『スイングジャーナル』1979年5月号のディスクレビューを紹介した動画をアップしています。
紹介したレビューのアルバムは、ケニー・バレルの『ハンドクラフテッド』、
ジョー・ターナー&ソニー・スティットの『Everyday I Have the Blues』、ルイス・ヘイズ&ウディ・ショウの『イチバン』です。
レビュアーは、上から順にいソノてルヲ、行田よしお、粟村政昭(敬称略)です。
コメント
御駄賃取郎さんからのコメント。
SJ誌のバックナンバーは、今よみかえすなら1965年~バブル崩壊の頃あたりが一番おもしろいのではないでしょうか。今回ご登場の行田(ぎょうだ)さんは当時コンサートのMCなどでも拝見していました。
今回高野さんがとりあげられた1979年の号というのはある意味の「変貌期?」でもあったようですね。一時期、粟村さんのみならず、SJのディスクレビューの点数評価が「あまりにも厳しすぎる」というので「商売にならん」という?レコード会社側の抵抗?があったようで、ある時期からは相対的に「3星評」がふえはじめ、それ以下の評点はほとんど見られなくなりましたね。笑 だから私などは逆に「1つ半評価のレコード」なんてのはとても貴重品扱いで記憶しています。笑
粟村さんの舌鋒鋭い辛口評に対するレコード会社の評価はかなり辛辣なものがあったようで、そのせいか?氏がお急がしかったのか?いつの間にか氏は自然と誌面から、おられなくなりましたね(消えていった?)。。
私個人としては、なんら、それによる影響はありませんでした。m(_ _)m まあ、全く参考にしてはいなかっただけなので・・。
今現在の耳で振り返れば、粟村さんの評は至極まっとうな評価のようにも思いますが、それではレコードなんざ売れないわけで・・。まあ、評論家としてはまとも?なのでしょうが、「買う側」の立場からすると、(・・よけいなお世話だ!)と自分は反感を強く持っていたことは記憶しています。
今日私が寺島靖国さんにひかれるのは、粟村さんとは対局をなすような「B級グルメ発掘人?」としてのジャズ愛に引かれるからです。
バブル崩壊少し前からジャズを聴き始めているので、
その頃のスイングジャーナルは探せばあるかもしれません。
木全信プロデューサーと寺島靖国さんがケニー・ドリューの日本制作盤について激論(?)を交わしている中、当時東芝EMIにいた行川均さんが対談に加わる記事が掲載されている号などは面白く読みました。
探せば出てくるかもしれません。
で、面白かったら紹介しようと思います。
「変貌期」、そうだったのかもしれませんね。
粟村さんの評論⇒正鵠を射た内容
だけど、
実際、評論としての内容はその通りだし、
正しく評論家としての任務は全うしている。
しかし、そうすると、
どうしても評点が辛口になってしまう。
レコード会社の立場としては、
売れてくれないと困る。
その構図、確かになるほどなぁと思いました。
雑誌としては、正しいというか的を射た評論を載せたいという矜持もあると思います。
だがしかし、その雑誌を成り立たせている収益をもたらしているのはレコード会社からの広告でもある。
両方共存させながらバランス良く雑誌を続けていくのって、難しかったのかもしれませんね。
テレビだったら、スポンサーにとってマイナスな発言はバッサリとカットだし、そもそもそういうことを言うコメンテーターは番組に呼ばないでしょう。
(たまに、どういうスタンスかわからない人をゲストに呼んで「問題発言」があった場合は、後で発言をカットすることはるようですが。)
ただ、ジャズの雑誌となると、マニアックな読者も多いし、内容が緩いと読者はソッポを向くでしょうし、だからと言って手厳しい評論ばかりを掲載したらレコード会社からの出広が無くなるかもしれないし…、そのような膠着状態を勘のいい読者は見抜いていたのかもしれませんね。
そのような状況の中、寺島靖国氏が脚光を浴びるようになったのは必然だったのかも。
従来の歴史やスタイルを踏まえた上での客観的な(?)評論スタイルではなく、主観を前面に押し出す。
世間一般は評価しないかもしれないが「自分は」評価する。
世間一般は評価しているが「自分は」評価しない。
スポンサーに気を遣う必要のないスタンス、つまり「自分名義」で、「自分の名前」で本を出す。
だから、レコード会社などに忖度する必要もなし。
よって、歯に衣を着せぬ本音を言える。
『辛口ジャズノート』の登場は、『スイングジャーナル』や、油井本、粟村本の長らくの読者で、それまでの評論スタイルにマンネリを感じていた人にとっては新鮮さを感じたのでしょう。反発を感じた人も多いとは思いますがw
もちろん、『辛口』が出る前も、寺島氏はジャズ雑誌に寄稿していましたし、論評スタイルや好みに関しては70年代の古いバックナンバーを見ても一貫したものを持ってると感じていますが、少なくとも「メインストリーム」な感じではなく、どちらかといえば「こういう意見もあるよね」という傍流的なスタンスのように見えました。
しかし、氏の主張が1冊にまとまった本(辛口ジャズノート)が出ると、一気に「注目」が集まり売れたのは、店頭で目立つカッコいい装丁やタイトルだけではなく、閉塞かつマンネリ化していたであろう『スイングジャーナル』的ジレンマに風穴を空けたことが大きかったんだろうなぁ、とお駄賃さんのコメントを読んで感じました。
Humanflyさんからのコメント。
えー、ウディ・ショウが参加しているアルバムは何でも聴くようにしている身としてはIchi-Banいいと思うけどなぁ。
というか、その粟村氏の評はウディのトランペットについては何も言及していないので、そこが気になりますね。
Moontraneもやっていますが、そりゃウディ自身のミューズ盤でのそれに比べれば見劣りするものの、検討はしていると思います。その粟村氏の評のベースやドラムやピアノに関する見方は、’70年代のアコースティックジャズ全般の雰囲気、悪く言えば(演奏・録音含めての)通弊を捉えてのものとしては理解出来るんですが。
私もこのアルバムを聴く前は、スタイル的に古くなってきているヘイズやクックとポストモード世代のウディとでは少し合わないのでは、という気もしたのですが、’70年代初頭にはウディはジャズメッセンジャーズにも参加しているし、逆に’80年代以降のヘイズはチャールズ・トリヴァーやゲイリー・バーツ、もっと若いボビー・ワトスンらを自分のバンドに入れているので、世代と人脈が前後に入り混じる「変貌期?」だったという気は確かにします。
私も気になったので『Ichi-ban』をチェックしてみたんですが、結構いいじゃないですか😆
でも、おっしゃる通り、確かに「変貌期」だったのかもしれませんね。
2024年8月16日