先日アップした動画「レッド・ガーランドのピアノを評論家・粟村政昭氏はどう評したか」(こちら)に視聴者さまよりいただいたコメントに対してのアンサー動画をアップしました。
コメント
kankannouさんからのコメント。
混沌クラブw😍🎶
永井勉さんからのコメント。
私の場合はハードバップの中心にいるピアノプレーヤーだと
思っています!! マイルストーンでモードを拒否するとこが
カッコイイんです・・・!!!!!
1958 – Milestones の Billy Boy・・凄いですよね!!
このベタで地に足がついたプレーこそがレッド・ガーランドなんです・・・!!!
100%同意!!
TAKESI0506さんからのコメント。
自分がこのような対談を書き込んでおいて、たわけたことを言うようですが、鍵谷さんの発言の意味は私にもよくわかりません、恐らく鍵谷さんは昔のジャズもピーターソンもほとんど聴いたことなどないのではないでしょうか😥
この座談会の残りの部分を載せておきます。少々長いですが、御笑読ください。
大竹さんというのは読者代表の青年です。中村 今日は鍵谷さんとは初対面みたいなもんだけど、実は過日、ピーターソンのコンサート会場でここにいるいソノさんが私に「俺達の敵がいるよ」と言ってくれたから、ドレドレと私は鍵谷さんの方を見ました。その時はどうしようかなと迷いました。たしか鍵谷さんは岩浪洋三氏と一緒にいましたよね。そこでまず私と岩浪さんの目があった。彼が頭をさげる、私も会釈する、気配でふりむく鍵谷さん(笑い)。思わずここに四つの目が、四チャンネルじゃないけど、パッパッパと合ったわけなんです。そうすると、どうしようこうしようもなく自分の考えより先きに足がスッスッと・・・・・。気がつけば私の眼前に鍵谷さんがいる。そこで私は言いました、「お互い好き嫌いはしようがない、でもそうかといってあまりおかしな悪口は書かないでほしいです」と。ところが先頃発売された「ジャズピアノ百科」を読むと・・・・。(編集部注・「ジャズ・ピアノ百科収録〝ピーターソンは絶対に芸術家も創造者でもない/鍵谷幸信”)
いソノ つまり無視されたわけだ。
中村 ぼくは鍵谷さんが書かれたピーターソン論を読んで、鍵谷さん流にいうなら怒り狂ったわけです(笑)。
鍵谷 ここでボクがどうしてピーターソンのコンサートに行ったのか説明します。ボクはひょっとしたら何か新しいものが発見できるかもしれないとう期待を持って行ったのです。
中村 しかし、何かを発見するという意味でピーターソンをお聴きになるというのは、しょせん徒労に終るんじゃないでしょうか? たかがジャズじゃないですか。
大竹 いま中村さんが言われた“たかがジャズじゃないか”という発言はまったくその通りで、鍵谷さんにはピーターソンに対しての憎悪があるように思えるんです。ジャズを愛するファンの一人として言わせていただくと、なにもこんなに憎たらしげに書くことないじゃないですか(笑)
鍵谷 しかし大竹君のは心情的問題ですね。論理的ではないし、大竹君がそういうふうに受けとるというのはセンチメントでしょうね。
大竹 いや心情じゃないです。たかがジャズを鍵谷さんは何か・・・・・・。
鍵谷 愚弄することはないと言うんでしょ(笑)。
大竹 まあ、そういうことです。それを否定するのは他人の趣味の問題ですね。
鍵谷 いや待ってください。ジャズに限らず、どんな物事でも360度のあらゆる角度から捉える、アプローチすることは可能なんですよ。そして私達には自由な表現が許される。勿論書いたものに対しては本人も責任を持っております(笑)。それについての意見はいかようにもボクは受ける。しかし、甘受するのではない、その対立したなかで何か接点はないかと探し続けたいのです。
中村 さっきの話をレールの上に乗せますと、ピーターソンは別に芸術家でなくて私はいいんですよ。偉大でなくてもいい。鍵谷さんは、よく芸術だとか偉大な、なんてことを言われますがミュージシャンならミュージシャン、ただそれだけでいいんじゃないでしょうか。いったい芸術か否かなんてどこで線を引くんですか?
鍵谷 なぜボクがそれを問題にするかというと、音楽の体験や感動を言葉をもって表現しようとしているからなんです。そのためにはある一つの客体的な価値感のようなものを探し求めるわけです。たんなる私情や個人の好みだけでは論じられないという、動かしがたい現実がすべてのものにはある、ということです。もしそうでなければ我々はものを書かないでしょう。
中村 でも、ジャズの世界っていうのはそんな言葉を使うべき世界じゃないと思いますがね。それともう一つ鍵谷さんに言いたいのは、現在はお酒を飲んでクラブなんかでジャズを聴く現況じゃないという、一方的に決めつけたような言い方は私はイヤですね。
鍵谷 それはたんなる比喩です。自分が一人で楽しんでいる分にはさしつかえないと思います。しかし、ボクにとってピーターソンとは何者であるかということは問い続けなければならない。そうすると、最近の経験でいいますと、ピーターソンのコンサートでは3曲半で席を立ちました。
中村 じゃお伺いしますが、ピーターソンが弾いた3曲目のタイトルを覚えていらっしゃいますか?
鍵谷 ボクはそんなこと知らんで良いのです。音楽の実在がその瞬間ボクに何かを与えてくれればいいんです。
中村 私はまったく鍵谷さんとは違いますね。実在だの実存だのって、サルトルまで出てきそうですが、私にはサルトルもチリトリも関係ないんです(笑)はっきり言わせていただくと、鍵谷さんのようにジャズを聴く人っていうのは大嫌いなんです。
大竹 いままでの鍵谷さんと中村さんお二人のジャズ感をお聞きしているとなんとなく鍵谷さんを応援したくなってきました。(笑)
いソノ けれどもピーターソンが弾いた大スタンダード・ナンバーのタイトルがわからない人の言うことは説得力ないな(笑)。それはノーリッジの間題ですよ。最低限の。
中村 鍵谷さんのはポーズじゃないかな。ズバリ言うと、鍵谷さんはピーターソンをこきおろすことによって鍵谷幸信の洛陽の紙価を高めているように思えますね。
鍵谷 いや、ボクは低めているんですよ。(笑)つまり、ボクが言いたいのはジャズがそういう内実を持っているものは仕方がないということです。ジャズの原点は意識として必要であっても、ジャズという音楽はいまや多様化され、局面は分岐しているのです。分断するわけです。言いかえるなら、セシル・テイラーやキース・ジャレットにしても、いまだアート・ティタムには及べない。それはそういう外的な状況もあったかなということを考えなければならないということです。
いソノ テイタムをしのいだとか、及んだとかは問題じゃないですよ。野球のホームラン競争じゃないんだから。(笑)
鍵谷 いや待ってください、いソノさん(笑)いソノてルヲはいソノてルヲなんだ。したがってそこには歴史がある。時間がある。そして我々はその対象に対して自由に見れるという一つの利点があるんです。これを捨てることはないでしょう。ボクはテイタムを考え、セシルを考え、キースを考え、ピーターソンも考える。その中からボクのいう、好みを排斥するような、有無を言わさない客体的な価値に達している音かどうかを発見したいのです。そうするとピーターソンにはそれがないと考えられる。
中村 だから鍵谷さんはそれでいいです(笑)。ただ私の一番素朴な一言は、人が楽しんでいるものをとやかく言わないでほしいということです。
鍵谷 じゃあ中村さんにお伺いしますが、なぜ中村さんが楽しいと思われるものをもっと楽しまれないんですか? 岩浪洋三という人は、セシル・テイラーのコンサートで半分野球を聴いていたという、それでもボクはよろしい。(笑)
鍵谷 たとえばセシルを聴いたとしますね、そして彼のサウンドの中に入りこむ。その時にもう一度そこからワッと離れたいという気がどうしても起こるわけなんです。どうもいじけてるのかな、ボクはは・・・・・・。
いソノ そうね、生活態度もそうだ。
大竹 ファンだと批評は出来ないでしょうね。ぼくはジャズについて言葉を費す者が、ミュージシャンの下側にいたのでは駄目だと思っています。対立する形でなければ批評は絶対あり得ないと。ここで鍵谷さんにお聞きしたいのは、ピーターソンへの憎悪ということです。
鍵谷 結局ボクはピーターソンを一つの代表者にしているんです。ピーターソンだけの問題ではなく、そういう音楽の在り方を考えているわけです。具体的に申しあげれば、ピーターソンは非常にうまくピアノを弾く。しかし、そのうまさというのもやっぱり〝うまさ”のために奉仕しているんだと思う。それとピーターソンには変な折衷性があるんだな。ブラック・ミュージックはまた少し別ですよ。
大竹 たしかにピーターソンの表現は悲しみについても、喜びについても浅いんですよ。でもそれはピーターソンの資質だと思うんです。
鍵谷 それじゃ大竹君の立脚点は何ですか?
大竹 つまり、ぼく自身の全体的な人格というものは非常にだらしない面と狂気にむかって挑みたいような面があるんです。だからセシルも聴けば、キースもピーターソンも必要なんです。
いソノ むずかしい言葉を使わなくても、それを聴いている人が喜ぶ、それでいいんだ。
鍵谷 それはいいですよ。ボクはピーターソンを聴いて喜んでいる人達を批判してないですよ。
いソノ ぼくは喜んでいるなんていう域はとっくに通りこしてますよ(笑)
鍵谷 いソノさんにお伺いしたが、あなたとピーターソンとはどういう関係にあるわけですか(笑)。
いソノ 親兄弟以上ですよ(笑)。
鍵谷 ボクはピーターソンに限らず、ミュージシャンその人に興味を持ったことがないんです。問題はミュージックだけですよ。
いソノ ぼくは音楽を好きになり始めた時から、その音楽をどんな人がやってるのかなっていう興味を持つ。
鍵谷 それはいソノさんのエゴでしょう(笑)。勿論好きだということは難にでもある。しかし、好きという状態が完璧なままで自己充足の状態をもたらさないと思います。必ず何か相反するものがあるでしょう。本当に好きになるには、いろいろと様々な心理的曲折を経ると思います。それなくして“好き”なんてことは簡単に言わないでくれと……。
中村 簡単に言わないでくれって言ったって好きなものは・・・・・・(笑)。
鍵谷 だから好きであるということを一回破壊しなければ駄目だと思います。
中村 冗談じゃないですよ、東アジア反日戦線じゃあるまいし(笑)。
大竹 でも鍵谷さんのようにジャズを聴く人も、あっていいと思うんです。でもそれだけじゃないでしょ、音楽とぼくと無条件の言葉抜きで合体できるものもあると思います。ぼくの場合はピーターソンとなら無条件で合体出来るんです。
いソノ ピーターソンっていう人は、ある意味で楽しいジャズの最大公約数なのよ。あの人には欠点がないんだ。つまり、クラシック畑の人から批難されるような欠点がないんだな。
中村 それともう一つ、ピーターソンが弾くブルースには暗さがないんです。底抜けの明るさ・・・・・。
いソノ だから、ぼくはそのような楽しいジャズを少しでも多くの人に聴いてもらいたいんですよ。
鍵谷 ところがいソノさん、あなたは恐るべき公害人間ですよ(笑)。一面においては、その触媒体が恐るべき錯覚に人を導く言語を弄するのです。たとえばピーターソンが〈テリーズ・チューン〉という曲を捧げてくれたといっていソノさんは感謝する。しかし、ぼくにとってそんなことは意味ないのです。
いソノ 〈テリーズ・チューン〉を書いてくれなかったディジー・ガレスピーや会ったことのないチャーリー・パーカーに対しても感謝していますよ。だけど、何が一番説得力があると思いますか?
鍵谷 実感ですか?
いソノ 体験ですよ。
鍵谷 体験というのはわかります。しかし、ショート・ケーキを食べた体験とピーターソンを聴いた体験と、同じ体験化するのは間違いですよ。
いソノ いや同じですよ(笑)。
鍵谷 違うよ、いソノさんの台所体験でしょ(笑)。ケーキを食べることはあくまでも日常生活体験ですよ。音楽を聴くということは、形而上体験です。
いソノ ぼくにとっての音楽は形而上体験じゃないです。
鍵谷 それならそれでいいですが、水は高きから低きへ流れると同時に、低きから高きへと流れることだってあるんです。
いソノ 毎日毎日一生懸命仕事をして生きているでしょう。そうした緊張からホッとしてジャズを聴くんじゃないですか、皆さん。
鍵谷 待ってください、いソノさん。(笑)音楽はリラックスするために聴くんですか!?
いソノ、中村 それ以外に何があるんですか!
大竹 リラックスするために、という意見には反論したいと思います。つまりぼく自身に与えてくれた一つの感動、これは一体何なのかということを考えたいわけです。必死になって。その結論はまだ出てませんが・・・・・・。
いソノ ぼくは自分なりに結論をだしているんです。ぼくにとっての音楽体験とは自分が幸せになることであり、その感動を多くの人に伝えることだと思っているんです。ぼくの使命だと。
鍵谷 だけどいソノさん。音楽は人を不幸にもするんだよ。だから、ボクは中村さんに申しあげたい。好き嫌いはしかたない、人間は。しかし、音楽という共通の場のどこかで接点を探したいんです。
中村 いいんです。鍵谷さんと別に共通の場を持ちたいとは思いません。
鍵谷 実はそういう言い方が多くのジャズを狭めるんです(笑)。
中村 たとえばコルトレーンという人は大変な人だと思うんです。偉大な、と言ってもいいでしょう。マイルスにしても、どうしようもないわけ。「マイルスはいかに変貌するか!?」なんて、全然興味ない
鍵谷 好きであるためには、たんなる自己没入だけでは、好きだということが甘やかされる。本当に好きになるためには、努力と苦労をかさねて、より好きが進化することもあり得ると思いますね。
中村 全然ピンとこないなあ。(笑)苦労したり、努力したりして好きになるなんてのは……。
鍵谷 苦労とか努力といった言葉を使うから、大変なことになるらしいけれども、しかし努力をして好きの部分が深めらるということもあるんですよ。ただ好きになったいきなり投入しただけじゃ駄目なんです(笑)。その没入を一回くつがえすものがないと……
大竹 さすが鍵谷さんは教育者(笑)。
鍵谷 ボクは教育主義で言ってるんじゃないですよ。
大竹 でもかなり押しつけがましい言い方ですね(笑)。ようするに飢えのない人というのは何を言ってもしょうがないでしょう。ぼくは飢えがあるからジャズを聴くんですよ。
いソノ 餌えのない人にはジャズは不要でしょうね。ぼくは本当の意味のハングリーから始まった。あの時おなか一杯食べていたら、ジャズを聴いていなかったかもしれない。若きウェルテルの悩み、なんです(笑)。
大竹 今の若い人達の飢えといソノさんの世代の飢えとは、質が変ってきているんですね。結局いソノさんのは〈リンゴの唄〉の時代でしょ(笑)。その時は何かパーッと明るいものを迎えたいという気持ちがあったんじゃないでしょうか。ぼく達の世代は、逆に明るさに満たされているのでドロドロしたものを求めたいという気持ちがあるんですよ。
いソノ つまり、今の若い人がコルトレーンの「アセンション」を聴くということと、我々の世代の人が教育勅語を聴くことと同じことじゃないかな。
大竹 それは言えるかもしれませんね。シリアスな対象としてジャズを捉えていますね。結局、音楽体験というものは各人の内部にあるので、いくら言葉を費してもわかりあえないと思います。でも表現するんだったら、不完全ながらも言葉以外にはないでしょうね。この機会に、鍵谷さんといソノさんにお願いしたいのは、音楽からその人の人間性までをもアプローチするような批評をしていただきたいんです。もっと音楽心理学的なアプローチをやれば、おもしろくなるんじゃないですか(笑)
鍵谷 つまり演奏論、技術論に終始するな、レコード評に終始するな、ということで、その中に人間批評なり、文明批評なりを入れろということですね。ボクも同じ考え方です。最後にはいい音楽を作った人に戻りますね。ピーターソンにしてもそうです。しかし、最初から前提としてパーソナリティとかキャラクターを入れちゃいかんと思います。つまり、ピーターソンがカナダ生れであろうが、アメリカ生れであろうが問題ではないんです。ボクはいきなり音楽を聴きたいんです。
いソノ ぼくの場合は、どれだけ愛せるか、どれだけ長い時間聴いているかということですね。
中村 最後に一言。鍵谷さんはピーターソン・ファンのことを単細胞人間だと思われているらしいが、私は別におこらない。というのは、単細胞と言われれば言われるほどに自分が熱中できる、惚れこんでいるということが幸せなことだと感じるからなんですよ。それでいいんじゃないですか、レスターヤングといえばコロリッ、テディ・ウイルソンといえばガタガタ、ピーターソンといえばメロメロ、どうしようもないんですよ、これは・・・・・。鍵谷さん、これぐらい惚れこんでみなさい。と言いたい。(笑)
鍵谷 この不幸者め! と言いたいんでしょ?
中村 鍵谷さん、あなたにはお子さんも奥さんもいらっしゃるんでしょ? それにしてはおかしいな、血も涙も……(笑)
鍵谷 とうとう冷血漢にされちゃったな。(爆笑)『レコード芸術』誌が休刊になるようですね。ジャズとはあまり関係ないですが、なにか淋しいですね😢
いっやぁ~、ピーターソンの好き嫌いをめぐって、こんなに熱くなれるとは😅
「呆れ」を通り越して、もう尊敬するしかありません😂😂😂