映画が大ヒット。
メッセンジャーズのファッションも流行し、銀座では、ジャケットに細いズボンで楽器ケースを持った<モブ族>や<モガ族>であふれた。ジャズとファッションの雑誌「M&M」創刊。
ジャズ・グループサウンズが、雨後の筍ように結成され、至る所で失神騒ぎが起きる。
河川敷は、トランペットやサックスを練習する若者でいっぱいになった。
「モブレー、モーガン、メッセンジャーズ」のいわゆる3Mが若者を指す言葉となり、「サックス、スポーツカー、セーリング」の3Sがステータス・シンボルとなる。
ジャズは、その後、ワウペダルによる歪みのブームが来たが、90年代から、歪みなしへと原点回帰する。ジャズ喫茶は、現在、コンビニよりも多いとされる。
モブレーは、その後何度も来日し、85年には、熱海に移住。温泉につかりながら、近所の子にテナーサックスを教えて、穏やかな余生を過ごした。
◆
(ナレーション)
明日の朝、目を覚ましたら、街の様子を注意深く見てください。ひょっとしたら、あなたは、パラレルワールドの住人になっているかも知れません。
>ジャズ・メッセンジャーズの一員として、羽田空港に降り立った。
緊張を隠せぬモブレーに、ブレイキー親分はこう言った。
「心配するな。この国の人たちこそ、お前さんの真のソウルブラザーになってくれるはずさ!」(妄想)
>ハンク・モブレーの参加とあって、大勢が空港に押しかけた。
シャイなモブレイ、困惑顔の嬉し顔(妄想)。
>はっぴを着た5人がタラップを降りる姿をテレビが生中継。
シャイなモブレイ、困惑顔の嬉し顔。
この はっぴ姿の5人を目敏くチェックしていたのは、後にドリフターズのリーダーとなる若き日のいかりや長介であった(妄想)。
>来日公演は、満員御礼。
シャイなモブレイ、困惑顔の嬉し顔(妄想)。
>日本公演のドキュメンタリー映画が大ヒット。
最初はリーダーのブレイキーや、スタイリッシュなモーガン、そしてクールなティモンズが注目されたが、穏やかな口調とシャイな表情のモブレイの人気が急上昇するのは時間の問題だった(妄想)。
><モブ族>や<モガ族>であふれた。
サングラスをかけた「鉄仮面」も少なくなかった(妄想)。
>ジャズとファッションの雑誌「M&M」創刊。
後に、より尖ったライバル誌『ブラック・ビューティー』も創刊された。
こちらの方はアフロ&サイケを基調としたテイストだったが、80年代に廃刊となった(妄想)。
>ジャズ・グループサウンズが、雨後の筍ように結成され、至る所で失神騒ぎが起きる。
レパートリーは《月の砂漠》や、《荒城の月》など。
ジャズ化された《イムジン川》を演奏したジャズ・クルセイダースは、本国のバンド名と混同されるため、「ジャズ・クルセイダース・ジャパン」とグループ名を変更した(妄想)。
>河川敷は、トランペットやサックスを練習する若者でいっぱいになった。
そして、中学、高校の吹奏楽部の定番曲は《ブルース・マーチ》や《タッド・デア》となり、ギターのうまい部員がいる吹奏楽部は、《アルフィーのテーマ》も主要レパートリーに加えることが常となった(妄想)。
>「モブレー、モーガン、メッセンジャーズ」のいわゆる3Mが若者を指す言葉となり、「サックス、スポーツカー、セーリング」の3Sがステータス・シンボルとなる。
新「3M」として、「モード、モザイク、マクリーン」という言葉も各メディアを通じて提唱されたものの、あまり定着しなかった模様。
同様に、新「3S」として、「スコッチ、セリーヌ、セーラム・ライト」もオシャレステータスっぽさを前面に出し、若者たちの消費行動を促したが、一部の層から支持されるのみだった(妄想)。
>ジャズ喫茶は、現在、コンビニよりも多いとされる。
歯医者・コンビニ・ジャズ喫茶。これが、現代日本の平凡な町を彩る、ごくごく平凡な風景である(妄想)。
>モブレーは、その後何度も来日し、85年には、熱海に移住。
パット・マルティーノ同様、妻は日本人である。奥さんからの手ほどきもあり、茶の腕前はかなりのもので、彼のたてるマイルドな抹茶は、一部の茶道の家元も絶賛したほど。そのことから大手飲料メーカーからは、「こぶ茶」に引っ掛け「モブ茶」が発売された。これに便乗した菓子メーカーのヨックモックは、「モブ茶」に合う来客用菓子として、自社の定番商品「シガール」のバリエーション「ソウール」を発売し、これは浜松の「うなぎパイ」や、北海道の「白い恋人」、宮城県の「萩の月」とともに、熱海土産の定番となった(妄想)。
>温泉につかりながら、近所の子にテナーサックスを教えて、穏やかな余生を過ごした。
「攻撃・多音」を主体とする「コル流」一派に対し、モブレイの教えは終始一貫として「守り」であり、マイペースだった。そして、勝っても負けても相手を引き立てる精神を大切にした。
この2つのサックス流派の対比は、大ヒット映画「ベストキッド(カラテキッド)」のミヤギ道空手(剛柔流)と、コブラ会空手(攻撃、攻撃)の設定のベースにもなったと言われている。
モブレーが遺した精神は、ジャズのみならず、お茶や菓子、そしてNetflixでヒット中のドラマ(コブラ会)にまで、現在も脈々と流れ続けているのだ(妄想)。
サンジョルディさんからの返信。
凄まじいレベルの妄想(褒め言葉)ですねー🤣
<コル流>(笑)
ちなみに、このパラレルワールドでは、ビートルズは来日していません。渡米もせず、ブリティッシュ・インヴェィジョンも起きていません。
ここでは、ビートルズは、リヴァプールのローカル・アマチュアバンドとして生涯を過ごしました😌
ありがとうございます❣️
文字のインタープレイです😎
>このパラレルワールドでは、ビートルズは来日していません。渡米もせず、ブリティッシュ・インヴェィジョンも起きていません。
なんだか、かわぐちかいじの『僕はビートルズ』を思い出しますねぇ~。
未来の日本からやってきたビートルズのコピーバンドのドラマーのおじさん(コンタさん)が、ジャズのライヴハウスでドラムを叩くシーンが印象に残っています。
リント・スター的ドラミングを身につけた人が4ビートを叩くと、日本のジャズマンたちは一様に驚きます。
「これがジャズドラムか!?」
「キックのキレも波打つようなシンバリングもすべてが新しい。」
「こんな叩き方…この男どこで身につけたんだ !?」
1961年の日本では、リンゴ・スター的なドラミングって衝撃だったのかなぁ?!なんて。
トニー・ウィリアムスのドラムが斬新な『フォア・アンド・モア』の録音が1964年だから、3年前の世界では、まだアート・テイラーのようなドラミングや、バディ・リッチやジーン・クルーパのような白人のビッグ・バンド的ドラミングがカッコいい世の中だったのかなぁ。
ただ、この年はエルヴィン・ジョーンズが『マイ・フェイヴァリット・シングズ』や『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』でドラムを叩いた年でもあるんですよね~。
まだ、これらのアルバムが日本に届くのはまだ先の話だから、やっぱり新しく聞こえたのかなぁ。
それとも、2013年の日本からタイムスリップしてきた話だから、サニー・マレイやクリス・デイヴ的なドラミングをコンタさんは身に着けており、未来のジャズドラミングを叩いたのかなぁ、なんてどうでもいいことを妄想してしまいました。
ちなみに、1961年といえば、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが来日した都市ですね😎
長谷川孝二さんからのコメント。
スピリチュアルユニティでアイラーが凄いの(サニーマレイも)は、ゲイリーピーコックが凄いからだと思います。
因みに雲さんが言う「ゲイリーピーコックはなにを感じてあのようなベースラインを紡ぎ出すのか?」というような疑問は僕も含めて色々な人が持つみたいで、あるインタビュアーがゲイリーピーコックにそのような質問をした記事を読んだことがあります。
ゲイリー「なにを考えていたわけでも無く、弾くべき音の指板の場所が【光って見えた】のだ」と言ってます。これが本当ならば、ゲイリーピーコックは【天才とキチ○イの境界】にいる人ですね(笑)。
やはり、皆さん同じ疑問を持つんですね。
で、指板が光って見えた!
なんつー神秘体験!
京都に2年間住んで、禅にも興味を持っていたという人ですから、スピリチュアル体質(気質)な人なんでしょうね。
原田明さんからのコメント。
「jazz」はもっとも70年代的なジャズ雑誌だったと他世代から嫌悪されている団塊世代のわたしは思います。創刊者兼編集者の杉田誠一さんは60年代後半米国でジャズ関係の写真を撮影してまわり70年前後jazzを創刊。スイングジャーナルしか知らないわたしには衝撃でした。第一にビジュアルがメーカーからの提供でなく独自のもの。その主張もわれわれの本音に近い気がしました。特に印象に残っているのは70年頃の「70年代を生き残るジャズ」とかいう特集でジャズ喫茶を屋台で、というイラストが載ったこと。屋台に拡声用ラッパを二つ付けたような屋台。冗談なのか本気なのか。でも当時われわれは心底ジャズ喫茶経営が夢でした。
杉田氏はjazz廃刊後もジャズスポット「outthere」(!)や「BitchesBrew for hip people only」などの活動をされているようです。
たしかに『スイング・ジャーナル』とは一味もふた味も違う「トンガり」度を『jazz』にはヒシヒシと感じています。
良い意味で、「アングラ」な感じ。
ポジティヴ・アングラ?(笑)
『jazz』を知ってしまうと、『スイング・ジャーナル』がより一層、王道かつ保守的な雑誌に感じます。
『スイング・ジャーナル』を「与党」だとすると、『jazz』と同様、「野党」的ポジションに『ジャズ批評』がありますが、両誌はまったくテイストが違いますね。
めちゃくちゃザックリとしたイメージですが、『ジャズ批評』は、「学問」「テーマ」でジャズを深く掘り下げていこうという姿勢を感じることに対し、『jazz』は、「思想」「主張」としてジャズを取り上げ、広げていこうという意気込みが感じられます。
編集長、編集者の個性が、誌面に反映されていることが両雑誌には強く感じます。
対して『スイングジャーナル』には、編集長、編集者の個性に、広告主のニーズも誌面に反映されていますね(笑)。
博 橋本さんからのコメント。
75年〜76年頃に佐藤允彦が大がかりなシンセサイザーを日比谷の野音などで披露していました。
おお、そうだったんですか!
では、シンセサイザー部門の何位かにはランクインしていたかもしれませんね。
博 橋本さんからの返信。
野音の『サマー・ジャズ・フェスティバル』ですが73年〜74年あたりだった気もします。
その辺の記憶が曖昧になっています。TAKESI0506さんのSJ データでしょうか?
当時は毎年写真ページのちょっとした特集ページが有りました。