先日アップした動画「ジャズの演奏において「引用」や「借用」は悪いことなのか?」(こちら)にいただいたコメントへのお返事です。
コメント
pppさんからのコメント。
「完全な即興など有り得ない」それに挑戦したのがデレク・ベイリーやジョン・ケージでしょうか。
ああ、ジョン・ケージのジャズ批判でよく引用される有名な言葉がありましたよね。
Macahn Sakuraiさんからのコメント。
ジャズはいろいろなインプロが有るから楽しいですよね。おっしゃるとおり、何しろ沢山のミュージシャンを聴くことが大事だと思います。
田村昌久さんからのコメント。
皆さんが アドリブをここまで掘り下げて聞かれていることに賢いなぁとつくづく感心しました🤗
この演奏の意味するものは?というジャズになったのは、マイルス様やコルトレーン様が色々やり出してからなんでしょうかね🤔
そう言う私も若い頃は、フリージャズを極めようと一念発起した時期もありましたが、今は 1音聞いただけでヨッ!待ってました!!と言えるジョニー・ホッジスやベン・ウェブスターを聞いて 沁みるなあ😭と感動する毎日です😉
古今亭志ん生や桂文楽や桂米朝が口座に上がった姿を見るだけで客が満足したように🤗
でも 色んな聞き方があるのがジャズという音楽の奥深さであって魅力なんですよね😀
ただ 最近 自分の感性が寺島先生に近くなったのかなぁ?🤔と思う時があります😥
でも やっぱりハウス・オブ・ブルー・ライツだけは納得できません🤣🤣🤣🤣
べらんめえAORおやじさんからのコメント。
ジャズ評論家が大西順子さんに ところであなたは何を言いたいのですか?これは愚問ですね。
>これは愚問ですね。
おっしゃる通りだと思います。
もし「言いたいこと」が明確に「言葉」で定義できるなら、最初から音ではなく文章で説明しているでしょう。言葉で説明できるものは、最初から言葉で語ればいい。
でも、ジャズという表現の核心は、まさにその逆にある。言葉にならないからこそ、音で「自分」を出す。だからこそ、ジャズミュージシャンは「自分」を「音」として差し出すしかないなんじゃないかと。
そして、その「言いたいこと」とは何か。
究極的には、多くのジャズマンにとってそれは「思想」や「メッセージ」以前に、「自分」そのものなのではないかと、私は思っています。(もちろん、思想やメッセージを前面にありきで、曲を作ったり、演奏したりしている人もいるますが/そして、そのような人たちにも私は否定的ではありません)
仮にそれが、先人たちが築き上げたスタイルであったとしてもいい。
先人が残した、あまりにも美しいフレーズであったとしてもいい。
たとえば、敬愛するバド・パウエルが弾いた、誰もが知っているあのフレーズを、「私はこう弾きました」。それでいいじゃないか、と私は思うんです。
なぜなら、演奏する人が違えば、たとえ同じフレーズであっても、受け手が感じるものはまったく変わるからです。
これは本の朗読と非常によく似ているんじゃないかと。
国語の授業で、生徒が同じ文学作品を朗読する。文章は一字一句同じでも、声色、テンポ、間の取り方、息遣いによって、伝わってくる情景や温度は大きく変わる。
演奏も同じです。音符は同じでも、身体を通った瞬間に、別のものになる。
実際、「パウエル派」と呼ばれるピアニストは数多く存在します。
彼らはパウエルの楽曲やフレーズを繰り返し演奏してきましたが、誰一人として「パウエルそのもの」には聴こえない。
肌触りが違う。呼吸が違う。そこには確かに「その人」が立ち上がっている。
バリー・ハリスにしても、クロード・ウィリアムソンにしても、初期のケニー・ドリューやホレス・シルヴァーにしても、みーんな違いますからね、同じパウエルフレーズ弾いても。
だから私は、即興演奏の中に
・あらかじめ作られたフレーズ
・先人を模倣したフレーズ
・「ここで使おう」と事前に準備された素材
が含まれていても、まったく問題ないと思っています。
それを通して「自分」が出せるなら、それでいい。
そもそも、完全に無垢な即興演奏など、ほとんど存在しません。
本当にその場の思いつきだけで、多くの聴衆を驚かせ、感動させ続けられる人間は、歴史を見てもほんの一握りです。
チャーリー・パーカーやソニー・ロリンズ のような、例外的な天才たちでしょう。
しかし、マイルス・デイヴィスにしても、ジョン・コルトレーンにしても、さらには若手にアドリブを「作曲」させ、それを添削していたチック・コリアにしても、即興の裏側には膨大な準備と仕込みがあった。
換言すれば、ジャズの即興演奏とは、ゼロから突然生まれる奇跡ではなく、蓄積された素材の「組み合わせ」なのだと思います。
もっとも、評論家の視点に立てば、「誰の影響を受けているのか」「どのスタイルに属するのか」という分析が重要になるのも理解できます。そうでなければ文章は書けないし、批評という営み自体が成立しない。
だから、おそらく「何が言いたいの?」という問いの本音は、「あなたは結局、どのスタイルの人なの?」「誰の系譜に連なっているの?」という意味なのでしょう。
でも、演奏者本人が無理に自分をスタイル分類する必要はないし、そんなこと考えながら演奏しなくても、後から他人が勝手にやってくれますからね。
いろいろな敬愛するミュージシャンを通して、そのフィルターを通して、それでもなお音の中に「自分」が立ち上がってくるなら、それで十分だと、私は思っています。
たとえ同じフレーズを弾いていても、たとえ同じ曲を演奏していても、最終的に「自分」が聴こえるなら、それは立派な即興であり、立派な表現だと思います。
そして、その「言いたいこと」は、説明されるためにあるのではなく、感じ取られるためにあるんじゃないかと、私はそう思っています。
べらんめえAORおやじさんからのコメント。
完全に無垢な即興演奏など殆ど存在しません。おっしゃる通りです。オーネットコールマンのフリージャズの驚くべきヴァイタリティと物凄いまとまりをもった37分の演奏は感動しました。
素晴らしい感性です!😃
>フリージャズの驚くべきヴァイタリティと物凄いまとまりをもった37分の演奏は感動しました。
2020年8月26日 11:35
