【粟村本読み】エピローグ〜六十年代のビッグ・バンド

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粟村政昭・著『モダン・ジャズの歴史』(スイング・ジャーナル社)の最終章の「エピローグ」の箇所を読んでいます。

永井勉さんからのコメント。

お疲れ様です・・・WWW お腹いっぱいになりました・・・WWW

ありがとうございます!

べらんめえAORおやじさんからのコメント。

マイルス・デイビスのビッチェズブリューは、ジャズロックの決定盤だと思います。ストレートなロックに近く、マイルスの突き刺す様なホーンが、ジャックデジョネットやレニーホワイトの爆発する様なドラムとジョンマクラフリンの唸る様なギターに被さっていていかしてます。私にとってビッチェズブリューは、あらゆる箇所に思いがけない新しい驚きを秘めている輝かしい瞬間の詰まった作品です!

「あらゆる箇所に思いがけない新しい驚きを秘めている輝かしい瞬間の詰まった作品」というのは、まさにおっしゃる通りだと思います!

『ビッチェズ・ブリュー』いいですよね。

このアルバムは様々な要素が多義的に交わり合っているからこそ、今でも私は飽きずに聴き続けていられるのだと思います。

このアルバムは、単なる「名盤」という言葉ではとても収まりきらない、巨大で多義的な音楽のブラックホールのような存在、というと言い過ぎかもしれませんが、私もこのアルバムに出会ってから30数年が経過していますが、まったく色褪せないどころか、聴くたびに新しい表情を見せてくる。私も、いまだに「もう十分聴いた」と感じたことがありません。それはおそらく、この音楽が聴き手の頭の中の「モード」や「チャンネル」によって、まったく異なる色彩を放つからなのだと思います。

まずはおっしゃる通り、ジャズロックとしての側面。
たしかにジャックデジョネットもレニーホワイトもたまらんですね。爆発したり地鳴りしたりと「カッコ良ヤヴァい」ですw

あと、やっぱりジョン・マクラフリンの切り裂くようなギターが、中山康樹氏の言葉を借りると「ク〜、たまらん!」です。

この時期のマクラフリンは尖ってましたよね、トニーとやっていたライフタイムのギターも殺気立っていたし、あと、ミロスラフ・ヴィトウスの『限りなき探求』のマクラフリンのギターも、アグレッシブミステリアスというか(なんじゃそりゃ?)。
またまた中山康樹氏調にいえば「風雲急をつげる」感じ?とにかく、知的なヤバさと攻撃性が、とってもクルんですよね。知的でありながら危険な匂いを放つ音というか。これが、このアルバムの混沌をさらに彩っているように感じます。

技巧を誇示するのではなく、音そのものが何かを破壊し、新しい地平をこじ開けようとしている。

一方で、このアルバムは純粋にジャズとしても楽しめます。というか、マイルスのトランペットそのものが、とても素晴らしいです。
突き刺す様なホーンとお書きになられていますが、まさにその通りで、トランペット奏者・マイルスという奏者の凄みとして聴いても、極めて深い作品でもあります。

ただ、完成版としてのアルバムを聴いていると、マイルスのトランペットが少し「遠い」と感じる瞬間はありませんか?

重なり合った音のレイヤーの向こう側で鳴っているような、薄い空気の膜を隔てた距離感。ちょっと遠い感じ? それがまた、スケールエフェクトがかかった巨大感が出ていて良いとも思うのですが。

海賊盤で、編集前」のスタジオで録音した演奏の「断片」がたくさん収録されたCDがあるんですよ。ここに収められた「演奏の断片」は、音楽としては聞けないかもしれませんが、編集前の断片や別テイクを聴いてしまうと、より一層そのことを強く感じます。

そこで聴けるマイルスのラッパは、とにかく生々しい。スタジオの空気を直接震わせるような、剥き出しの音で、聴き慣れたフレーズでさえ、ぐいっと目の前に迫ってくる「圧」があります。

どうしてアルバムとはこんなに音質違うんだろうと考えた時期もありました。
なぜテオ・マセロは、最終的にあのようなミックスを選んだのか。

あくまで想像ですが、トランペットを「主人公」として際立たせるよりも、「音響環境の一部」として配置することを選んだからではないでしょうか。
おそらくはマイルスのラッパを主人公にする選択よりも、マイルスのラッパをバックのたくさんのリズムの中に共存させようとしたミックス(マスタリング?)にしたのかもしれません。

だから良くいえばマイルスのトランペットは周囲のサウンドに溶け込んでいる。悪くいえば、マイルスのラッパが少し埋没しているきらいもある。だから、アルバムだと、なんとなくぼんやりとした感じというか、複数の薄い空気の膜というかレイヤーがかかっているように聞こえるのかもしれません。

トランペット+オーケストラではなく、トランペットも含めた巨大なオーケストレーション。その結果として、アルバム全体が霧をまとったような、独特の空間性を獲得した。
……のではないかと考えています。

しかし、いったん編集前の生々しい音を知ってしまうと、正規盤を聴くときにも脳内でその音圧が補正され、音数は少ないのに、攻撃力と緊張感が極限まで凝縮されたマイルスの吹奏を、より深く味わえるようになるので、より楽しみ方が拡がりました。

そして、プリミティブなアンビエント・ミュージックの側面もあると思います。

『ビッチェズ・ブリュー』をジャズやロックの視点で捉えると、あの混沌としたエネルギーや即興性に目が向きがちです。つまりジャズやロックの文脈で聴くと、即興性や展開などの物語性に意識が傾きがちなのでですが、しかし、夜中の静かな時間帯にボリュームを絞って少し距離を取って「環境音楽」として耳を澄ますと、まったく別の風景が立ち上がってきます。

つまり、「プリミティブなアンビエント(原始的な環境音楽)」として聴くと、このアルバムの持つ「空間性」や「呪術的な反復」がより鮮明に浮かび上がってくるような気がするのです。

アンビエントでは、よく「ドローン」という言葉が使用されますが、ヘリのドローンじゃないですよw、ドローンという概念、つまりは「持続する音や執拗な反復」を意識して聴くと、タイトル曲や《ファラオズ・ダンス》には、起承転結による物語がほとんど存在しないことに気づきます。

複数のエレピが揺らぎ、ベースが呪術的に同じラインを繰り返す。その響きは、時間が前に進むという感覚を希薄にし、まるで「そこに居続ける」音楽のようでもあります。インド音楽のドローンや、後のミニマル・ミュージック、アンビエントに通じる「時間の停止」が感じられます。

それは、ソロが「語っていない時間」が「やたら長い」ということからも、そしてテーマが「提示→展開→回収」されるとは限らないということからも明らかでしょう。

テオ・マセロによる「音響構築」、ご存知の通り、このアルバムは、プロデューサーのテオ・マセロによる膨大な編集(カット&ペースト)を経て完成していますが、彼の大胆かつ膨大な編集は、演奏を素材として切り貼りし、音の配置によって空間を設計する行為だったともいえます。

これは後にブライアン・イーノが提唱するアンビエントの制作思想を先取りしています。楽器が個別に語るのではなく、すべてが溶け合って一枚の音のタペストリーを形作る。このサウンドスケープ的な感覚は、非常に環境音楽的です。

そして、そう、「プリミティブ」なんです。
『ビッチェズ・フリュー』は、アンビエントとしては洗練されてはいません。音は荒く、密度は過剰で、情報量も多すぎる。だからこそ「プリミティブ」なのだと思います。

複数のドラマーによるポリリズムは、都会的な洗練というより、土着的で儀式的な熱量を帯びています。後にジョン・ハッセルがマイルスの奏法から影響を受け、「第四世界(原始的感性と未来的技術の融合)」を提唱したことを思うと、その萌芽はすでにここにあったと言えるでしょう。

イーノはアンビエントを「注意深く聴くこともできるし、無視することもできる音楽」と定義しましたが、『ビッチェズ・ブリュー』もまた、真剣に向き合えば圧倒的に濃く、音量を落として流しておけば、深い森や異星の魔界海岸に立っているかのような環境音として機能し始めます。この二面性は、ジャズとしてはかなり異端です。

あの不穏で、かつどこか心地よい浮遊感は、メロディを追う聴き方から解放されたときに、より一層それを感じるのですが、この感覚は、モードジャズの延長線上としても捉えることができる。

つまり、ハンコックやショーターとやっていたネオ・アコースティック・ジャズ的な4部作や、『イン・ザ・スカイ』、『キリマンジャロの娘』においての実験作業は無駄ではなかった、というよりも、むしろ生きている。
響き、リズム、使用楽器、楽器編成などアプローチを変えながら抽象度を上げていく作業を経て得た感覚がマイルスのトランペットのフレーズと間の取り方に確実に結実していると感じられます。

べらんめえAORおやじさんが仰る「あらゆる箇所に思いがけない新しい驚きを秘めている」という感覚は、まさにこのアルバムの本質だと思います。

『ビッチェズ・ブリュー』は、理解する音楽というより、環境として共存する音楽。ジャズロックとして熱く聴き入ることもできれば、抽象度は高いかもしれませんが極めてジャズ濃度の濃いマイルスのトランペット、そして原始的なアンビエントとして身を委ねることもできる。その多面性に気づくたびに、この作品はまた新たな側面を見せてくれる作品だと思っています。

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2024年3月25日 21:16