【ゲリラライブ配信】村上春樹嫌いな人への質問と、朝ドラ『カムカムエブリバディ』とスタンリー・タレンタイン、ソニー・クラークほか

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先日、発作的にライブ配信をしたくなったので、特にきちんと準備をせぬまま勢いでライブ配信をしました。

いちおう「釣り」としてサムネは先日最終回を迎えたNHKの朝ドラ『カムカムエブリバディ』の画像を使用していますが、話の冒頭のテーマは「村上春樹が嫌いな人」です(笑)。

もちろん、後半になったら『カムカムエブリバディ』の話題にも移行していますが、それにしても皆さん博学~! 勉強になるなぁ(私が勉強不足なだけ💦)

コメント

御駄賃取郎さんからのコメント。

村上春樹を私が大きくヘイトする理由・・・書くと長くなりそうなのでできるだけ簡略にいたします。

すでにマスターが解析されている原因がすべてだとおもいます。また反・春樹本の趣旨にも同感です。「フィクションだから」といっても、村上と世代が近い自分などからすると
(安っぽいなあ、うそっぽぃなあ・・)という印象しかなくジャズについても(ジャズ喫茶をやっていたわりにはうすっぺらだなあ・・)でしかなく、また「こんどこそノーベル賞をとるか?」という時期にハルキストの集まる店につれていってもらい、その暗さに辟易して病理を感じたり・・・。結局「ハルキにやるくらいなら・・」?という力が働いてボブ・ディランに賞が行ったときも(ああ・・自分だけじゃあないんだな)と妙に安堵感があったり。。

しかしあくまでも趣味の範囲の問題なので嫌いだけど、あってもそれはそれでいいのです。私にはつまらないという意味では「見えない存在」でいいのです。私にとってのウィントンと同じです。

あとマスターが「感性が鈍って・・」ということには反発をかんじてしまいます。自分も含め特にビートルズ以降の音楽ファンにはそんなことはないように思います。演歌もロックもクラシックもジャズも「好きか、嫌いか」だけです。

私の中では両村上氏(龍、春樹)の存在は、あの赤川次郎と同じ程度です。   あ?ちなみに私は福山雅治がどうしても好きになれません。僻みもありますが、あの完璧な自己陶酔を感じさせる自信?にはヘドがでるくらいです。
僻み・ねたみ・もてない田舎者=こそが伝統的・正統派の古典的ジャズファンだ=ジャズ・ファン田舎者説を盲信している私です。m(__)m

ご丁寧な回答ありがとうございました<(_ _)>

おおむね、私が感じていることと同じポイントが御駄賃さんの場合は「嫌い」、私の場合は「好き(あるいは許容範囲)」ということが分かりました。
結局、感じとっていることは同じ、あとは好き嫌いだけの話だったんだなーと。

これは、ウィントン好き嫌いにもリンクするところでもありますね。

あとひとつ、誤解をさせてしまったかもしれませんが、
>あとマスターが「感性が鈍って・・」ということには反発をかんじてしまいます。
これ、主語は私じゃないですよ。
「ウィントン擁護派は~」です。

ウィントンを認めている人たちが、「アンチ・ウィントン」な方たちに感じている気分を代弁したつもりだったのですが、私がそう思っているように聞こえたのなら話し方が悪かったようなのでゴメンナサイ。

こちらこちらの動画に、ウィントン好き・ウィントン嫌いの方々からのコメントをまとめています。
お読みになっていただければわかると思いますが、賛成派にも反対派にもそれぞれ言い分があって大変興味深いです。

御駄賃取郎さんからの返信。

誤解してしまいまいた。大変申しわけありません。m(__)m

それにしてもインターネットの時代に生れてこれて良かった、とつくづく実感しています。
退職後に退屈することもなく、むしろ今ではこちらのようなすばらしい(お世辞抜きです)ジャズのサイトがありこうしてプロのマスターとも直接やりとりさせていただけるなんて想像もつきませんでした。そしてYOUTUBEのジヤズ投稿サイトも数年前にくらべてまさに激変していますよね。したがっていまの楽しみはハード・バップ期の買えなかったレア音源を聞き集めるだけでも余生がたのしめそうです!

個人的な感想ですが、高野マスターこそ、私がこれまで読んできたあらゆるジャズの本よりも濃密でわかりやすく、かつバランスがとれており、恐れ入るばかりです。

またまた~。
股股~。
きんたま~(←あまり褒められたことがないので、動転している様子💦)

御駄賃取郎さんからの返信。

晩飯をたべおわって「ハタッ!」と気が付きました。村上春樹に感じる違和感=昔のバブル期にはやったトレンディドラマを彷彿とさせる作風にいらだった。あのドラマにあこがれた女性たちが「だまされた!」と恨み節をあとから多くぼやいていた。
あの頃「中央線文化」「4畳半フォーク」などがうまれたのは「東京モン」「東京文化」に対する地方出身者の「ケンカウリ!」だったような気がする。そこでは村上春樹は敵側であったのだ(というイメージ)。
自分は実兄のイカレ・かぶれ具合(団塊世代の妄想)を間近でみているのであくまでも村上春樹には違和感しか感じない。。しかし今となっては「田舎者」はむしろ「東京モン」のほうだったような気がする。。フィクションにするにはまだナマナマしく、片側通行でかかれることにいかがわしさをかんじてしまうのではないだろうか。(と、自問自答して、今日は寝よう!)

>地方出身者の「ケンカウリ!」
これで思い出したんですけど、うちの息子、大学に入学した前後に友人と免許合宿に行っていたんですよ。
栃木か群馬か忘れましたが、要するに北関東の合宿所に。
そこで、知り合った同世代の何人かの男子と仲良くなってグループ行動していたようなんですが、彼らの口癖は、「東京モンがスカして」とか「さっすが東京は違うね」だったそうです。
もちろん、喧嘩を売っているような言い方ではなく、友達同士が「お前バッカだなぁ」と言い合うような感覚だったそうですが、いちいち何か言うたびに、このような言葉が混ざっているので、少々辟易したそうです。
と同時に、東京生まれの東京育ちの息子にとっては、この地方ヤンキーたちの「思考パターン」が新鮮であり、かつ「なんでいちいち東京のことを気にして、かつ地元と東京を比較しながら話すんだろう?」と疑問に思ったそうです。だって自分はいちいち「栃木は……」とか「群馬は……」とか他所の土地と比較しながら物事を考える習慣がなかったから。息子の友人も、「なんでどうでもいい細かいところまで東京と比べて勝ってるとか負けてるとか比べるんだろう?」と首をかしげていたそうです。

このような、息子たちが地方の合宿で同世代の地元男子から向けられた「特殊な目線」が、かつてのドラマで描かれた「バブリーとれんでぇ~トキオ」な男女愛憎劇に対する羨望と嫉妬の原動力なんでしょうか?

長谷川孝二さんからのコメント。

村上春樹が好き嫌いの件。
往々にして「好き」と思う人と「嫌い」と思う人は同じ部分に対して感じると思います。
そもそも、全てのことは「好き」な人と「嫌い」な人がいるものですよね。「好きな人」は「嫌いな人」の何倍も何十倍も「それ」に触れているので「嫌いな人」の「嫌いな理由」はわかるもの(同じ意味で、コルトレーンが嫌いな理由も好きな人はわかる)。
好き嫌いは人それぞれで自由ですね。
爆笑問題の太田は好きだけど、村上春樹へのディスりに関してだけ言うならば「あなたは何様でしょうか?裁判官ですか?」(笑)って感じるくらいに【自分の感性に疑問を持とうとしない傲慢さ】を感じます。

「自分が理解できないものに触れた時に」【退屈に感じる人】と【ワクワクする人】と分かれるかもしれませんね。

先日のコルトレーンの好き嫌いポイントの話と同様、まったくその通りだと思います。
人気になればなるほど、あるいは熱狂する人が多ければ多いほど、嫌いな人の「ディスり」の熱狂度のボルテージもアップしているような気がします。
それだけ、毀誉褒貶の落差が激しい人ほど、良くも悪くも強烈に受け手のツボを突く何かを持っているんでしょうね。

博 橋本さん⇒長谷川孝二 さん

好きな小説や音楽も読み返したり聞き返す毎に新しい発見が有ると嬉しいです。
映画やドラマなども同様ですね。

イヤダローさんからのコメント。

春樹さんの本って売れてるみたいだけど、どんな層が好んで読んでいるのか、まずそれが謎です。

作品に中身があるかないかは、エンタメ作品として読んでいるから、気にしないようにしています。だから、アンチで騒いでいる方の心智は解りかねます。「春樹さんの作品読んで犯罪が増えた」とか、そういう話しであれば一緒に非難しますが。

爆笑の太田氏みたいに、「あいつら食べてるサンドウィッチと、俺らが食べてるサンドウィッチは何かが違うんだよ!」って、だったら、クックパッドで調べて、美味いサンドウィッチを作ったらいかがかと思います。春樹氏曰く、「美味いサンドウィッチを作るには良いナイフが必要」との事ですが、それを買う財力も太田氏にはある筈です。

ジャズ評論は、通り一遍ではなく、希少な角度で紹介してくれるので、その通り試聴しています。

「アンチ巨人も巨人ファンの内」というやつなんでしょうね。

巨人が負けて喜ぶアンチ巨人の中には、異常なまでに巨人に詳しい人がいるように、さらにヘタすると普通の巨人ファンよりも細かいこと知っていたりするようにw

それこそ長谷川孝二さんのコメントの通り、好きな人も嫌いな人も注目するポイントって一緒なことが多いんですよ。

あの人は背が高い
⇒背が高いから好き
⇒背が高いから嫌い

なんですよね。

同様に、

ジョン・コルトレーン
⇒吹きまくり(だから好き)
⇒吹きまくり(だからイヤ)

なんだと思います。

あとは、その人の感受性だったり、過去の経験や価値観などが好き・嫌いを決定していくのだと思います。

特にジャズの場合は、

青汁
⇒まずい(もう一杯!)
⇒まずい(もう飲まん)

に近いところがあり(笑)、

フリージャズ
⇒うるさい(たまらん)
⇒うるさい(やめてくれ)

難解そうなジャズ
⇒わからん(だから好き)
⇒わからん(だから嫌い)

音程悪い人
⇒そこがイイんじゃん
⇒だからイヤなんだよ

というように、人がマイナス面と捉えがちなところを、そのままネガティブな反応をする人もいれば、逆にすごく前向きに捉える人の差が大きいエリアなんじゃないかと思います。

話変わって、「売れる本」の話ですが、定期的に書店に足を運ぶ層はいますが、そのような属性の人口は年とともに少なくなってきているようです。
つまり、コンスタントに書店に通い、新刊が出れば出来るだけ購入するようなタイプの人の人数では、とてもとてもベストセラーは生まれません。

ふだん書店には通わないし、本も滅多に読まない人も買うからベストセラーになるんですね。
読書習慣の無い人がなぜ本を買うのかといえば、やっぱり「話題性」が一番大きいのだと思います。

有名人が絶賛しているというような「評判」だったり、映画やドラマやアニメの原作になったという「話題」だったり、芥川賞などを受賞したという「ニュース」だったり、著者が亡くなったという「訃報」だったりと、内容の面白さや、著者の文体や世界観以外の要因が、本を読まない人をも巻き込む大きな理由となっているのだと思います。

だから、話題に釣られて買ったはいいけど、読まずに古本屋行きにしている人も少なくないと思います。
古本屋に行くと、よく見かけませんか?
たとえば『ホームレス中学生』や『火花』など、一時期はメディアで何度も取り上げられて話題になった作品が、鮮度が落ちた今となっては廉価でダダダダダーっと並べられているのを(笑)。

もちろん買って・読んで・いらなくなって売ったというパターンもあるでしょうけれども、買って・読まずに・いらなくなったというケースも多いと思います。

なので、御駄賃取郎さんは偉いと思います。
ちゃんと、10冊も読んだうえで嫌いを明言されているのですから。

読まずに、なんとなくの雰囲気だけで嫌いといっている人も大勢いるなか、きちんと自分で検証した上での結論、そして理由もちゃんと書いてくださっている。
このような人の意見は尊重したいと思います。

そして、結論は、
⇒「なんだ、同じところが好きか嫌いだけの違いじゃん」でしたw

御駄賃取郎さんからの返信。

息子さんのお話、とっても興味深いです。今でもそうなんですねえ。(笑)  
昔も今も地方から都会をみると「コンプレックスの裏返し」?がでるみたいですね。ネットが発達した今でもそうなのですから村上春樹さんや私などの時代はもっと「コンプレックス」がありましたね。それは裏返せば「地元愛・地元の誇り」でもあると思うのですが、生まれも育ちも都会の方はあまり感じないのではないでしょうか?  「東京人の当たり前」はすなわち田舎育ちからみると「コンプレックスの対象」なんだと思います。(笑)

村上春樹さんと同時代、近い時代をすごした世代からみると春樹さんのフィクションの世界には意見がわかれるのは自然なことだと思っています。私は正直「団塊世代が生みだした代表的文化のひとつ」だという気がしております。

>今でもそうなんですねえ。(笑) 
今でもそうなんですよ。
むしろ、ネットで大量に情報収集ができる時代なので、テレビ、ラジオ、雑誌が主な情報源だった昔よりも多くの情報を持っている世代です。だから、地元との差をさらに実感しやすいのかもしれません。

テレビドラマや小説などから、うすぼんやりと妄想する「東京像」よりも、YouTube動画に映るリアルな東京を見ているぶん「ここは勝ってる、ここは負けてる」というような比較をしやすいのだと思います。

>生まれも育ちも都会の方はあまり感じないのではないでしょうか?
私の場合のケースになっちゃいますが、小・中学生の頃は、地方から転校してくる生徒は「面白くて珍しい」存在でした。
こちらにはないイントネーションや、情報を持っていることが多いので。
いちはやく声をかけてすぐに友達になっていました。

特に高校の時に九州から引っ越してきた人なんて、私なんかよりも東京の情報に詳しくてびっくりしました。
中野サンプラザ、渋谷のタワーレコード、新宿のエジソン、吉祥寺のサンロード、浅草のROXなど、はじめて訪問する場所は、彼に連れていってもらいました。彼もおそらく初めてだとは思うのですが、熊本で情報収集していたのでしょうね、すごく東京のスポットに詳しい。それに比べれば、私なんかは「スカイツリーや東京タワーはよく見るけど、当たり前な風景以上のものは感じないので登ったことがない都民」みたいなものでしたね。

その逆のパターンも経験しています。
横浜⇒名古屋近郊⇒大阪近郊⇒大阪近郊2⇒東京下町と転校を繰り返していたので、私は小学校の時は「転校生クン」でした。
名古屋から関西の場合は、「名古屋イントネーションと方言」が面白がられましたし、関西から東京に転校したときは「漫才クン」として注目されまくりました。
都市部のベッドタウンにある小学校ということもあったのでしょうが、他所の地域から転校してくる生徒は「自分たちとは違う面白い存在」として比較的暖かい眼差しで迎えていたような気がします。
もちろん、名古屋でも西宮でも東京から転校してくる生徒は多かったですよ。でも、あまりコンプレックスのようなものは感じませんでしたね。というよりも、むしろ文教地区のようなところの小学校だったこともあるのでしょうが、東京から引っ越してくる生徒のほうが勉強の進度が遅れていたり、学力が劣っていたりすることが多かったので、「東京の小学生は勉強ができない」というような印象をなんとなく抱いていたかもしれません。事実、関西から東京下町に転校したときは、6月ぐらいに習ったところを秋になってもまだやっていないので驚いた記憶があります。

>「団塊世代が生みだした代表的文化のひとつ」
そうなのかもしれませんね。

ちなみに団塊世代より一世代上の親父は、五木寛之の『青春の門』を愛読していたようで、本棚には「筑豊篇、自立篇、放浪篇、堕落篇」などのハードカバーがビッシリと並んでいたことを覚えています。1969年からのシリーズなので、すでに親父は就職した後に読んでいたことになりますが、団塊世代より少し上の世代の心を捉えた青春文学(?)は、五木寛之なのかなぁ?なんても思っています。

映画は見ましたが、ここで描かれる人間描写は同時代やそれに近い世代から見ると、リアリティという面ではどうなんだろう?という興味はありますね。『ノルウェイの森』よりはあるのかな(笑)。

御駄賃取郎さんからの返信。

なるほどなるほど!大いに納得です!
マスターのお父上は私よりおよそ10歳上の世代であられますね。私が就職したばかりの頃、その世代の元気あふれる先輩諸氏がお元気で、多大な影響を受けました。
私の考えでは、高度経済成長を実現したのは、主にお父上の世代であり、団塊世代はそれにに抵抗し、あばれまくって文化をつくりあげたように思います。

お父上の愛読書は五木寛之とのことですが、おそらく「青年は荒野をめざす」などもあったのではないですか?・・あるいは五木さんでも生き様を描いた「青春の門」シリーズのほうが「企業戦士」世代としては実感があったのでしょうか?  私の兄(団塊世代)は「青年は荒野をめざす」にあこがれたといってました。

私は村上さんが「中国ゆきのスローボート」を出された時に完全に愛想がつきました。m(__)m
今後はなかった作家の一人としようと決心がつきました。

もし「人生100年時代」がほんとうなら、いつかジジババの集会であらためて「ハルキ語り」
ができたらいいなあ・・なんてね。(笑)
ありがとうございました。

『青年は荒野をめざす』も、あったように思います。あと『蒼ざめた馬を見よ』なんかもありましたね。
本棚には水上勉の全集なんかもデーン!!と居座っていましたが、こちらのほうは読んだ形跡はなく、五木寛之や松本清張、司馬遼太郎の本などは読まれた形跡がありましたね。

ここでのやり取りを通じて、どんどん色々なことが思い出されるのですが、私が村上春樹のいわゆる御駄賃さん仰るところの「ウソくささ、リアリティの無さ」に対して、比較的寛容なのは、片岡義男をたくさん読んでいたからなのかもしれません。
いわゆる都会チックなセンス良い男女が織りなすキレイでおしゃれっぽいウソの物語に対しての免疫が出来ていたのが大きな理由なのではないかと。
高校時代は、当時出ていた片岡義男の本は少なくとも角川文庫の著作に関しては全部読んでいたので、片岡義男が描きだす都会チックな恋愛劇は、よく出来た、というよりかは、よくデザインされたセンスの良い造形物を、ストーリーを味わうというよりかは、それこそセンス良さげなデザインを眺める感覚で読んでいたように思います。今にして思えば。
そして、『ビッチェズ・ブリュー』のような重層的な音楽も、プレイヤー1人ひとりの個人物語の表出(アドリブ)という目線ではなく、音の複合デザインとして捉えたから最初から抵抗感なく入り込めたのだなと気が付きました。

ご存じかと思いますが、片岡義男は、テディ片岡というペンネームもお持ちの方で、パロディ創作集団「パロディ・ギャング」では、このペンネームで活躍されていました。ジョークやいたずらの本も書かれています。つまり「センス良く嘘をつくのが上手い」人なんですね。たとえば、ある人が彼の作品を読んで、アメリカに憧れて、実際に現地でカウボーイの真似よろしく荒野で缶ビールを実際に撃ったという話を本人にしたところ、してやったりという顔をして、「本当にやったの?」「(書いてあることは)みんな冗談です」と言ったという有名な話があります(笑)。
しかし、「冗談を成立させるためにはリアリズムが必要」という考えもある方なので、だからこそ綺麗に嘘をつかれたという読後感があるのでしょう。
村上春樹の世界は、もっとわかりやすく「あっちの世界」や「よう分からん現象」が出てきて、そこがまた楽しく、また戸惑うこともあるのですが、御駄賃さんの場合は、もしかしたら「嘘のつき方がヘタ」だとお感じになり、どうせ嘘を書くなら、もっとセンス良く嘘をついてくれよとヤキモキしてしまうところに「村上ヘイト」の一因があるのではないでしょうか? と、コレを書きながら考えました(笑)。

博 橋本さんからのコメント。

村上春樹の作品は少し歳上の奴が面白いものを書いている、という感覚で読み始めました。チャンドラーなどに通じる少し昔のアメリカのハードボイルド小説の様な趣を感じて読み続けています。
賛否併せての村上春樹論の様な物は特に読もうとは思いません。
今のところノーベル賞に関してやアカデミー賞の受賞の事も特に関心はありません。

ジャズに関しては「イヤダロー」さんの仰る通りだと思います。
ビル・クロウを通じての興味深い話は繰り返し楽しめます。
学生時代に国分寺の『ピータキャット』は開店当時に何度か通いました。
就職後は移転先にも時々行ってみました。

私も作品そのものは楽しんでますけど、賞を取るとか取らないとかに関しては、まったく興味ないですねぇ。
まあマスコミや出版業界は、これがひとつ大きなネタになるから注目するのは分かるのですが、一般の人たちで受賞を気にしている人たちには、賞を取ったら読むの? 賞を取ったら面白いと感じるの? 賞を取ったら自分の中の評価が変わるの?って聞いてみたくなっちゃいますね。

カトウシュンさんからのコメント。

私は村上春樹の小説は読んだことはないのですが、爆笑問題の太田さんは村上春樹をディスったり、深夜に放送してるラジオ番組でもネタにしたりしていました。
本当に嫌いだったら話題にしたりしないでしょうから村上春樹は嫌いだけど気にはなる存在なのかなと私は思いました。

私もそう思いました。
けっこうちゃんと読んでるんですよね。

1959 lionさんからのコメント。

私も村上春樹全て読んでます。
でもハルキストは大嫌いです。

takashi deguchiさんからのコメント。

Horace Parlan だと Lament for Boocker がとても好き

Sugar も良いけど Impressions の Ron Carter は、堪らんですよ

Assam Teaさんからのコメント。

村上春樹を読む女性がまわりにいなかったのは不思議ですね。私は好きじゃないけど、一応何冊か読みます。ドライブ・マイ・カーは見に行きました。海外で本当に人気な理由はわかりませんがドイツの映画館はたくさん入ってました。

けっこうたくさんの国で翻訳されているようですし、ドイツ語訳の場合ですと長編専門と短編専門の翻訳家がいらっしゃるようです。
ドイツ人にとっては、どのようなところが琴線に触れるのかとても興味があります。

長谷川孝二さんからのコメント。

「結局どういう話だったんだろ?」とか「結局どういう演奏だったんだろう?」に対して、太宰治がとても上手いことを「如是我聞」というエッセイで書いています↓

◆もう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、翌あくる朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔ふつかよいである。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。その幸福感を、翌る朝まで持ちこたえなければたまらぬという貪婪どんらん、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人であった。

>宿酔ふつかよいである。

そうか、これって太宰だったんですね。
というのも、高校生くらいの時、北方健三のエッセイだったか、『Hot Dog Press』の人生相談(試みの地平線)だったか忘れましたが、ハードボイルド作家が読者に提供できるもの、それは「宿酔(ふつかよい)である」と書かれた文章を読んだことを覚えています。

当時は、へぇ「二日酔い」と書かずに「宿酔」という書き方もあるんだ、と妙に感心した記憶があるのですが、もしかしたら太宰治のこの言葉を引用していたのかもしれないなと思いました。

昔の私は、酒吞んで、楽しく騒いだ翌朝は、楽しかった記憶だけは残っているのですが、「なんで、あれが楽しかったんだろう?」なんてヘンに意味を求めてしまうことがよくありました。
特に意味なんかなくても、その場が楽しければそれでいいじゃんと酔っている時は思うんですが、どうもシラフになると意味やら因果関係やらを考えてしまうので、いかん、いかんと思ったものです。

青嵐さんからのコメント。

いつも楽しい動画有り難う御座います。一年遅れですが、団塊世代の端くれとして村上春樹について思うところがあり.御議論に参加します。村上氏の文章を読んだのは、ビルクロウの「さようならバードランド」の翻訳本が最初です。このとき村上氏のことは何も知らず、クロウのジャズ経験の面白さを楽しんだだけでした。村上氏を意識したのは、チャンドラーの新訳本が出たときです。句点が少なく読点で文章が長々と続いていても読みやすいので、文章の上手い人だと感心しました。ただそれだけです。今も村上文学なるものを読もうとは思いません。そういう私もガキンチョのころは大江健三郎をよく読みました。彼の「われらの時代」のなかに、海岸を疾走するオープンカーに乗る女性の描写を「ジャズシンガーはほとんど裸だった」と書いていたと記憶しています。これが「ジャズ」なる言葉との最初の出合です。中2か中3のこのころ、友人宅で友人の兄さんが持っていたコルトレーンの「ジャイアントステップス」とMJQの「コンコルド」を聞かせてもらい、これが実際のジャズとの出会いとなりました。大学に入り「A Love Supreme」と黒ペンキで大きく書きなぐられた校舎に通うようなると、高橋和巳にはまりました。大江氏共々、主体的であらねばならない近代的自我を背景に、主人公が自己崩壊自己破滅する文学です。高橋氏の場合は自己破滅の群像劇となっているのでたまりませんでした。何だか後期のコルトレーンみたいな気がします。その後文学とやらに食傷し、推理小説・冒険小説・スパイ小説・幻想小説などを楽しみのために読んでいる自分に気づきました。昨年コロナに感染生死の境をさまよい半年入院、のこされた時間が気になり文学はもういい、今や読書もジャズも快楽主義に走っています。文学者としての村上氏には、食わず嫌いで申し訳ないです。ところで最近悲しい出来事を見つけました。大学に「乱入」しておこなわれた山下洋輔の「ダンシング古事記」のゲリラコンサート、録音がよくないのですが元気な頃よく聞いていました。近頃村上氏が企画し「再乱入」と称して大学の共催のもと、大学構内で同じ山下洋輔のコンサートがおこなわれたようです。大学との共催のもと「再乱入」はありえないと思います。村上氏を始め皆さん大学という強大な文化装置の前に屈服したのだろうか。大学4年のとき大学が許せなくて仲間と共に入学式に乱入した私にとって、ジャズが権威主義にもてあそばれた事例として悲しくなります。

>近頃村上氏が企画し「再乱入」と称して大学の共催のもと、大学構内で同じ山下洋輔のコンサートがおこなわれたようです。
そんなことが最近あったんですね。
なんか、今、それをやる意味あるんでしょうかね??

青嵐さんからの返信。

コメントを読んでいただき、早速の御返信有り難う御座います。