動画「ペッパー、パーカー、屁便談(へべんだん)」(こちら)に視聴者さまから頂いたコメントを紹介した動画をアップしました。
コメント
御駄賃取郎 さんからのコメント。
ペッパー演じる「ある恋の物語」なんですが、記憶をたどれば・・・日本のユピテルレコード(かつて存在した)
がウエストコーストのトランペッター、ジャック・シェルダン名義のレコードに参加したものをかつて所有していた記憶があるのですが、数年前外盤で復刻されていた記憶があります。よく昔は仲間内で「ビル・エバンスのやったベサメ・ムーチョは?」とか「トレーンの枯葉のレコードはあるか?」などの話題でもりあがりましたが、、前者はデイブ・パイクの「パイクス・ピーク」に、後者の音源はユーチューブでどこかのライブ音源を見た記憶があります。
あとロリンズが昔とりあげたチャイコフスキーの「悲愴のテーマ」はピリオドレーベルの「ロリンズ・プレイズ」にありますよね。などと、今のファンには「SO WHAT?」とまるで興味がなさそう?ですが、寺島さんなどの世代にはとても興味をひかれる話題のようでしたねえ。。。。
テレビ創世記の時代、まだビートルズなども出ていなかった頃の日本のPOPSでは「ラテンヒット曲」が中心でしたね。
「クール・ストラッティン」の私のイメージは「盆踊りで流れる東京音頭」のマイナー版のイメージかな?笑 このレコード票ではこちらのサイトで知った「早春さん」のレビューが実に秀悦ですばらしい!と思いました。
なにかで読みましたが、セミの音(声)や蛙の鳴き声から音楽や詩が浮かぶ民族は日本人だけなんですとか・・・。
御駄賃取郎さん、ありがとうございます!
もはやこれは「コメント」じゃなくて、ひとつのエッセイ的ジャズ放談ですね(笑)
ジャック・シェルダン名義の「ある恋の物語」参加盤──
おそらくですが、私も昔どこかで聴いたか、触れた記憶があります。ユピテル!ありましたねぇ。
地方の小さなジャズ喫茶で、そのジャケットだけを見たような、ぼんやりした記憶ですが……。
にしても、
「ビル・エバンスのベサメ・ムーチョは?」
「トレーンの枯葉のレコードは?」
──って、ジャズ昭和クイズ選手権・幻音源部門みたいでたまりません(笑)
あの手の話題って、実際の録音以上に「記憶の中の演奏」が勝手に増幅されていきますよね。
誰かがうっすら「聴いた気がする」と言うだけで、もうみんなが勝手に盛り上がっていく。
で、よくよく調べると……
ベサメはエバンスじゃなくてデイヴ・パイク(しかも意外と良い)
枯葉はコルトレーンじゃなくて、ラジオ音源のような“夢の残骸”
ロリンズのチャイコフスキーは『ロリンズ・プレイズ』に実在!
この“実在と幻の間”が、ジャズ聴きの特権かもしれませんね。
それにしても、「クール・ストラッティン」=「東京音頭のマイナー版」って(笑)
いや、でもわかります。あの手拍子入りそうなリズム感、盆踊り的多幸感──
なのに妙にハイセンスに聴こえるあの感じ、確かに“日本の耳”にはしっくり来るんですよね。
それから何より痺れたのは、御駄賃さんがラストで言及していた、
「セミや蛙の鳴き声から音楽や詩が浮かぶのは日本人だけ」
──というくだり。これ、めちゃくちゃ重要な示唆だと思うんです。
つまり、“音”そのものではなくて、音の余韻とか、響きが染みる間合いに意味を感じる文化。
音楽で言えば、“アタック”じゃなくて、“ディケイ”や“サスティン”の部分で聴いている。
「鳴った音」より「鳴り終わった音」が、美学の中心にある民族。
まあ、この概念はクラシックでも教わることなので、日本独特のものではないかもしれませんが…。
でもまさにこれって、まさにアート・ペッパー初期の魅力そのものじゃないですか。
ペッパーの抑制、リリース、抑えた激情。
「言いたいこと10あるけど、6で止める」っていう話──
それ、まさに「滲み出る情念(情感)こそが音楽」という美意識ですよね。
で、そういう聴き方がなぜ日本人にハマるのかといえば、我々は「ハイコンテクスト文化」の民だから──
言わないけど、伝わる。
言いすぎると、冷める。
全てを語らずに、察しあう。
昭和の風呂なし六畳一間で、ラジオから流れるペッパーの音を聴いて
「おお…」と一人うなずく、そういう美学が確かにあったんだと思います。
ちなみに私は、前期のペッパーの方が好きですが、ペッパーの後期も嫌いじゃないんです。
封印していた「全開の苦悶・懺悔・自己開示」が「ああ、人は歳をとると?あるいは人生経験を経ると?ここまで自分を曝け出せるのかな、と思うこともあり、若い頃には軽く引いていたのですが、恥多き人生を送ってきたことを振り返る現在(苦笑)、最近は逆に沁みてくることも時にはあります。
ただ、やっぱり初期のペッパーには“封印された激情”の美がある。
まさに「吹き終わった0.2秒後の、空気の震え」にこそ意味があるという。
──まるで、夏の終わりの夕暮れに、誰かの歩いた後ろ姿の「残像だけが切ない」ような。
なんだか四流詩人みたいになってきたので、話題を変えて、リー・コニッツ!
私も《アイスクリーム・コニッツ》全開期の、あの冷たく研ぎ澄まされた色気に夢中でした。というか今でも?
ただ、晩年の“ボワボワ化”もまた、人生のやりきれなさがにじんでいて、「サビた音の味わい」っていうのかな……つい、聴いちゃうんですよね。
御駄賃さんのような方がこうしてジャズの記憶を丁寧に語ってくださると、こちらも、昔の音がどんどん脳内で蘇ってくるようです。
音源も盤も、そして記憶も──“残ってる”ことのありがたみを感じつつ……、長文失礼いたしました。
2024年9月11日