山下洋輔トリオのライヴにぶっ飛んだ人の読者投稿~『jazz』1976年1月号より

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『jazz』1976年1月号の読者ページ「インプロビゼイション」の投稿を紹介しています。
山下洋輔トリオのライヴにぶっ飛んだ人の読者投稿です。

コメント

エデルまさおさんからのコメント

高野さん、ミンガスの、カーネギーホール大好きなんですが、ローランドカークについて、彼の熱血ワンホーンが聴ける他のアルバムお知りでしたら是非とも教えてください🙏

ロイ・ヘインズがリーダーの『アウト・オブ・ジ・アフタヌーン』なんか好きですね。
「ブリッ!」とくる瞬間が多数。

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博 橋本さんからのコメント。

ジャケットの写真の木立の場所はヴァンゲルダーのスタジオの庭だそうですね。
行ってみたいなあ😃

イングルウッドの森♪

博 橋本さんからの返信。

ロイ・ヘインズが嬉しそうです😄
『Volunteered Slavery (邦題:屈辱への道)』もノリノリのところがお勧めです😃

邦題って「屈辱への道」だったんですか!
勝手に「奴隷志願」だと思ってました。

カトウシュンさんからのコメント

読者投稿のコーナー面白いですね❗
まとめて一冊の本してほしいです\(^_^)/

高松貞治さんからのコメント

山下洋輔は肘でピアノの鍵盤を叩く、ぐらいで過激ですから、そりゃあ観客も、ノリますよ!それに、仲間に筒井康隆たちがいるので、書いた本が最高に面白い🤣ピアニストをやめても作家として、やっていけるんじゃないかと思わせます!

丹治永さんからのコメント。

学園紛争の炎が燃え盛っていた頃、全てとは言いませんが、学園祭は左翼グループが主導権を握っていました。あの早稲田ロックアウトの大隈講堂ライブ以来、山下洋輔トリオは反体制派のシンボルに祭り上げられていました。当時の風潮として、マルクスの共産党宣言に目を通しているものは知識人、読んでいないものはお馬鹿の体育会系(先輩方ごめんなさい。私はそう思っていませんので。)というものでした。そして彼等の中では、山下洋輔トリオを聞くことは、共産党宣言に目を通すことと同レベルで、知識人としての通行手形のようなものでした。音楽全ての理論になびくことなく、根底から覆そうとするフリージャズこそ、破壊から始める共産党革命を標榜する彼らのイデオロギーの象徴だったのてしょう。この投稿主さんが書かれているように、学園祭に行けば山下洋輔トリオに会えるというのは、あながち嘘ではなく、多分に上記のような理由があったのだと思います。フリージャズはおしゃれであり、知的であり、思想であり、哲学であり、反体制的であると。破壊的で暴力的な彼らの演奏を、当時の私は快く受け入れることは出来ませんでした。しかし、肝試しでビビると馬鹿にされる!というような心理も働き、ライブもよく行きました。彼らを初めて受け入れられたのは、浅川マキさんのライブLPを聴いてからです。そこには、打って変わってとても良くスイングする山下洋輔トリオがいました。稲葉国光さんが加わり、カルテットの演奏でした。中でもボロと小鉄というジャズワルツで演奏された曲が心に染み渡りました。中~後期コルトレーンカルテットを思わせるその演奏は、とても素晴らしいものでした。その時初めて、彼らの辿ってきた道のりと現在の立ち位置を、私なりに理解することができました。コーダルを経験し、ボサノバも通過して、モーダルを踏み越えてたどり着いた、究極の情熱の発露の姿だったのでしょう。新宿にあった「ジャックの豆の木」というお店で、彼等が暴れまわっていた時代のことです。3人はその後それぞれの道に進みますが、いつも彼等の活躍を楽しんでいます。彼等がまた一緒にフリージャズをやることは、二度とないでしょう。またやれるとも思いません。あれは、あの時代に彼等がそこで遭遇したからこそ生まれたものだからです。同じものを今やれば、それは偽物になってしまうような気がします。ジャズとはそういうものであるだろうし、それを乗り越えて歌い継がれるスタンダードは、大河の水が消えても、地下深い岩盤の上を脈々と流れる伏流水のようなものなんだなと、改めて感じた次第です。引火すれば爆発してしまうようなエネルギーを、風船の中にパンパンに詰め込んだような時代でありました。

当時の詳細な記述、ありがとうございました。
その時代の空気をリアルタイムに経験した方ならではの体験談は、やはり違いますね。

私が多感な時期を過ごしたのは80年代でしたが、私がこの時代に感じた空気感を重ね合わせると、なるほど、繋がっているんだなと実感することが出来ます。

しかし、繋がるといっても、進化、発展、拡大したのではなく「萎んだ」。

爆発してしまうようなエネルギーがパンパンに詰め込まれた風船は、時間の経過とともに萎んでいってしまったのだなぁ、と。

というのも、いつの時代も若者はエネルギーを持っているとは思うのですが、そのエネルギーの矛先と発散の手段が、矮小化していった気がするのです。

社会、権力など「大きな」ものに向けられていたエネルギーが、校内暴力(対象は教師)、幼女誘拐殺人(対象は幼児)、盗んだバイクで走りだす(窃盗)、校舎の窓を割る(器物破損)などなど、なんだか矛先が個人や弱者に向けられ、スケールが小さくなっていったような気がします。

もちろん、上記の事柄は、ニュースやメディアで取り上げられた特殊なケースで、ほんの一握りの若者しか当事者ではないのですが、なんとなく80年代という時代の「垢」として、私の記憶の中のカラーイメージとして横たわっています。

では、大多数の若者のエネルギーの発散先は? というと、アニメ(70年末期あたりからの『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』)、ゲーム(70年代末期からはじまったインベーダーブーム)、ウォークマン(70年代末期に発売され、後にブームになる)、漫才ブーム(80年代初等)などなど、個人単位で没入できるエンターテイメントに向けられていくように思いました。

良くも悪くも、「密」だったエネルギーが「拡散」してゆき、モノクロあるいはセピア調だった70年代のイメージが、カラフルあるいはパステル調の色彩を帯びてきた時期が80年代だったのだと思います。

だから、
>あれは、あの時代に彼等がそこで遭遇したからこそ生まれたものだからです。
というご意見にはまったくもってその通りだと思います。

変わってしまった時代の空気感の中で、同じことをやったところで、

>それは偽物になってしまうような気がします。

まさに!
やったところで、形骸化したセルフカバーにしかなりませんよね。

危険なエネルギーに満ちた空気の中でしか生まれえなかったヒリヒリするほどの表現。
これが封じ込められた音源を、今の時代に聴くことは、まるで濃密な空気を圧縮して封じ込められたタイムカプセルの封印を解くようなスリルとワクワク感があります。

そして、彼らの演奏を聴くと、音の隅々にまでパンパンに膨れ上がった破裂寸前の風船のような一触即発感がこびりついており、その時代を体感していない私にも、強烈なエネルギーがたしかに届いているのだという実感があるのです。

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