【古雑誌読み】市岡仁の「ウエスト・コースト落第記」~『jazz』1975年5月特大号より

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『jazz』1975年5月特大号に掲載された市岡仁・執筆の「ウエスト・コースト落第記」を読んだ動画をアップしました。

TAKESI0506さんからのコメント。

大和明さんの著書『ベスト・ジャズ・アルバム』のマイルス・デイヴィスの項には、市岡仁さんの意見が取り上げられてます。

『マイルスに対する評価は余りにも買いかぶりだとする勇敢な異議を唱えているのが、東京のジャズ・ファンの間でうるさ方として名を知られている市岡仁君だ。彼の言い分はこうである。人が生み出したものを、勝手に自分のものにしてしまう奴に真の創造性なんか考えられないというのだ。彼の有名なオリジナルとされている〈チューン・アップ〉や〈フォア〉にしても、クリーンヘッド・ヴインソンの作品と言われているし、〈ディグ〉だってジャッキー・マクリーンの〈ドナ〉と同じ曲である。〈アウト・オヴ・ブルー〉にしたって、ソニー・ロリンズの〈エヴァンス〉をちゃっかり自分のものにしてしまっている。〈キャラヴァン〉のデューク・エリントンや〈ストンピン・アット・ザ・サヴォイ〉や〈ドント・ビー・ザット・ウェイ〉などにおけるベニー・グッドマンの例を挙げるまでもなく、昔からバンド・リーダーがサイドメンの曲に自分の名を共作者として加えることはよくあるが、マイルスのように自分の単独作のようにしてしまうのはもってのほかである。かの「クールの誕生」の中の〈ブドー〉にしたって、バド・パウエルの〈ハルシネーション〉を勝手に使い、自分とパウエルの共作としてしまった。ましてマイルスのオリジナル作としている〈ディセプション〉だって、ジョージ・シアリンダの〈コンセプション〉が原曲であり、まさに〈ディセプション〉(ごまかし)であって、盲人の作品を盗ってしまうなんてとんでもない奴だと憤慨するのだ。
 50年代のマイルスのプレイに愛着を抱くファンは多いが、市岡君に言わせれば50年代のマイルスのアイディアなんか、たかが知れていると一蹴してしまう。特に彼の演奏の中でも評判の良い〈飾りのついた4輪馬車〉をはじめ、〈ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン〉〈イット・クッド・ヘブン・トウーユー〉〈バット・ナット・フォー・ミー〉〈オール・オヴ・ユー〉などのミュージカル・ナンバーをはじめとする歌ものやエリントンの〈ジャスト・スクィーズ・ミー〉などは、50年代前半におけるアーマッド・ジャマルのギター入りトリオの洗練されたやり方を踏襲しかもので、これらの曲はいずれもジャマル・トリオの録音を聴いたマイルスが自分のンパートリーにしたものだそうだ。ジャマルのサトルな面に影響されてから、マイルスは真に洗練されたプレイをするようになったのであり、ブルーノート録音(54年3月)の〈イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド〉でハーモンミュートを使って以降、彼独自の個性を出したに過ぎない。
 実質的にはマイルスのリーダー・セッションと言われている「キャノンボール・アダレー/サムシン・エルス」の〈枯葉〉や〈ラヴ・フォー・セール〉にしても同じことで、〈枯葉〉で使った有名なイントロは、55年10月録音のジャマル・トリオによる〈枯葉〉のイントロをそっくりそのままちゃっかりと拝借しているのだから何をか言わんやというところだ。そんなマイルスに独創性なんか求められないのも当然だと言うのである。さらに60年代末からの電化楽器やポリリズムの採用など新時代のジャズの方向性を示したと言ったところで、それは彼がスターになりたいという意識をいつも持ってやっていただけであり、それに金になることをやったに過ぎないのだと厳しい見方をしている。
 さて読者諸兄はこの市岡流マイルス論をどう考えるか。僕の意見はどうなのかって。それは同じ曲を演奏したとかイントロを借用したなんてことは枝葉末節のことで、ジャマルとマイルスの同曲の演奏内容を比較すれば、マイルスのプレイの方がはるかに優れているのを知ることができるというのが僕の回答である』

大和さんと市岡仁さんは友人関係にあったらしく、岡崎正通さんとの共著「続・モダンジャズ決定版」のレッド・ロドニーの項でも市岡さんの名が出てきます。

『このパーカー時代のレッドから影響されているのがチェット・ベイカーだと指摘する筆者のジャズ友である市岡仁氏の意見は、まさに卓見である。それは『ブロードウェイ』におけるレッドの〈ジス・タイム・ザ・ドリームズ・オンーミー〉と約2年後の53年7月にベイカーがパシフィック・ジャズ盤に録音した同曲を比べると明らかだ。ベイカーのスタイルはマイルスよりもロドニーからきているのである』

いつもありがとうございます。

大和明さんの『ベスト・ジャズ・アルバム』は、私もジャズに入門したての頃に読んでおり、また『チャーリー・パーカーの音楽』のコラムにも、同様の指摘が記されており、懐かしい気分で読ませていただきました(なにしろ、両著書ともどこかにやってしまったので……)。

そして、私も大和さんと同意見です。

どこまでを創作、創造とするのか。
そのボーダーラインを引くのは人それぞれなのでしょうが、私は「コーディネイト」もクリエイティヴな表現の一つだと認識しています。まあだからといって、あまりにも露骨だったりミエミエだったりなものは、もちろんイヤですが(そのボーダーラインも個人差がありますよね、感性だけでなく単純に「知ってる・知らない」という知識の有無からも)。

もっとも、人の曲をちゃっかり自分のものにしてしまうというのは、ちょっと「やりすぎなんちゃう?」とは思いますけど。
ただですね、このことに関しては『ビジネスマンのためのジャズ入門』の著者的な考えとしては、たとえば、販社(販売会社)の営業マンとマネージャーの関係に近いのかな?とも思います。
もちろん業種や会社の運営形態にもよるのですが、たとえば、80年代の頃の受験産業は、教材の訪問販売(略して「訪販」)が盛んでした。
1セット何十万の教材セットを、塾や予備校のない地方の家庭に、営業マンが売って歩くのですが(もっと昔は百科事典の訪販が盛んでしたが、同じような販売形態です)、営業マンの売り上げの何パーセントがマネージャー(上長)に自動的にはいってくるシステムです。

その理屈としては、お前が稼ぐための商材や社名、販売に必要な机や電話や備品類は会社側が用意してあげているんだから、儲けの何パーセントかは上納してね、ということです。

もともと豪華な作りの教材かもしれませんが、大量に刷るので、原価は大したものではありません。たとえば、原価が3万円程度の教材セットを、50万円で売れば、かなりの利益がでます。だから営業マンは売れば売るほどマージンは自分の懐にはいってきますし(フルコミッション契約の営業マンが多かったと思うので、売れば売ったぶんだけ入ってくる/ただし売れなければその月の手取りはゼロ)、マネージャーにも歩合がはいってくるわけです。

同様に、おそらくマイルスの考えとしては「営業に必要な軒下を貸してやってるんだからショバ料としてクレジットはオレに頂戴ね」という考えだったのかもしれません。

当時若手で無名な、たとえばマクリーンのようなサイドマンにとっては、先輩のマイルスのもとでレコーディングをすれば、名前を売り出すことが出来る(営業ができる)というメリットがあります。もし、自分が参加したマイルスのレコードが売れれば、その後は仕事の声がかかりやすいわけです。

いっぽうマイルスとしては、後輩が作曲した曲のクレジットを自分のものにすれば、今後、印税がチャリン・チャリンとはいってくる(笑)。

もちろん推測ですが、ビジネス面に関しても、マイルスは、なかなかシタタカな一面を持っていたのではないでしょうか。
音楽家として素晴らしい演奏をするという「戦術」面のみならず、音楽家として持続可能な生活を維持していくための「戦略」も持っていた。
そういう目線で、マイルスの生涯を俯瞰すれば、腑に落ちることも多々あるのではないかと思います。

MrNOBUchanさんからのコメント。

お題とは直接の関係はないのですが、ウェイン・ショーターが三月二日(米時間)亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

ドロマスさんからのコメント。

メモメモしながら聞きましたー✋
ペンを持つ手が動いたのは、以下の初めて聞く表現の言葉…
イ○ポラッパ
アドリバー
ヤキ板の古物商
反評論家
でしたー😅
雲さんの声を通して聞くと、さらに面白く興味深く感じ入りました。
市岡さん、さすが卓越した 造語字埋め屋 ですねっ💦

アドリバーはツボりましたw