『ジャズ・レコード・ブック』で、ジャズ評論家・粟村政昭氏が評したジャズマン数名を紹介した動画をアップしました。
【粟村本読み】マット・デニス、ポール・デスモンド、ヴィック・ディッケンソン、ウォルト・ディッカーソン、ジョニー・ドッズ、ケニー・ドーハムほか
コメント
MrNOBUchanさんからのコメント。
もうお亡くなりになって久しい俳優の藤岡琢也さん(1936~2006 数十年にわたり亡くなるまでサンヨー食品のインスタント麺のCMに出演)が晩年、自分が若い時分ジャズの素晴らしさに目覚めいまだに愛聴しているのはこの盤です・・・という文章をジャズ批評の別冊本に投稿されていたことがあるのですが、そこで彼が言及していたのは雲さんも持っていらっしゃるヴィック・ディッケンソンの「ヴィック・ディッケンソン・ショウケース」(ヴァンガード)でした。
TAKESI0506さん⇒MrNOBUchanさん
そうですね、藤岡琢也さんはジャズファンとしても有名ですね。
ジャズ批評の別冊は、81年発行の「私の好きな一枚のジャズレコード」ですね。藤岡さんは、「ヴィック・ディッケンソン・ショウケース」の想い出を、このように書いてました。
『たしかその頃新宿の西口でラーメンが20円で喰えたし、何処のジャズ喫茶も、たいてい50円でコーヒーが飲めたと思う。今から思えば物価は安かった。そのかわりボクの出演料も安かった。はずかしいがNHKへ出て1本500円……昭和33年といえばそんな時代だったのだ。
関西から上京して小さい新劇団の研究生になって2年目。仕事もそうあるものじゃない。生活は十分苦しかったが貧乏も結構楽しかった。なんとか50円つくってジャズ喫茶へ行き何時間もねばる。腹はへっても、全身にスウィング感があふれて来るし明日へのリズムも生まれて来る。とにかく明日も頑張ろうという気になって安アパートへ帰る。ボクが27才……遅咲きの青春の日々であった。そんなある日、忘れもしない渋谷のジャズ喫茶「スウヰング」で胸に突きささる演奏を聴いてしまったのだ。
それからというものは連日の様に「スウヰング」へ通った。曲名も知らないその演奏は当時のボクをエキサイトさせた。もの憂い感じではじまって、コルネット、トロンボーンのソロが入り段々盛り上がってリズムの刻みが最高潮になってエンディングへ突入する。ボクはその曲の“とりこ”になってしまったのだ。
通って通って……ようやく店のマスターからジャケットを見せてもらった。会社は“ヴァンガード”である。日本盤は出てないという。しかし何とか手に入れたい。ボクはすぐ新宿へとんだ。当時、伊勢丹通りに「マルミ」という一寸変ったレコード店があった。店頭には婦人用雑貨が並んでいるのだが奥へ入るとレコード売場があって、その更に奥のカウンターの中にいかにも一徹者らしい小柄な主人がいる。客が来るとうさんくさそうに眼鏡の奥から一応ジロリと見るが気の良いオジサンだった。早速ボクはそのレコードを注文した。レコードカタログ「シュワン」をしらべた主人は、取り寄せるのはOKだが船便で3ヵ月かかって値段は3千円だと言う。もう一度言うがラーメンが20円でボクの出演料が500円……しかもその仕事さえ1ヵ月に2・3本あれば良い方……その頃の3千円だから大事件である。3日考えて遂にオーダーした。
翌日から、確実に一食は抜いた。1区間10円だった国電でさえ高いと思って都電の往復切符を利用した。そのかわり45分歩くというオマケがついたこともある。思いつく節約をすべて試みているうちに3ヵ月が経った。
「マルミ」のジロリ眼鏡のオジサンから1枚の葉書が届いた。アメリカから船に乗って、ボクがオーダーしたレコードが、日本へ着いたのである。しかしその瞬間ボクはひどい不安に襲われはじめた。はたして間違いなく注文品が来たのだろうか……3ヵ月の船旅で割れたりしてないだろうか! 取りに行く喜びよりも不安の方が強い……そんな気持で「マルミ」へ行った。
おそらくボクの顔は蒼白だったんじゃないかと思う。だが貧乏な新劇青年の心配は全く杞憂に過ぎなかった。ふるえる手で取り上げたレコードは傷一つなく実に見事に7色に光っていたのである。気が遠くなる様な嬉しさだった。ボクも今日まで色んな買物をしたがこれ程高い買物をした記憶は他に無い。それ程このレコードは当時のボクには高価だったのだ。そのレコードこそ『ザ・ビック・ディッケンソン・ショウケースVOL・1』であり、胸に突きささった演奏こそビック・ディッケンソン、エドモンド・ホール、ルビー・ブラフ、スティーブ・ジョーダン、ウォルター・ぺイジ、サー・チャールス・トンプソン、レス・アースキン共演の「ロシアン・ララバイ」であった。
いまやジャケットは至るところセロテープで補強されたりしているがレコード共々健在である。レコードも意外に傷んでいない。おそらく、勿体なくて、かけているよりレコードを掃除している時間の方が長かったせいじゃないかと思う。
よき時代であった。乾杯!』
博 橋本さん⇒MrNOBUchanさん、TAKESI0506さん
『ヴィック・ディッケンソン・ショウ・ケース』のレコード評は確か1967年(’68年?)のSJ 誌にあったと思います。
粟村さんのディッケンソン評は気にはなりつつもレコード店で試聴させてもらい、気に入って買いました😅😅😅
TAKESI0506さんからのコメント。
ジャズレコードブックのケニー・ドーハムの項の最後には、
『一頃わが国のファンの間で人気を博した「静かなるケニー」は、どこと言って特徴のない平凡なセッションで、僕にはその人気のほどが全然理解出来ない』となっています。
このレコードはスイングジャーナル76年のゴールドディスクに選ばれて、粟村さんがディスクレビューを書いてます。評点は4星でした。
『筆者は、もともとケニー・ドーハムの熱心な支持者というわけではなかったし、「静かなるケニー」についても、とおり一遍の関心しか持っていなかったから、この〈ゴールド・ディスク〉のディスク・レビュー担当者としては不適任、と思ったのだが、担当編集子に押し切られ、止むなく引き受けてしまった。
筆者がドーハムについて〈年期を入れたベテラン〉以上の評価を与える気になれなかったのは、要するに筆者がハード・バップ以降にジャズ・ファンになった人間ではないということと、スイング以前のトランペッターの中にも多くのアイドルを持っているからではないかと思うのだが、かと言って、「ディジー、ナバロ、マイルス、ブラウン以外のモダン・トランペッターは十把一からげ」で死ぬまで押し通すというのも、少々頑迷のような気がするので、今回の試聴は、特にその点に留意しながら、何度も慎重に聴きかえしてみた。そして、その結果――ということだが、このアルバムを、ハード・バップの名盤の一つと信じていられる方々には申し訳ない仕儀ながら、やはり筆者としては、頓首涕泣(とんしゅていきゅう)するほどの感動は味わえなかったことを、正直に記しておかねばなるまい。ケニー・ドーハムは、ビ・バップの全盛時代には、チャーリー・パーカーのパートナーを務めるなど、かなり名の売れたトランペッターであったが、 Running Style と擬称された浮足立ったフレーズが多く、到底ファッツ・ナバロあたりに拮抗できるソロイストとは思えなかった。ドーハムのプレイが円熟味を帯びたのは、それよりもかなりあとのことで、55年から56年ごろ、レコードで言うならば、ジャズ・メッセンジャーズからジャズ・プロフェッツにかけてのころが、彼として最上のコンディションにあったのではないかと考えられる。このアルバムが録音されたのは59年だが、このあたりになると、ドーハムのプレイは、いささか線が細くなってきた感じで、一時の覇気はなく、良く言えば枯淡の味であろうが、要するにちょっとくたびれてきていると思う。
このアルバムの一番まずい点は、トランペット・プラス・リズム・セクションの編成で全編を押し通したことで、これはもちろんドーハム一人の責任ではないだろうが、いささか場が持たないという感じ。リー・モーガンの「キャンディ」なども同巧の作品だったが、マイルス・デイビスですら、この手の編成は持てあまし気味であった(「ミュージングス・オブ・マイルス」)ことを思い出すとよい。
曲目は、ドーハム自作のファンキー・ナンバーと、バラードが半々というところで申し分ないが、モノのオリジナル盤に入っていなかった〈マック・ザ・ナイフ〉が追加されているのは、ファンに対するサービスのようでいて、実は押売り。この曲自体、アルバムの雰囲気に合わないし、演奏そのものの出来もよろしくない。特に転調してからが蛇足だ。なんでも数が増えれば得だということでもないように思う。
個々のトラックについて言えば、「ロータス・ブロッサム」は有名なドーハムのオリジナルだが、曲調自体はさして魅力あるものではなく、「ブルーフライディ」「ブルースプリング」のように、てらいのないファンキー・ナンバーの方がよい。ドーハムのソロも、原旋律を考えながら、注意深く構築されている。40年代の彼なら、とてもこうは吹かなかったであろう。
問題は「アローン・トゥゲザー」などのバラードの出来で、筆者が世評に反して、このアルバムに甘くないのも、まさにこの点にあるのだが、ドーハムは、音色の変化によって微妙な感情の綾を出そうとしながら、いささか神経質になり過ぎていて、それが十分に成功しているとは言い難いのだ。マイルスやファーマーらのバラード・プレイに比べて、聴き手が音楽に身をゆだね切れずに終わるのは、つまりそのためで、この点トミー・フラナガンの安定しきったプレイとは、まさに好対照だ。とは申しても、無論悪い演奏ではないので、採点の方は肚芸でやらして頂くことにしました』円熟したプレイよりも、たとえ荒削りで未熟であろうとも、より生気に満ちた若々しい演奏を好む粟村さんの好みがよく出ているのではないでしょうか😀
永井勉さん⇒TAKESI0506さん
流石です・・・
博 橋本さんからのコメント。
トミー・ドーシー・オーケストラ🎶
『I’m Gettin’ Sentimental Over You』
モンクも何度か演奏していますね😊
大好きな曲です♫ヴィック・ディッケンソン
1957-Dec.-08 The Sound of Jazz “Fine And Mellow”
(ビリー・ホリデイ、レスターヤング、マル・ウオルドロン他によるCBSスタジオでのセッションにも参加。YouTubeに動画有り)
永井勉さんからのコメント。
ケニー・ドーハムの魅力ってどこにあるんでしょうね・・・???
確かに音色がリー・モーガンのように立っていませんよね・・・
でもそれを肥える程のフレーズの多彩さだとか間の感じがイイんだと私は感じています・・・
リー・モーガンが体育会系だとしたらケニー・ドーハムは文科系ですか・・・WWW
粟村さんは表面的な出音の違いで簡単に判断しています・・・!!!・・浅い・・・
少なくとも1959 – Quiet Kennyは楽器が出来るプレーヤーからしたら
物凄い名盤になるんです!!!😅😅😅
ケニー・ドーハムは技術的にマイルスをはるかに超えているトランぺッターですし、音色は違えどリー・モーガンと同格のプレーヤーです!!!!! なんでそこがわかんないんですかね??・・・😅😅😅
非楽器奏者だから(たぶん)😅😅😅
ドロマスさんからのコメント。
マット デニスと言えば✨
「コートにすみれを」❗
いい曲作りますねー🤓
さらっとピアノ弾き語りが憎い…こりゃ惚れてまうがな😅
ほんま、そのとおりやがな😅
Jさんからのコメント。
音のアスペクト
音の各周波数音圧とエコー(残響度) が また歪み率が もうほぼ再生装置の出来いかんなのだが 70年代頃までは アンプなどの性能が悪くて
燃えた時期でした
ところが80年代以降になると飛躍的にアンプの性能が軒並み良くなり
いまやオーデオオタクは 骨董品存在に
まあロマンを何時までも追い求めるのもいいなー
なんといっても趣味ですから~さておき やはり演奏家の世界 ツーファイブなんかでも少しわかるとなんか 嬉しいo(^-^)oな~
別にたいしたことないのですが これもロマンです~ よね?昔ビッチェズブリューなんか聴いたとき あまり良さがわからず スパニッシュキーが これいいかな~ と 二枚組に大金叩いて 少し損した気分に ところが今聴くと 雲さんのお陰 なぜわかんなかった(゚ω゚?)のだろー と あらためてベースの凄さに底を揺さぶられつつある今日このごろです
J
>別にたいしたことないのですが これもロマンです~ よね?
ロマンです♪
大したことないことほど、腑に落ちた時の嬉しさは大きいような気がします。
早春さんからのコメント。
粟村氏:ドーハムのプレイの最大の難点は、あと一押しのスリルに欠けている点で、これが第一級の演奏者としてはどことなく食い足りないという印象を常に残した。
青二才:いえいえ、スリルという点では、J.M.の「Minor’s Holiday」のソロ、特にバースの後になだれ込んだソロが挙げられましょう。ブレイキーとサシで演奏したあのソロに、スリルがないとおっしゃるのですか?
粟村氏:しかしそれでもマイルスのソロには及ぶまい。あれに匹敵するとでも君は言うのか。
青二才:粟村さん、「拳銃魔」と言う映画があります。この映画は俗に言うB級映画です。大筋は銃に魅せられた男女がなだれ込んだ命がけの逃避行。映画の後半、二台の車 ー 一方には男、もう一方には女が乗っている ー が離れ離れになる直前に、反対方向に行くと見せかけてそれぞれ円を描き、道路の中央で車を寄せ、身を乗り出してキスするというシーンがあります。この、ゴダールの「気狂いピエロ」で感動的に再現される素晴らしいショットは、他の映画の及ばない、堪らない魅力を孕んでいます。ロング・ショットで捉えられているこのショットがなぜ素晴らしいかと言うと、その車の動きに彼らを結び付ける愛が見て取れるからであります。言葉というものは物事を分け隔てるものです。なぜならものに名前を付けるという「名づけ」の行為は、そのものと他とを区別する営みだからであります。それに対し、このショットは言葉では語らせず、アクションで語らせるのです。故に、より生々しく、より感動的に、彼らを結び付けるもの、彼らの心象がスクリーンに鮮やかに質感をもって映し出されるのであります。
ドーハムのプレイには上に挙げた映画同様、他のトランぺッターにはない魅力を孕んでおります。果たして他の誰がPoint of DepartureやPage Oneのトランぺッターを務められたでしょうか?かのアルバムはジャズの限界を悟ったような、歴史に刻まれるべき記念碑的なアルバムでありますが、La Meshaで他の誰がソロを吹けたというのでしょうか?モーガンやハバードにはそのような史観的な視点はないように思われます。マイルスがそのようなプレイをするはずはありません。なぜなら彼は帝王であり、また彼自身曰く彼は「ジャズメン」ではないのですから。かような演奏は、ドーハムという、ビバップ時代からジャズを吹いてきた、ジャズを絶えず見、その肌に感じ続けてきた人間だからこそできる所業なのであります。そこから生み出される音の意味に、我々は耳を傾けるべきではないでしょうか。粟村氏:いや違う。史実も無論大事だが、演奏を聴く場合には、それそのものの中に包含されるものこそが肝要なのだ。君は論理を捏ね繰り回して屁理屈を並べているだけではないか。己の感性の弱さをロジックで胡麻化しているだけだ。演奏そのものにこそ耳を傾けよ。
青二才:...。
粟村氏:その包含されるものを聞き取れないからと言って、下手なロジックでまがい物をでっちあげるでない。真に向き合え。
青二才:私は私なりに向き合ったつもりであります...。先ほど述べたことも、私自身が感じ取ったことに補足説明を加えて言語化しただけであります...。
粟村氏:いいや、君の感想は史実を根拠としているではないか。それこそ彼の演奏そのものに触れられていない証拠ではないか!
青二才:お言葉ですが、粟村さんの解釈の仕方には私は同意できません。先ほどの発言も、最初の発言とは矛盾しているように思われます。ドーハムのスリルは確かにモーガンやマイルス、ディジーのそれには及ばないかもしれません。また粟村さんの「第一級」という尺度にもそぐわないのかもしれません。しかしながら、ジャズの尺度はそこだけではありえないと私は思うのです。そして興行から出発したジャズに、つまり大衆を相手にした音楽に、階級を設けるとはいささか場違いに私には思えてならないのであります。仮に設けるにしても、ー 私はマイルスを高く高く評価していますが ー B級にこそ重きが置かれるべきなのであります。クラッシックとは違うのです。
粟村さんのご発言はその「尺度」に寄るところが大きいように思われます。
また加えて、先ほど述べましたが、言葉というのは物事を分け隔てるものです。特に、普遍たりうるはずのない「尺度」を持ち出してその対象を測ることは、なおのことであります。その「尺度」に評価者自身が縛られてしまっている。そしてその視点に引っ張られることはより対象を切り刻み、その断片断片に目を向けることを評価者に要求します。私はそうではない、包括的に対象を包み込むような記述をすべきと思うのです。ですから、無論言葉で記述する以上私観によるある一側面を映し出すことは免れ得ませんが、しかしながら、それでもその「側面」は「スリル」や「テクニック」、「フレージング」といった「要素」また「第一級」や「A級」、「B級」といった「尺度」よりもはるかに広く大きく包括的なものであることには同意していただけるでしょう。無論その一要素によさが端的に現れることもありますが、少なくともドーハムの場合には当てはまるとは言えますまい。彼にあたっては、切り刻む行為は不敬行為、またその音楽を愛でる営みから外れていると思われます...。〔間〕
粟村氏、突如席を立ち、その場を去る。
〔幕〕
論破っぱ♪
村田壮一さんからのコメント。
失礼します。名前がややこしいかもしれません。のろま、と申します。
皆さんのご感想が熱くて、ケニードーハム「静かなるケニー」を初めて聴きました。ジャズは40年以上聴いてますが、少ない枚数を繰り返し聴くたちなもので…。
ドーハムは私にはストライクでした。アートファーマーを想起するスタイルですが、個性はファーマーの方が強いよう。でも私には、演奏者すべてに際立った個性が必要かという問いがあります。個性を求めるあまり、無闇にハイトーンに駆け上がったり、奇抜なフレーズを入れたり。そのために音楽を失う人もいると思います。
「静かなるドーハム」とは、「俺はそこで勝負しないよ」というコンセプトじゃないでしょうか。無理しない。淡々と。でもやりたいことはこれだ。それが彼のありのままなのでしょうか。バックも彼に寄り添っていて、空気が落ち着いてます。意図のある絶妙なワンホーンだと思います。
このトランペットはトータルも細部も味があります。alone togetherでは、このテーマの最高音を、そんなに高くないのに少し詰まらせて緊張感を出してます。片手間に作業する手が止まったのは、どこかのアドリブでグリッサンドを組み合わせる一節です。グリッサンドの数はこれ以下でも以上でもNGみたいな絶妙なセンスだと思いました。あとold folksは違うリップアタック?で、それが上手くテイストを変えていると思います。
音数が多いと誤魔化せますが、このプレイは一音ごとに意味や必然性が求められます。音域や強弱などレンジの狭いところで勝負する。私の好きな表現の追求です。蛇足ですが、マリンバはダイナミックレンジにとても制限がある楽器ですが、それを奏でる人のニュアンスが伝わると、静かな戦慄を感じる時があります。そんな感じです。
blue spring shuffleのシンプルなリフ(一音のみのもある!)とか、ずっと聴きたい気にさせるグルーブがあります。私はブルースも聴きますが、連想したのはB.B.キングのライブ動画でした。スロー曲を音4つか5つの組み合わせだけで、聴衆をガンガン振り回します。
ジャズでもあったはずだなーと考えたのですが、思い出しました。my favorite thingsでのマッコイタイナーの2音から始めてコードを膨らませる一節。あとフレディ・グリーンのリズムとカウントベイシーの一音もそうですね。咆哮プレイももちろん好きですが、対極にあるミニマムグルーブもとても好きです。
支離滅裂ですみません。