視聴者の皆さまよりいただいたコメントに対してのアンサー動画です♪
『スイングジャーナル』1985年6月号掲載のコーナー「ザ・論争」紹介動画の続編です。
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そして、今回アップした動画。
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岩浪洋三氏に論争(?)を挑まれた、小川隆夫氏のアンサー記事の紹介です。
コメント
はい勝寿さんからのコメント。
小川さんの文章かっこ良いですね。理詰めで、整然としていてわかりやすい文章だと感じました。おそらくこれは単に知性の差なんじゃないですかね。古いjazzの本を読むと筆者の主観と、思い出マウンティングが多く、うんざりすることが結構あります。ちなみに私は40代です。
>おそらくこれは単に知性の差なんじゃないですかね。
うむむ、なるほど。
>思い出マウンティング
たしかにこれにはウンザリですね。
2019 enchanさんからのコメント。
動画配信ありがとうございます。最近パーカーのダイアル集を聴いている毎日です(# Out of Nowhere ・・・沁みる〜)。岩浪さんの発言ですが、残念ながら古くて今では通用しないです・・・わざとやっているんでしょうけどね。今はコンプライアンス遵守とハラスメント防止の時代ですもんね。
いつのまにやら「ダイアラー」になっちゃっていたんですね♪
《アウト・オブ・ノーホェア》は、とても良い曲ですけど、あの明るいシンミリさには、パーカーのあの音色がピタリと似合うんですよね~。
ノエルNoelさんからのコメント。
昔は若者の反骨精神からカウンターカルチャーとして色々なファッションや音楽スタイルが生まれて行きましたが、
今や世の中くだらなさ過ぎて若者がカウンターする気も起きないって時代な気がしますね(´^ω^`)笑
Kawai Andyさんからのコメント。
知と情の観点から言うと、どっちもどっちですかね?
小川さんは凄くスマートですが、岩波さん(※表記ママ)はまるでドン・キホーテですね。
どちらが優れてるというものではない様な気がします。
どちらが「粋」なのかは人それぞれが決める事なのかも。
結論の出ないレベルの高い論争があっても良いと思うし、論争の
プロセス自体が意味ある事であり、結論を決めるのは「野暮」な感じがする。
カトウシュンさんからのコメント。
小曽根真さんのライブレポートの見出しが掲載されていると聞き40年前からプロとして活動をしていたのか、と思って調べてみたら15歳(1976年)でプロデビューしていたんですね。
まぁ、40年プロとして活動しているのもスゴイですが…(^_^;)
そうなんですよ、びっくりするほど若い時にデビューしているんですよね。
昔アルバイトしていたジャズ喫茶では、『OZONE』がよくかかっていました。
懐かしい!
飛田野正人さんからのコメント。
私の家から一番近くにあるCD屋、なるべく営業をして欲しいからと、最低でも月に一度は買いに行くお店があったのですが、
最近新装開店して、売り場の80%近くがトレーディング・カードのお店になってしまいました。。。
残り20%のCD棚に、偶々持ち合わせていなかったドン・フリードマンという人の『サークル・ワルツ』というCDがありまして、購入して今それを聴きながら書いております。
CDの解説には「エヴァンス派」と書かれていたのですが、聴いてみると非常にあっさりしていて、寧ろ「エヴァンスって実はクドいんだな」と思いました。よくよく考えてみると、エヴァンスの「マイ・ファニー・バレンタイン」のテーマとかを思い起こされたりもしました(私的にクドい!)。
さて、この論争ですが、高野さんの仰るように「プロレス」的丁々発止だと思います。思いますが、その内容は「プロレス」なんだろうか?という疑問が湧きました。
投げる、決める、フォールする。そういう基本的な動きにレスリングがあるか。レスリングがしっかりしていて、それで観客を魅了出来るのか。その基本があっての殴る蹴る、空中殺法、反則攻撃があるんですよ。レスリングを基本にして、観客を煽ってエキサイトさせるんですよ。
凄い昔、日プロ時代の猪木VSブリスコ戦をお勧めします。「レスリングとは何か」を堪能出来ると思います。
繰り返しますが、この論争は「プロレス」なんでしょうか?「プロレス」があるんでしょうか?単なる原則論の確認でしかないと思います。
この「プロレス」を「JAZZ」という言葉に変えたなら、少なくとも主旨はご理解いただけると思うのですが。
論争そのものの内容や展開というよりも、私がこの動画で喋っていた時に頭の中にあったことは、記事のタイトルやヘッドラインがプロレス的だよなぁということです。
つまり、「興行としての煽り文句」と同じテイストを感じたので、おそらくプロレス的というようなことを言ったんだと思います。
内容に関していえば、プロレスの試合進行、内容的な丁々発止かというと、それはまあ「?」だと思いますよ(苦笑)。
で、そういえば、後になって「ん、プロレス? そういえば、誰かが昔の『スイングジャーナル』はプロレス的だと既に言っていたなぁ」と思い出し、その出典は何だったのだろうと本棚を数日漁っていたら、ありました、ありました。
中山康樹氏、後藤雅洋氏、村井康司氏の鼎談集の『ジャズ構造改革』でした。
既に何度も読んでいる本なはずなのに、動画を収録しているときは、この本の内容はまったく忘れていました。でも、記憶の底には沈殿していたのでしょう。
後になって読み返してみたら、なんだ私が感じていたことを、この方たちのほうが上手く、そして具体的に説明してくれてるじゃないか!と感じたので、ちょっと長いけど、その箇所を引用してみましょう。
(前略)
村井:小学生の頃、「ゴング」とか読むの好きだったもんな。雑誌でアメリカのプロレスラーの名前を覚えるわけですよ。パット・オコーナーとかウィルバー・シュナイダーとかさ、ほとんどジャズミュージシャンの名前だよね(笑)。考えてみるとデヴィッド・シュニッターとどこが違うんだみたいな話でしょ。だから、好きなジャンルの知識を増やすと言う意味では、同じような喜びだったよね、「スイングジャーナル」も「ゴング」も。
中山:その架け橋がローランド・カークだったり(笑)。ただね、昔の「スイングジャーナル」なんかのバックナンバーを見ると、プロレスと同じで、たとえば「狂犬ディック・マードック」とかみたいに、ジャズ・ミュージシャンにも冠言葉があるんだよね。「〇〇の呪術師」みたいな。
村井:最近あんまり使わないですよね、そういうの。
中山:名付けるほうも読むほうも恥ずかしいと感じるようになったのかな。
後藤:ローランド・カークだって、「黒メガネの怪人」とかさ。あれは完全にプロレスのノリですよね。
中山:ジャズのコンサートなのに主催がサンケイスポーツとかあったでしょ、昔は。スポーツ新聞が販促も兼ねてやってたんですよね。
後藤:統括する部分の感覚として、ジャズメン来日とプロレスラー来襲と似たようなものだったのかな。同じ興行だもんね。
村井:そうそう、同じなんだよね。でも「ジャーナル」なんか、いまだにその残滓が残っていて「対決」とか大好きじゃない。「東西テナー勝負」とかレーベル対決とか。
後藤:そうだよな、俺もさんざんやらされたからな。
村井:あのノリってプロレス雑誌ですよ。
後藤:つねに対立の図式を作っていて、ファンをぐいぐい引っ張っていくと言う…。
中山:ジャズ喫茶のオヤジがジャズの文章や評論を書くようになったっていうのは、ジャズ喫茶のオヤジのほうがレスラー的だからなんですよ。要するに、プロレス的なものが求められていたという時代的背景があった。四角いリングがあって、場外乱闘を編集者が望んでいたと言うことです。
(後略)
後藤さん仰るところの「つねに対立の図式を作っていて、ファンをぐいぐい引っ張っていく」という、企画の「手法」が、まさに私が思うところの「プロレス的だなぁ」なところですね。おそらく、対談のここのところが記憶に残っていたのでしょう。
人力飛行機さんからのコメント。
1987年だったか。ある文学系の24時間連続講演会行ったことがあって。色んな方が順番に壇上にあがりお喋りする。そこで中上健次氏が缶ビール片手に、自分の前の吉本隆明氏の講演に噛みついて。「そんな批評でいいのか?」みたいに。でそれでその発言で、会場の聴衆たちと中上氏との間で侃々諤々の討論が始まって。「文句があるならかかってこいよ。俺は受けるよ」とか中上さんは壇上で言ってて。結局中上さんと聴衆でやってても埒が明かないので、彼に批判された吉本さんが壇上に上がって二人で話し始めて。みたいな時間があったんですけど。まさに中上さん元全共闘の面影躍如(笑)しかしそこで吉本さんの切り返しで結局会場爆笑。さすが百戦錬磨の吉本さん。面白かったですねー緊張しましたしリアルタイムでは二人が何について話してるのかよくわからなかったし(笑)あとからこの講演会の内容が本にされてわかりましたけど・・・やはりあの世代は血の気が多いと思います。あれで下手すると暴力沙汰みたいな。なっちゃうんでしょうねーやだやだ(笑)議論の末の暴力はおっかないですねー引くに引けないというか。
なんかいいですね~。
生で観戦したかったです。
御駄賃取郎さんからのコメント。
・・あらためてこの記事を聞いて思うこと。たしか1985年といえばSJの編集長は中山氏だったような・・。
彼の前は大熊氏、その前が児山氏・ の前が岩波氏が編集長だったと思う。そして中山氏はこうした対談企画・論争企画・あるいは寺島靖国さんの起用などなど、おもしろいアイデアマンであったと思う。会った印象でも「するどい、ムッツリすけべタイプ、あるいはいつも鉄仮面喋り(中曽根康弘氏の話し方)だなあ、という印象だった。m(_ _)mそしてこうした企画モノは大抵が「裏では仲良し」であるほうが盛り上がるものだが・・。
85年当時は「ジャズを芸術として高めよう!」という児山氏に対して「冗談じゃねえや!」と反対する流れのうねりがぶつかっていたと思う。「スピリチャル・ネイチャー」はまさにその象徴にも思えた。
私の考えでは、「団塊の世代」というのは、いかにこむずかしい理論をこねくりまわそうが、本質は単純な善人であることがおおかったな。そして酒をのんで、ただたださわいでぶつかり大騒ぎするというのは体育会系ノリの悲しき習性のように思う。あの世代はまだまだ、そういう教育姿勢が学校にも色濃くあった。昔の「学生運動」とは
今の「みんなでもりあがって騒ぐコンサート」のノリと、あんましかわらんと思う。圧倒的多数の学生達の姿は自分にははそう見えた。私は映画やコンサートは一人でいくものだと思っている。たとえば小川さんのような頭脳明晰なお方とは絶対に一緒にいきたくないと思うのだ。それは、自分の感想以上の分析を聞きたくないからだ。これも「女房自慢するやつは嫌い」という私の固い?信念の礎となっているのだ!?←(あほめ!)